第四章 月淡く闇深く (1)
――――なぜ
自分の腕の下で喘ぐ女の顔に、少年―――アシャンは食い入るように見入った。
泣き濡れた頬に張り付く、乱れた黒髪。
涙にうるみ、恐怖に張り詰めながらも、自分を睨み返してくる、夜の闇のような黒眼。収縮した金色の瞳孔。
黒髪黒眼。
そんな色彩を身にまとう人間は、この宮でたった一人だ。
なぜだ?
なぜシルヴィア皇女がここにいる?
「アシャン、答えなさい。ここで何をしていたの?どうして女の姿をして宮にいるの?」
アシャンはシルヴィアの問いを無視して、その体に視線を落とす。
侍女のお仕着せと、黒髪をおおい隠すフード。ほどけた黒髪も、かつては固く結い上げていたらしく、外れてしまった髪結の紐が、頼りなく白い首筋にまつわっている。
なるほど。そういうことか。
意を得たとばかりにアシャンは薄く笑った。
「さしずめ侍女に扮してのお忍びという所ですか。こんな夜更けに散歩ですか? それとも誰かと逢引でも? 身持ちの悪さと放浪癖は母親ゆずりというわけですね」
嘲りを込めてそう言うと、自分を見上げる黒眼に屈辱の火がともる。それを確認して、アシャンは言葉をつなぐ。
「それにしても無用心ですね。供の者も連れずに、たった一人で出歩くとは」
「それはどうかしら? いまごろ供の者が人を呼びに言っている頃かもしれなくてよ」
「襲われている主人を置いて、ですか?」
どうせはったりだろう、と鼻で笑って見せると、皇女の瞳がたじろぎに揺れる。
「…それが正しい状況判断だわ」
「それに気配で分かります。さっきは水の音で貴女の近づく気配を逃してしまったが、他の誰かが逃げ去っていく気配はなかった。今近づいてくる気配もない。貴女は一人だ」
畳かけるようにそう言うと、皇女は観念したように口をつぐんだ。
そのシルヴィアの表情を見て、アシャンは彼女が正真正銘、一人である事を確信した。
皇女が一人なのは不幸中の幸いと言うべきか。
だがだからと言って、正体を知られてしまった、この状況が変わる訳でない。
油断した。とんだ失態だ。
言い逃れの出来ない現場を目撃されてしまった。しかも見られた相手は、よりにもよって皇女様と来た。
(どうする?)
決まっている。見られた人間は生かしてはおけない。それが一介の侍女であろうと皇女であろうと変わる訳ではない。
人の命を奪うという行為に関して、いまさら抵抗など覚えない。
人を騙すこと、裏切ること、殺すこと。
それらはすでにアシャンの第二の本性だ。
あの二年前の落城の日から今まで、自分がこの場所に辿りつくためには、それらが必要だった。いな、必要だと信じた。
生き抜き、目的を果たす。
そのためには良心や自尊心は邪魔以外の何でもない。そうと思い定めて、襲われるままに殺し、求められれば他者の足の裏をも舐めた。最初こそ受動的に、しかしやがては能動的に自らそれを活用する方法を覚えていった。
他者に媚へつらい頭を下げることも、自分を信じた人間の寝首をかくことにも、いつしか心は何も感じなくなっていった。
何くわぬ顔をして相手の懐にもぐりこみ、信頼を勝ち取り、それを利用する。そんな事くらい笑みを浮かべてやってのける。相手を油断させるためには精神的な奉仕だろうが、肉体的な奉仕だろうが厭いはしない。
自分はそうやってここまでやって来た。
男だろうが女だろうが、何の罪もない人間など腐るほどこの手にかけてきたのだ。いまさら同情や良心の呵責に揺らいだりしない。
ましてや、いま自分の目の前にいるのは他でもない、帝国の皇女、憎んでやまない敵の娘だ。
罪悪感など微塵もない。いやむしろ機会があらば、その喉笛を掻き切ってやりたいとすら思っていた。
殺すという点では問題ない。
(問題はその後だ)
死体をこの泉の底に重石をつけて沈めるとしても、仮にも皇女が行方不明になれば大騒ぎになる事は必死だ。それだけでも動きにくくなる。
遅かれ早かれ、皇女の死体は発見され、調べは早晩、自分にも及ぶだろう。そうなれば一貫の終わりだ。身体検査の一つで自分の性別は割れる。宮仕えの侍女が実は女に化けた男、ではどんな言い逃れも意味はない。
皇女殺害の嫌疑は言うに及ばず、自分の素性が割り出されるのも時間の問題だ。
(なら自殺に見せかけて殺すか? 発見が遅れれば水死体のことだ。自殺か他殺かの判別もつきにくい)
それでも同じことかもしれない、とも思う。仮にも皇女が死ねば側付きの者は相応の取調べを受けるだろう。
それでも―――やるしかない。他に選択肢はない。迷っている時間もない。
少しでも露見の恐れの少ない方法、少しでも長い時間を稼げるやり方で、
(この女を殺す)
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