第三章 夜半、畔にて (3)
身をひるがえし、逃げようと思った時には遅かった。
少年は岸辺に置いてあった衣服の元へ素早く駆け寄り、畳んであった服の下から短剣を抜き取ると、シルヴィアに追いすがった。
外套の裾を掴まれ、力任せに引っぱられて、シルヴィアは転倒する。
体勢を取る事もかなわずに背中から地面に打ちうけられ、衝撃と痛みに全身を仰け反らせるのも、ほんの一瞬。
上から降ってきた手に口を塞がれ、人一人分の重みがのしかかってくる。
シルヴィアは、無我夢中で相手の腕に爪を立て、やみくもに首を振って抵抗したが、それも喉元に短剣をつきつけられるまでの話だった。
「動くな」
ひやり、と冷たい感触が喉をつたう。
皮膚を食む生々しい刃の感触が、この上なく即物的に死を実感させ、シルヴィアを動けなくさせた。
汗と、泉の水に濡れた男の裸体がのしかかってくる。両脚で腰を締め付けられ、下半身の自由を奪われる。
近づいてくる襲撃者の顔。反射的に身を引こうとするが、口を塞ぐ手は重く、シルヴィアの頭部を地面に押しつけていて、顔の向きを変えることすら出来なかった。
「…ん……ん、んん」
容赦も何もない、力づくの拘束の下でシルヴィアはうめく。
声にならない悲鳴。
相手の重みと喉元の刃に、呼吸すらおぼつかないのに口を塞がれているのだ。
皮膚があわ立ち、四肢がこわばる。生理的嫌悪に血が逆流する。
吐き気が込み上げてきて、体を曲げて咳き込みたい衝動。しかし体勢をかえる事はかなわない。
身動き一つままならず、声を上げる事も許されず、相手のするに任せるしかない。
たった一つ自由になる目から止め処もなく涙がこぼれ、シルヴィアの頬をつたい、耳に流れた。
襲撃者はそんなシルヴィアを見下ろしても眉一つ動かさなかった。
その能面のような無表情に、シルヴィアの知るアシャンはいない。粗相をして許しを乞う時に見せた緊張の眼差しも、自分を慰めた時に垣間見せた、はにかんだ微笑も、そこにはない。
無機質な殺意だけが、自分を見返してくるのだ。
荒い呼気が耳にかかる。
襲撃者はシルヴィアの耳に唇を押し立て、ささやいた。
「声を上げるな。悲鳴を上げたら殺す。抵抗の素振りを見せても殺す。分かったか? 分かったなら口を解放する」
どちらにしろ殺される事に変わりはないのかも知れなかったが、シルヴィアは少しでも長く生きる方が選んだ。
自分に馬乗りになった相手に顔を上げ、涙の溜まった目を瞬きさせる。了解の旨を伝えるために。
シルヴィアの口を塞ぐ手がゆっくりと外されていった。だが喉元の短剣はそのままだ。
「答えろ。お前は誰に仕える者だ?」
そう聞くと答える間も与えず、シルヴィアのフードを乱暴に剥ぎとった。その拍子に緩くなっていた髪結がほどけ、ながい黒髪が零れ落ちる。
「黒髪?」
襲撃者は訝しげにそう呟き、顔をそむけようとするシルヴィアの頤をつかんで引き上げた。
頬に食い込んだ指の力に、むりやり正対させられたシルヴィアは逃れられないと観念し、泣き濡れた瞳に渾身の力を込めて襲撃者を睨み上げた。
「まさか見忘れたとは言わないわよね。他でもない自分の主人の顔を……性別詐称の侍女さん?」
精一杯つよがったつもりだったが、声は震えていたし、おそらく笑みも引きつっていただろう。
自分を見つめる相手の面に、ゆっくりと認識の色が広がっていき、やがて驚きの声が落ちた。
「……シルヴィア皇女?」
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