第三章 夜半、畔にて (2)
皇宮の庭園の片隅にその泉はある。
入り組んだ庭園の中、道なき道を右に左に折れて歩き続けること暫く、まるで造園者の気まぐれで作られたような小さな泉に出る。
皇宮の見取り図にも乗っていない、主庭園から遠く離れたその場所は、あらかじめ位置を知っているか、散策していて偶然まよい込むのでもなければ、まず発見する事はないだろう。
それゆえに四年前、シルヴィアの母の溺死死体がそこで見つかった時も発見は大幅に遅れた。姿の見えないイン・シァン妃に対して本格的な捜索が始まって、まる二日以上も立った後だったのだ。
今でも、シルヴィアはその夜の母親の姿を脳裏に描きだすことが出来る。
初夏の蒸し暑い夜だった。松明の光に照らし出される、母親の死体にシルヴィアは知らず息を呑み、呼吸も忘れて注視した。
濡れそぼり藻の絡まった黒い髪が、真っ先に目についた。
次いで白蝋と化した真っ白な皮膚。
記憶にある弾力に富んだ滑らかな皮膚ではない。松明の光をてらてらと映し返す石膏の皮膚は、いかにも人工的で無機質、血の通わない人形そのものだった。
体の内の柔らかい部位は虫に食い荒らされ、小さな虫食い穴が皮膚のそこここに空いていた。幸いだったのは、虫食い穴から露出する肉もまた白く、赤い血の生々しさとは無縁だったことだ。
掌部分の皮膚は、皺が寄って浮き上がり手袋状にべろべろになった挙句、指の部分の皮膚は剥離し始めていた。
死後二日半から三日の死体は、すでに膨張を始めていた。顔は膨らみ、鼻や口など顔の部分を圧迫して、元の細面は見る影もない。東洋の神秘と謳われた黒眼も、眼球部分が食い荒らされて、黒目の大部分がなくなっていた。
眼球をなくして尚、目を見開く母の死顔から、シルヴィアは目をそらせなかった。変わり果てた面貌のどこかに、かつての母の面差しを見出そうとしたのかもしれない。
その夜以来、シルヴィアは母の命日になると宮を抜け出して、母の死体が浮かんでいた泉を訪なう。
――母のような生き方はすまいという戒めのために、私は母を訪うのよ。
セシーラにはそう言ったが、本当のところ、それのみが理由かどうかはシルヴィア自身にも分からない。
ただ泉に浮かんでいた母親の死体は生きていた時よりも、生々しくシルヴィアの心を揺さぶった。それを悲しみと呼ぶのは、適切ではないかもしれない。
たおやかだった母親の佇まいと、醜く膨れ上がった溺死体。
弱弱しく萎れていた生花と、暴力的なまでにグロテスクな死花。
まるで両極端な二つの姿はシルヴィアを混乱させ、心の中の母親像を二分した。両者を繋ぐ何かを見つけ隔たりを埋めない事には、自分がどうにかなってしまう気がした。
母の死の理由、その全貌を知りたいと痛切に望んだ。それは強迫観念と言い換えてもいい。
公の発表のように自殺だったのか、裏で囁かれているように、皇帝の寵姫をねたんだ他の愛妾の仕業だったのか。あるいは、やはり――
シルヴィアは知らず掌を握り締める。
あれほど無残な形の死を、自ら選んだり人に強制されるほどの激しい何かが、あの意志薄弱な母の裡にひそんでいたとでも言うのだろうか?
それとも修羅は母を死に追いやった者の中に?
母を愛していたわけではない。
物心ついた時から、耳に注ぎ込まれ続けてきた、母親の泣き言と繰り言。鬱屈と不満。その一々に同情し心を痛められたのは、せいぜい七、八歳ぐらいまでだった。十歳にもなった頃には、壊れた人形のように同じ言葉しか繰り返さない母親に対して、哀れみと軽蔑以外の感情は失せ果てていた。
母の生前、常に不平不満の捌け口となっていたシルヴィアは、その死に際して、初めて『イン・シァン』という人間の人生に興味を覚えたのだ。
■
水の匂いを肌に感じ取り、シルヴィアは目指す場所が近いことを知る。
松明を持てない道中では、月明かりだけを頼りに木の枝をよけ、茂みを掻き分け歩いたもので、ずいぶんと時間がかかってしまった。
最後の茂みを抜けて泉の正面に出ようとした時だ。
ぱしゃん、
と水の跳ねる音を聞いた気がして、シルヴィアは、ぎくりと足を止めた。
(……先客?)
例の事件以降、泉の存在は公に知れる所となったが、縁起が悪いのと元々、不便な場所にあるのとで、訪なう者は少ない筈だった。
イン・シァン妃を悼むのであれば、正式に立てられた墓前を訪れれば事たりる。これまで一回だって年に一度のお忍び行の目的地で、他の人間と鉢合わせした事などないのだ。
ならば、この先にいるのは誰か。
動機が早くなるのをシルヴィアは自覚した。まさか、という思いが胸を締め付ける。
あり得ないと理性が訴える傍らで、非現実的な発想は一瞬にしてシルヴィアの頭を埋め尽くした。
――母様?
ぱしゃん、という水音が今度は幻聴ではありえない音量で耳朶を打った。
誰かが水の中にいる。
こんな夜更けに、人目を忍ぶように。決して澄んでいるとは言えない泉の水で水浴びでもしているというのか?
茂みごしに、ちらちらと揺れる白い何か。
記憶の中にある真白の肌が、それに重なる。白蝋と化した皮膚。虫食いに綻んだ皮膚。変わり果てた姿の――
(母様……母様なの?)
誘われるようにシルヴィアは茂み掻きわけて、泉に出た。開けた視界。水音の主が、そこにいた。
月明かりに浮かび上がる、濡れた裸体。
むき出しの白い皮膚に絡みつく長髪。
黒い……いや、違う。
茶、だ。
水音の主の髪は茶色。黒ではない。
(……母様ではない)
しかし落胆は長くは続かなかった。
追って気付いた事実に、シルヴィアは過去の亡霊から引き離されて、一気に目の前の現実に引き戻された。
そこにいたのは、確かに母などではなかった。そこにいたのは――
かつて、自分よりもよほど皇女に相応しいと、自虐的な感想を抱いて眺めた、薄茶の髪。
澄んだ淡緑の瞳。怖じず、媚びず、自分を見返してくるその直ぐな眼差しに自分は興味を引かれ彼女を側付きにした。
「…ア、シャン……?」
かすれた声がシルヴィアの喉を震わせた。
確かに、その顔はアシャンのものだった。今日の午後までは、自分の身の回りの世話をしていた相手だ。どうして見忘れられるだろう?
それにも関わらずシルヴィアは、にわかには、それが自分の知るアシャンだと信じられずにいた。
侍女のお仕着せを脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿になったアシャンの体は、貧弱ながらも筋肉の線があらわだった。
贅肉をそぎ落とし徹底的に絞り込まれた体の輪郭は細くはあるものの、どんな女性らしい丸味も帯びてはいない。鋭角的かつ直線的な線で構成される野生の獣のような体躯は、絶対に貴族の女のものではない。
同時に、発育の遅い少女、などというのでもない。
膨らみの兆候すら見られない平たい胸と、射るような淡緑の眼が、目前の人間の性別をこの上なく明瞭に伝えていた。
男。
いえ、少年? アシャンが?
なぜ?
そう口にしようとした時だった。知らず後退りしたシルヴィアの足が小枝を踏みしだき、パキリという音が永遠とも思えた睨み合いの均衡を崩す。
アシャンの、否、少年の淡緑の瞳が、驚愕から警戒に切り替わり、敵意に色を変えた。
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