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王太子とダジャレ侍女 作者:菜宮 雪
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8.決断

 翌朝、アンジェリンは体調不良を理由に数日仕事を休ませてほしいとマリラに頼んだ。マリラは、充血した目をしてまぶたを腫らしたアンジェリンの顔に驚き、快く休暇を認めてくれた。

 アンジェリンは城門へ向かった。こんな気分で仕事などとてもできそうにない。こぶし大の石が隙間なく敷き詰められた石畳の通路を歩いていると、誰かが後ろから走ってきてアンジェリンを呼び止めた。
「アンジェ、待ってくれ」
 この呼び方をする人物は城内に一人しかいない。足を止めて振り返ると、やはり思ったとおりの男性、王族の警備をやっているレクト・セシュマクがいた。濃い緑色の制服、腰には警棒。筒状の丸い帽子の下から茶色い髪が見え隠れする。愛嬌のある茶色く丸い瞳に温厚そうな厚めの唇。警備兵ならではの頑丈そうな体つき。
 彼は、アンジェリンの家のような廃貴族の子息であり、アンジェリンと同時期から城に出仕していた関係で前から仲が良く、駄洒落を披露し合う良い友だった。彼は、以前、アンジェリンに交際を申し込んだことがあるだけでなく、兵士たちの間にアンジェリンの洒落を広め、フェールが密かに窓越しににらみつけていた相手でもある。

「おはよう、アンジェ。あれ? 目が腫れているじゃないか。どうしたんだよ」
「ちょっと体調が悪くて。数日休ませてもらうことにしたの」
「風邪かよ。熱があるのか?」
「そうかも」
 熱などないと自分でわかっていてもそう言った。これは心の熱。人には言えない。
「じゃあ、ゆっくり休んで早く元気になれよ。それからさ……」
 彼は、言いにくそうに自分の指先をもじもじとすり合わせた。

「レクト、何? 私に何か用事があったんでしょ?」
「うん、あのさ、今度の冬祭り、俺と一緒に行かないか? 仕事の休みを合わせて、三日間のうち、どこかで半日だけでも」
「ああ、もう冬祭りの時期」
 レクトはもう一度、「俺と一緒に」とくりかえした。
 アンジェリンは彼の顔を視ずに返事をした。
「私、今年の冬祭りは中止になると思うの。もうすぐ戦争が始まるわ」
「やっぱりお祭りは中止かなあ。本当に戦争になると思う? セヴォローンが負けるなんて思えないから、戦争を恐れはしないけど、俺はそんなことで祭りがなくなってしまうこと方が悲しいよ。【祭り】がなくなったらそれこそ【後の祭り】じゃないか?」
 レクトの駄洒落にアンジェリンは笑えず、普段のように駄洒落で返すこともできなかった。
「きっとお祭りどころじゃないわ。ごめんなさい、私、帰る。心配してくれてありがとうね」
 アンジェリンは、まだ何か言いたそうなレクトを残して城門へ向かった。
 ――ごめんなさい、レクト。
 レクトが、アンジェリンに振られた今でも恋心を捨てていないことは薄々感じる。彼が女性なら誰にでも手を出すような軽い男ではないことも承知している。レクトが広げた手に飛び込めば、普通の女性としての幸せが手に入る気がする。
 ――でも、私の両親のことを知ったら、たぶんみんな逃げて行くわ。私は誰とも恋なんかしないし、結婚もできないって思っていたのに。
 やさしくしてくれる男性がいても、自分の出自のことを思い出して、恋心を持てずにどうしても一歩引いてしまう。
 ――それなのに。
 アンジェリンは息を止めて、頭の中に湧いてきたフェールの顔を振り払おうとした。
 強引な口づけだった。あまりにも突然で、熱く、情熱的で。
 彼のやわらかな唇。熱い彼の吐息。腰に回された彼の暖かな手。至近距離で見た琥珀色の瞳。そして、膝を折っての正式な求婚。なにもかもが、倒れそうになるほどの出来事。一国の王太子が、それも、隣国の王女を迎えることが決まっている王子が、身分のない女を妃に望むとは、ありえない夢を見たような感覚は今も続いている。
 ――殿下……。
 考えるだけで顔が赤くなり、目がしょぼしょぼして涙が出そうになる。駄洒落を披露した時にフェールが見せる作り物でない笑顔と、時折見せる子供っぽく強引な言動は、多くの人々の前で見せる王子の顔とは全く違っていた。
 今はフェールのすべてが、頭の中でぐるぐる回る。心臓を軽く絞め挙げられているような気分になってしまう。
 ――私はどうかしているの。【たま】には【頭】を冷やさなきゃ。そうよ、冷静になったらきっとすっきりして、涙なんか出て来なくなるはず。

 アンジェリンはその日から城近くにある小さな自宅の一室に引きこもった。
 普段家にいるはずの使用人は、ここ数日に限ってちょうど誰もいない。
 幼いころから常に傍にあり、乳母兼ね侍女のような存在である三十代の女性、ターニャは、祖母が病死したため、まとまった休みを取って田舎へ帰り不在。
 他には、御者と馬番、庭師などを兼任している男もいるが、この男もターニャと同じ村の出身で、ターニャを馬車で送っていくついでに一緒に休暇を取り、やはり留守にしている。
 父親のロイエンニはアンジェリンと同じく不規則な城勤めで、ほとんど不在。少しの時間帰ってくるときはあるが、屋敷内はほぼひとりきりに近い。
 静かに考えるにはいい機会だった。

 アンジェリンは食事を作る以外は自室に引きこもっていたが、さすがに三日目になったとき、ロイエンニが部屋を訪ねてきた。
「アンジェリン、気分はどうだ? 今日も休むならば、そう伝えておくが、今夜私は城泊りで帰れない。ひとりで大丈夫か」
 入って来たロイエンニはすでに上着を身に着けていた。侍従長であることを示す赤い襟がついた濃紺の上着。清潔に後ろにきっちりなでつけるように固めた黒い髪には、灰色がちらほら混じる。
 寝台の上にペタンと座り込んでいたアンジェリンは顔をあげた。
「私はもう大丈夫よ。お父様は今からお仕事なのね?」

 ロイエンニは寝台へ近付き、寝台の上にいるアンジェリンをやさしい目で見下ろした。
「フェール様と何があった」
「えっ、何もないけど……」
 いきなり出された名前に、アンジェリンは思わず泣きそうになってしまった。
 ロイエンニは、アンジェリンの寝台横に腰を下ろした。
「もしかして……おまえ、あの方のお子を」
「いいえ! 違う、そんなことは絶対にないから」
 ロイエンニは父親らしく、アンジェリンの頭にそっと手をやり、やさしくなでた。
「王太子殿下がおまえを大切に思ってくださっていることは私にもわかるが、あの方は結婚すべきお相手が決まっている」
 侍従長であるロイエンニは、城ではほとんどの時間を国王の側で過ごしており、情報に間違いはない。
「知っているわ。殿下のお相手はザンガクム国の王女様でしょ? 本決まりだってココルテーゼが言っていたもの。それでも殿下は、こんな私の手を取って、跪いてちゃんと求婚してくださったの」
 ロイエンニは驚いたように眉毛を少し動かした。

「殿下がおまえを迎えると言ってくださったのか。この状況で求婚とは……気まぐれとも思えるが……」
「おかしいでしょ? 私も変だと思うもの」
「殿下はそれなりの覚悟で求婚なさったと思うが、おまえの出自については知っておられるのか?」
「私はいやしい平民の子だとお伝えしたのに、殿下はそれでもいいとおっしゃって。でもどろぼうの娘だとは言えなかった……そんなことを言ってしまったら、王族の方々のお世話をさせてもらえないどころか、お城を追い出されるに決まっているわ」
「殿下は本気なのか。酔ったはずみの冗談ではないのか?」
「酔っておられたようには見えなかったわ。気まぐれならどれほどよかったか」
 ロイエンニは苦い顔をしたまましばらく考えていた。

「それで、おまえはどうしたいのだ」
「……どうって……わからない……」
「求婚の返事は」
「何も言っていないわ。殿下はその気でいらっしゃるみたいだけど。断られるなんて思ってもいない感じで」
「大事なのはおまえの気持ちだ。嫌ならきちんと断るべきだ」
「嫌とかじゃなくて……」

 アンジェリンは、うつむいたまま、間を置いてから答えた。
「自分でもよくわからない。好きって、そんな言葉で簡単に言えることでもなくて。あの方と一緒にいるとうれしくて楽しくてドキドキするのに、いろいろ考えると涙が出てきてしまう。とても苦しいの。気が付くとあの方のことばかり考えてしまう。いくら求婚してもらったからといって、お相手が決まっている殿下と、こんな私が結婚なんてできるわけがないじゃない」
「結婚など形だけのもの。おまえが恋を貫いて、すべてを捨てて殿下と逃げるつもりならば、私は見て見ぬふりをしよう。黙って出て行きなさい」
 アンジェリンは、はっ、と顔を上げた。
「お父様、そんな」
「私も駆け落ち同然で結婚したからな。恋をすれば幸せと同時に様々な葛藤もやってくる。だが、覚悟があれば、どんなことでも乗り越えられる。私はモカーヌと結ばれたことで親兄弟との縁も切れてしまったが、幸せだったし後悔もしていない。だから、おまえも後悔しない人生を選べばいい」

 モカーヌとの恋を貫いたロイエンニの熱愛の話は、アンジェリンもよく知っている。ロイエンニよりも七つも年上で、しかも不治の死病を抱えていたモカーヌ。結婚を望んだ当時のロイエンニはわずか十六歳の学生。彼の卒業後の仕事として城勤めは決まっていたものの、周囲がこの結婚に反対しないわけがなかった。それでも二人は勝手に挙式し、周囲の人々と絶縁状態になったが、モカーヌの命が尽きるまでの数年間、二人はかけがえのない日々を過ごした。

 アンジェリンは首を横に振った。
「殿下と駆け落ちなんて、そんなとんでもないこと考えられないわ」
「とんでもなくても、おまえに悔いる人生など送ってほしくない。殿下との逃亡先でおまえが命を落としても、それは自分で選んだ人生だ。誰に何を言われようともまっすぐ歩けばいい。資金が必要なら、できるだけ用意してやる」
「そんなの、お父様だけでなく多くの人に迷惑をかけてしまう」
「私のことはどうでもいいことだ。おまえはどうしたら自分が幸せになれるかを考えればいいのだよ。駆け落ちでもしない限り、おまえの思いを通すことはとても難しいだろう」
「ありがとう、お父様。でもやっぱりそれは無理よ。こんな情勢の時に王太子殿下と逃げ出すなんて。マリラ侍女長に『あってはならないことですよ』って言われそう」
「彼女は確かにそう言うだろうが、そんなことを気にしていては幸せになれない。殿下のおまえへの結婚熱が冷めれば、このまま殿下の愛人として今まで通りお仕えすることはできるかもしれないが、殿下のお相手の王女様がどう思うかだ」
「愛人……」
 いい響きの言葉ではなかった。そういう関係ではないと言い張っても、王太子のお気に入りとしていつまでも傍にいれば、世間的にはそういう呼び方になるのだろう。

 セヴォローン国の歴史を振り返れば、正妃がいるにもかかわらず、傍に別の女性を置いた国王は存在した。しかし、一夫一妻が普通の家庭の基本となっているこの国では、それは国民の信用を大きく損なう行為であり、相当の覚悟と政治的手腕がなければ、人々から認められることはない。

 アンジェリンは顔を上げた。愛人、という言葉に目が覚めた。
「私、出仕辞退届を出すから、お城へは二度と行かないことにするわ。その方があの方のためになるでしょう? 邪魔な愛人がいては、嫁いでくる王女様だって不快に決まっているものね」
 あれこれ考えたところで選択すべき道など最初からなかったのだ。
「侍女をやめるのか」
「全部私がいけなかったの。わきまえていなかったから」
「本当にそれでいいのか? あきらめられるのか」
「いいも悪いも、最初からわかっていたことよ。これ以上傷が深くなる前にあの方から離れないと」
「……わかった。おまえがそう言うならば、今日中に正式な出仕辞退届けを出しておく。仕事はしばらく何もせず、家でゆっくりするといい。おまえにふさわしい相手はきっと他にいる。恋を貫いた私が言うのは説得力もなにもないが」
「ありがとう、お父様。頭を冷やすからひとりにしておいて」
「これから先も、生き続ける限りつらいこともいろいろあると思う。だが、これだけは言っておく。おまえはおまえひとりの命ではない。おまえの命は私の命と同じだ。おまえがいるから私はモカーヌを失ってもまだ生きている。血のつながりはなくてもおまえは私の大切な家族だ。わかるな?」
 いつになく真剣なロイエンニの言葉には重みがあった。
「はい」
「いいか、自分の手で自分の命に決着をつけるようなまねだけはしてくれるな。そんなことをしたら死者の国にいるモカーヌがなんと思うことか。モカーヌが一日も長く生きたいと願っていたことを思い出してくれ。命は自分で捨てるものではない」
 病死した妻の名を出したロイエンニに、アンジェリンはまた涙が出そうになり唇を噛んだ。自分が自殺を考えていると思っていたのか。
 アンジェリンは心配させないよう笑って見せた。
「心配かけてごめんなさい、私は自分では死にません。お父様の顔を見たらすっきりしたわ。私はもう大丈夫、よく考えたらたいしたことでもなかったの。殿下と結婚なんてありえない。殿下が気まぐれに求婚してみただけだったのよ。あとは私の気持ちの問題だけで」

 ロイエンニが出て行くと、アンジェリンは無意識に重苦しい胸を押さえた。涙が勝手にぽろぽろと零れ落ちる。
 忘れなければ。 
 ほんのひとときの二人の時間をなかったことに。そう思うだけで、もっともっと大声で泣きたくなった。
 夢はあっさり終わった。もらったケイシュカの鉢植えはまだ小さな花を咲かせている。これだけは大切にしよう。これを見るたびに悲しい気持ちになってしまうかもしれないけれど。
 お城から離れることが一番いい。そうすれば、この悲しみも徐々に癒えていく。 
+注意+
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