佐々木くんと私
「僕のお尻、危ないかもしれないんです」
木曜日の午後七時過ぎ、客のいない店の片隅で、ワイングラスを磨く佐々木くんはメニュー表を拭いている私にむかってぽつりと言葉を漏らした。店長はあまりにも暇すぎたのか別室で喫煙タイムをお楽しみ中だ。
「痔ですか?」
頭のどこかで何言ってんだこいつと思いつつも至って真面目に言葉を返してみる。
すると彼はどこか悩ましげな様子でカウンターに両手をつき、がくりとうなだれたあと、「僕の貞操が危ないんです」と掠れた声を紡いだのだった。
◆
ここはCiaoというイタリアンを主とした個人経営の居酒屋。私の家の最寄駅から三つ先の駅の小さな町にある店で月曜が定休日である。室内は結構シックだがよく目を凝らしてみれば至る所がボロボロだ。創業十一年目らしい。
親戚の紹介で、私は高校の二学期が始まる直前の夏休みからここでアルバイトを始めた。ちなみに花の女子校、一年生である。
もともと私以外のアルバイトは大学生一人しかおらず、加えて社員もいないらしかったため、私がCiaoでアルバイトをするとなったとき、以前から働いている大学生・咲子さんには大いに感謝された。人手がたりなかったそうだ。
時給は八百円。安い。あと賄い付き。これは本当においしい。
「はじめまして、佐々木拓真と言います」
「あ、はじめまして、佐藤柚希です」
私がアルバイトを始めてから二ヶ月経ったある日、佐々木くんはやってきた。
年は私と同じ十六で、“あの” 紫月山高校に通う一年生なのだそうだ。
ぱっちり開いた猫目、男にしてはやや低めの背丈、まるい輪郭、柔らかそうな髪。ニコッと笑う姿はなんとも爽やかで愛らしい。
あ、少年漫画の主人公にいそう。それが彼の第一印象だ。
生まれる場所がこの地球でなくて西洋風ファンタジーの世界だったならば、きっとヒロインをつれて剣を振り回しスライムなんかをやっつけていたのではないかと思う。
それかバスケとかバレーとかサッカーとかの漫画にでてきそう。丸坊主じゃないから野球部とは少し違うかな。
けれど週二勤務の私と異なってはぼ毎日シフトに入っているらしい彼が部活動に入っている様子はなさそうだった。
放課後に遊ぶ友だちもいないのだろうか。もしかして高校でいじめられているのかもしれない。
彼の私生活が心配でついつい様子をうかがってみるものの、愛想がいいし、愛橋もある。いじめられるような人には見えなければ、いじめられているような陰りもない。
店長と二人でほっと安心したのはもう二か月ほど前の話で、この店での彼のポジションは店長の料理の補佐と接客というところで落ち着いたようだった。
どうでもいいが、一緒に働くうちに、彼は少年漫画の主人公のような推進力はあまりなく、少女漫画の主人公に恋するもあっけなく振られたあと健気に主人公の恋を応援する脇役キャラのほうが似合っていると思った。
◆
「貞操、ですか」
思わず手を止めて佐々木くんの言葉を繰り返せば、彼は俯いた体勢のまま髪の隙間からこちらを見ていた。
「佐藤さん」
「はい」
「あなたに遺言を託します」
どういう思考をしていればそんな台詞が出てくるのかは知らない。だから真顔で黙りこんだまま遺言の内容を待ってみる。
けれどそんな私としばらく見つめ合った彼は、ふっと小さく悲しそうな笑みをこぼしてから体勢を元に戻し、再びワイングラスを磨き始めたのだった。
遺言はどうした。
「佐藤さん」
手元を見つめたままこちらに視線をよこさずに話しかけてきた佐々木くんに、はい、と返事をする。遺言だろうかと耳を傾ければ、僕の学校に変人がいるんです、という声が聞こえた。
「変人」
「そうです、それが三人」
「三人」
「みんな男なんですけど」
「ほう」
「その人たちが僕を見る目がおかしいんです」
「おかしい?」
「つまり……貞操が危ないということです」
テイソウガアブナイトイウコトデス。
どういうことだ、と、佐々木くんの言葉を頭で反復させて考える私。
変な男の人が三人、佐々木くんが貞操の危機を感じるほど彼のことを変な目で見ている。
「ああ」
なるほど、だからお尻を心配しているのか、と納得しながらメニューをメニュー立てに戻した。
彼はいわゆるホモに狙われているらしい。ベーコン・レタスならぬBL。私はフジョシではないため詳しいことは知らないが、それは大層なことのようだ。
「ちょっと佐藤さん、一人で納得しないでください。助けてくださいよ」
「いや、無理ですよ。遺言をどうぞ」
一般人の私には異世界すぎます。
「ひどい、ひどすぎますよ。でも」
でも佐藤さんならそういう反応をするだろうなと思いましたよ、と彼は困ったように大人しく笑った。
「どういうことですか」
「そのままの意味です」
よく分からないがいい意味ではなさそうだ。
そうやってしばらく無言で見つめ合ったあと、呆れたようにため息をついた佐々木くんに、ちょっと失礼なんじゃないかと思わないこともない。
「……や、もういいです」
「……そうですか」
「ですよ」
お互いに敬語を使い合うのは、私が彼よりアルバイト歴が少しだけ長い先輩であるからで、また、彼が私よりかなり頭がよくそれゆえに彼にため口をきくなんておこがましい気持ちになるからだ。
◆
今日のお弁当はのり弁らしい。私の好物だ。しかし机を合わせた先、向かいに座った清美は眉間にしわを寄せた。
「歯にのりつくよ」
「あとで口ゆすぐからオッケー」
「つか唇にのりついてるよ」
「あとで拭きとるからオールオッケー」
「のり弁当なんてやめなよ。ダサい」
「おいしいからウルトラオッケー」
清美は細かい。好きなものは好きなときに好きなように食べるべきだ。この素朴な味を堪能するなら、私は歯にのりがつくことも厭わない。
しかも取り繕わなければならない男子生徒もいない。そう、ここは藤野墨高校という名の女子校なのだ。かの有名な紫月山高校の姉妹校なのだが、残念ながら偏差値はそんなに高くないし、校舎も生徒も至って平凡である。
「そんなんじゃベアくんたちに嫌われるよ」
渋い眼差しをこちらに寄こす清美の手には、煌びやかなサンドウィッチ。よくそれだけで足りるな、と毎度感動する。
「嫌われるも何もそもそも会ったことないけどね」
そう返して卵焼きを口に放り込めば、そんな私を見て何を思ったのか、清美は呆れたような溜息をついた。
「会いに行ってみればいいのに」
「ベアくんに?」
「うん、ベアくんに。彼を見たら女を磨こうって気になるかもしれないよ」
ベアくん。それは今この高校で持て囃されている紫月山高校の生徒の名前だ。一年生の男子。誕生日は九月三日。本名は知らないけれど、そのあだ名を聞くとベルトコンベアが頭に浮かぶことは清美には内緒だ。
ほかにもフジくん、イチくん、ミツくんというベアくんの仲間がいるらしいが、実際に会ったことがないのでその評判は伝聞にとどまっている。
なんでも彼らは美しいらしい。絵画をみているのかと思うほど美しいらしい。その四人がいる空間は全てが特別で、全てが輝いて見えるそうだ。いつも穏やかで上品な空気が流れ、彼らが微笑む姿はまるでホロリと口の中で溶けてしまう高級のトリュフチョコレートのようなのだそうだ。
これだけ聞いていると本当に人間なのかと疑ってしまうけれど、というかチョコレートなのではと思ってしまうけれど、彼らはやはり人間で、ちゃんと喋りもすれば動きもするようだ。
その中でベアくんが一番異質らしく、無口、無表情、無音なのだとか。無音がどういうことなのかが私にはちょっとよく分からないこともないが、噂から考えると、どうやら警戒心の強い美少年のようだ。親しい相手にも滅多に口を利かず、自分のことは一切話さないらしい。
いやそんな馬鹿な。それなら誕生日の情報をどこで手に入れたのか。そもそも新学期早々の自己紹介で名前を言う時点で自分のことを話しているも同然だ。
そんな情報の矛盾はどうでもいいが、清美はベアくん推しだ。紫月山高校の寮付近で四人を目にしたことがあるらしいが、その中でもベアくんに心惹かれたらしい。
「でもベアくんって、本当に謎が多いんだよねー。そこがミステリアスでいいんだけど」
そう呟いてサンドウィッチを頬張る彼女を尻目に教室を見回す。女子生徒の大胆な談笑と、連れションの群れ、乱れた机と椅子、ぐちゃぐちゃの体操着。女子校なのに、なんという惨状。ベアくんもこの光景をみればがっかりするに違いない。
◆
「佐藤さんって夜寝るとき、どんなことを考えます?」
木曜日の午後七時過ぎ、客のいない店の片隅で佐々木くんはパソコンに顧客データを入力しながら私に問いかけた。対する私は、ううん、と悩ましげな唸り声をあげて、いつも寝るときに布団の中で何を考えているかを思い出す。
「色々ありますけど、そうですね、例えばゾンビから逃げきるための有効な方法とか……妄想してます」
フォークを拭きながら正直に答えれば、彼は、何ですかそれ、と大きな目を和ませておかしそうに笑う。
「ほら、よくあるゾンビパニックってやつですよ。噛まれたら自分もゾンビになるんです。それで、うまく武器を使ってゾンビを倒しながら生き残るってのを想像します」
もしものときのためのシミュレーションです、と加えると彼はさらに笑った。
「佐々木くんはどんなことを考えますか? 眠るとき」
「僕? うーん、そうですね、僕は無人島に漂流したら、とか」
「あ、それ、私も考えるときあります」
そう答えれば、もし一人ぼっちで無人島に流れついたら佐藤さんはまず何しますか、とこちらへ尋ねた彼。それに対して、フォークを見つめながら再び考え込む。シルバーの面に変に歪んだ私の顔が映った。
「私だったら、うーん、まずは寝床を探します。佐々木くんは?」
私の回答にへえ、と呟いた佐々木くんに同じことを尋ねてみる。すると彼はにっこりと愛橋のある頬笑みを私に向けて、きっぱりと答えた。
「僕だったら裸になって大声で歌います。誰もいないんで」
どん引きである。
「あ……なんというか、大胆ですね」
「きっと気持ちいいですよ」
「ですかね」
彼はあの由緒正しきお金持ち高校に在籍しているのだが、その幼稚な発想を垣間見てしまうと、紫月山高校は本当に頭のいい学校なのだろうかと疑いたくなってしまう。
まあ、頭がいい人には変人も多いというから……。
それによく考えたら金持ちの癖にアルバイトをしている時点でちょっと可笑しい。
え、何だろうこの人。得体が知れない。
なんとも言えない空気にどうしようかと思い、フォークに視線を落としたまま、そういえば、と話を変えれば、佐々木くんはなんでしょうかと相づちを打った。
「ベアくんって知ってます?」
「ベアくん?」
カタリとタイピングの音が止まる。顔をあげると、訝しげな表情でこちらを見ている彼と目があった。
「なんですかその目は」
「いえ、急にどうしたのかと。で、ベアくんって誰ですか? キャラクターですか?」
「いや、紫月山高校の男子生徒なんですけど……無口で、無表情で、けど人気がある人なんです。ウチでは有名な一年生で。知ってますか? 私、気になってて」
それから私は日々清美から与えられているベルトコンベアくん情報をとりあえず公表しながら、磨いたフォークを引き出しにしまう作業を続けた。
一通り話を聞いている佐々木くんは、記憶を巡らせているのか、ときどき宙を仰ぎ見ながらわりと真剣に考えてくれているようだった。
そして全てを話し終わると、彼はこう言ったのだ。
「ベア……ベア……クマ?」
「あ……クマか……」
「うん?」
「あ、いや、何でもないです」
そうかベルトコンベアじゃないのか。クマのベアなのか。
「熊谷くんですかね? 柔道部の一年生で、無口かも。無表情かどうかはあんま知らないんですけど、堅実な感じで人気ですよ」
「おお、熊谷くん。なるほど……ベア……」
「いや、ウチはマンモス校なんで熊ってつく人はもっとたくさんいるかもしれないんですけどね、間違ってたらすみません」
「ああ、いえ」
謝られることでもないと曖昧に笑えば、気になりますか、と聞かれたので、まあ多少は、と答える。
そしてもっと熊谷くんのことについて尋ねようと思ったとき、店長が奥からひょっこり顔をだして、ゆずきちゃんはもう上がっていいよと私に声をかけた。余りにも客が来ないために今日は店を閉めることにしたらしい。
「たっくんはゆずきちゃんに賄い作ってやって」
「ああ、了解です。じゃあお疲れ様です、佐藤さん。続きはまた今度」
「あ、はい、お先失礼します」
未だ見ぬ熊谷くんの話題に特に執着することなく厨房の奥の更衣室へ向かう私に、佐々木くんは何を食べたいか聞いてくる。それにしっかりとシーフードドリアと答えたはずだったけど、バイト着から着替えてカウンター席に座った私の目の前に出てきたのは、佐々木くんお得意のペスカトーレロッソだった。
◆
「寒い」
「いや、ゆずきのダサさのほうがある意味寒いよ」
授業合間の休み時間。清美のスカート丈を見てぼそりと呟いたのを彼女は律儀に聞き取ったらしい。即座に反論をもらったが、別に私の格好はダサくないし校則に忠実だと思う。
文句ありげな私の表情に清美はため息を吐き、周りを見ろとばかりに顎をしゃくった。
促されるままに周囲に視線を巡らせば、まあ確かにみんな膝上五センチ以上。大人しめな図書委員でさえ太ももを大胆にさらけ出していて、一月という極寒の時期にご苦労なことだなと感動してしまう。なんだか膝下三センチの私が珍獣になった気分だ。
「ゆずきもスカート短くすればいいのに」
「冷え性なもんで」
「そんなんじゃベアくんに気に入られないよ」
「あ、うん」
出たよ熊谷くんならぬベアくん。
正直見たことのない人に興味はそれほどないが、最近は校内でその名前を聞く頻度が一層増えたように思う。みんなの話を耳にする限りベアくんが何かやらかした訳でもないらしいから、ただ単に人気上昇中なだけのようだ。
「昨日駅で見かけたよ。びっくり。スマホいじってたの。てゆか吐く息が白かった。マジやんごとない」
やんごとないとは、果たして。
嬉々として情報をくれる清美から視線を落として、消しカスを集める。
スマホなんて誰でも弄るし、いまの時期は万人が白息になることを彼女はわかっているのだろうか。別の意味で恋は盲目らしい。いや、恋かどうか知らないけど。
それからも清美はベアくんについて話し続けた。一日中話し続けた。昨日会ったばかりで興奮冷めやらぬようだが、少しばかり自重してほしい。
「私もベアくんに会ったら清美みたいになっちゃうのかな」
放課後、靴を履き替えながらぽつりと呟くと、清美は私みたいになっちゃうって何よと不満そうな声をあげた。
「ベアくんに夢中になるのかなってこと」
「なるよ絶対なる! ベアくんじゃなくても、フジくんかイチくんかミツくんの誰かに恋するかもしれないよ」
選択肢はそれだけしかないのか。
「恋かあ」
「まあ万年片思いの、不毛な恋だけどね。だから愛でるだけ。本気になったら正常じゃいられない」
「そんなもん?」
「そんなもんだよ」
人間とは器用な生き物だ。ベアくんというふざけた渾名ではあるものの彼が紛いもなく雲の上の人なのだと清美はきちんと自覚しているらしく、好きだなんだのと騒ぎつつもリアリストの視点を失ってはいないようだった。
じゃあまた明日、と言って昇降口で別れる。
彼女は部活へ、私は家へと直行した。私は帰宅部なのだ。
◆
時刻は午後七時過ぎ、お客さんが誰もいない店内。店長は喫煙タイムに入っており、佐々木くんは黙々と、お通しに使うガーリックトーストの下拵えをしている。私はというと、ただひたすらニンニクの皮を剥く作業をしていた。
暇すぎて時間が進むのがかなり遅い。むちゃくちゃ遅い。
勘違いしないでほしいので敢えて言うが、このお店は普段はこんなに暇じゃない。金曜日や土曜日は特に忙しいし、一応料理一品一品が結構良い値段なので案外儲かっていると思う。
問題は木曜日なのだ。
「暇そうですね、佐藤さん」
トーストに店長お手製のガーリックバターを塗り込みながら、佐々木くんがこちらをちらっと見た。相変わらず綺麗な瞳だ。この生まれつき野暮ったい目と交換してほしい。
「かれこれ一時間ニンニクの皮を剥いてますからね。いい加減飽きてきました」
「お客さん、来ないですね。木曜日だし、まあ、こうなるか」
そう、この小さな町では木曜日に飲み屋に行くという概念が無いのか、木曜日だけさっぱりと人が来なくなる。店の前をたまに通るサラリーマンも家に直帰だ。
ため息をついてバリバリとニンニクの皮を剥けば、私の吐息に曝されて薄皮がひらりと床に落ちた。
それを屈んで拾えば、佐々木くんの方から、「そういえば、もうそろそろ新春祭ですね」という声が降ってきた。
「ああ、そういえば」
「僕、初めてなんでどういうのか分からないですけど、僕の高校と佐藤さんの高校の交流会なんですよね?」
「らしいですね。姉妹高ですから……。何をやるのかは分からないけど一学期と一緒なんじゃないですかね?」
そう、我が藤野墨高校と紫月山高校は年に二回、姉妹高のよしみで交流会が行われる。一回目は藤野墨高校の創立記念日である六月、二回目は紫月山高校の創立記念日である二月だ。ちなみに新春祭の会場が紫月山高校なのは確実である。
「ていうか初めて……?」
「はい。僕、一学期は風邪引いて参加してないんです」
「え? そうなんですか?」
思わずニンニクを剥く手を止める。すると彼はこっちを見て、今回が初参加です、と笑った。なんだこのほわほわした笑みは。相変わらず愛嬌のある人だ。この無愛想な表情筋と交換してくれ。
「六月はウチで球技大会をしましたよ。今回は何でしょうね」
新春というからにはカルタ大会とかだろうか。
総勢三千人で?
ないな。
これには頭のいい佐々木くんも予想がつかないようで、首をかしげるばかりだ。
そうこうしているうちに店長が厨房に戻ってきたため、お互い各々の作業に戻る。
まるで機械のようにニンニクの皮を剥くだけの工程。
暇だ。お客さんが来ない日ほど時間の経過が遅いときはない。
そして黙々と仕事に没頭していると、佐藤さん、と私の名前を呼ぶ佐々木くんの大きくも小さくもない声が耳に届いた。顔をあげると、彼は与えられたノルマを終えたようで、調理台の上を片付けながらこちらを見ているのが視界に映った。
「佐藤さん」
「はい」
「僕たち、会えますかね」
ふと手を止める。
どこで会うのだろう、と一瞬思ったが、新春祭のことを言っているのだろうか。分からない。よし、適当に返事をしてみよう。
「どうなんでしょうね」
「うーん、只でさえウチがマンモス校ですから、そこに藤野墨高校も加わるとなるとすごい人数になっちゃうんで、その中で偶然会うのはやっぱり無理ですかね」
新春祭の話で合っていたらしい。
「そういうわけで、佐藤さん」
「なんでしょう?」
「競技、選択式なら一緒のやつにしません?」
「なんですか、その女子高生みたいなノリは」
予想外の彼の発言に思わず吹き出す。吹き出してから自分の方が女子高生だということを思い出した。
「この前の相談した変態を一目見てほしくて。僕に会えばわかります。わりと本気で悩んでるので、この惨状を見たら親身になって解決法を考えてくれるかなって」
「え、やです。私はどちらかというと、熊谷くんに会ってみたいです」
「熊谷くんも紹介しますから」
「自力で探すんで大丈夫です」
「そんなつれないことを言わずに、さあさあ」
なにがさあさあだ。
巻き込まないでください的な目で見れば、彼は「きゃっ」と悲鳴をあげて手にしていた皿で私の冷え切った眼差しを遮った。きゃっ、じゃない。
何も返事をしない私に、彼は皿を顔の前に持ってきたままそそくさと近づいてくる。
「お願いします、佐藤さん」
「佐々木くん近いです」
「はい、助けてください」
「お断りします近い」
近くに置いてあったアルコール入りの霧吹きを素早く彼に振り掛ければ、今度はぎゃっと叫んで遠ざかっていく。
この一連の流れを見ていた店長は笑いつつも私たちを叱り、そうこうしているうちに玄関ドアのベルが鳴ったため、私たちはやってきたお客さんへの接待に向かったのだった。
◆
新春祭は六月の新緑祭と同様に球技大会を行うようだが、一年生はまさかまさかの百人一首と書き初めで固定らしい。三年生は受験生もいるため自由参加で、実質ボールをほいほいして戦っているのは二年生だけだ。
「なんというつまらなさ」
心の声が漏れたのかと思ったが、清美が愚痴をこぼしただけのようだ。
現在昼休み。食堂でラーメンをすする私と、雑穀米ヘルシープレートを食べる清美の、いわゆる女子力というやつの対比がすごい。
「ゆずき知ってる? この百人一首大会に勝ったら願いが叶うらしいよ」
「なにそのジンクス」
「先輩から聞いた。そんで百人一首に勝つためには和歌を覚えるじゃん? 必然と古文の勉強になるじゃん? 一石二鳥でスバラシイネ」
「国語教師の陰謀のかほりがするね」
めんまを奥歯でもぎもぎと噛み砕きながら、そういえば佐々木くんの願いは叶ったな、と頭の片隅で考える。お互い一年生ゆえに、必然的に競技は一緒である。
「書き初めも勝負あるらしいから、頑張んなきゃね!」
清美は張り切っていた。
何でも上位者にのめり込んでベアくんに顔を覚えてもらおうという魂胆らしい。単純すぎるがそんなところも嫌いではない。
◆
初めて訪問する紫月山高校は、それはもう唖然としてしまうくらい校舎が広く、清潔かつ近代的でオシャレといった、いかにも頭脳明晰な才色兼備が通うにふさわしい風貌をしていた。半寮生らしく、校舎の脇にはこれまた洗練された宿舎が建っている。飾らない癖にそこはかとなくセンスを感じるところが少々憎い。
対して藤野墨高校は至って平凡な校舎で、生徒に至っても一般人だ。少しの羞恥と嫉妬、そして大きな憧憬が胸の内で膨らむ。
文武両道を謳うこの高校の生徒たちは、この敷地内でどんな毎日を送っているのだろうか。
少し敷居が高いこの校門をくぐるのは、厳しい受験戦争を勝ち抜いた者とその保護者、そしてその姉妹校である藤野墨高校の生徒くらいなものである。なんという役得。
「やばい興奮する! やばいねゆずき!」
隣でふがふがと清美が騒がしいが、それをあしらいつつ靴を履き替えて集合場所の体育館へ向かう。持ち物は習字道具とエプロンだ。書き初め用である。
やって来た体育館もまた市民文化ホールかと思うくらいに広く、そして隅々にまで掃除が行き渡っているからか洗練されている印象をうけた。
これだけ素晴らしい学舎を持つ彼らは、六月の新緑祭で藤野墨高校を見て何を思っただろう。押し寄せる劣等感に背筋がぞっとした。
紫月山高校の生徒会長の素晴らしいスピーチによって開会式は華やかに終了し、一年生を残した各自が各々の競技場所へと向かっていく。
私も絵遊びなどではなく球技がしたかった。ソフトボールは得意中の得意だ。
体育館から出ていく先輩たちを羨ましげに見つめていると、未だ動いていない私たちの前に先生陣がざっと並んで、百人一首大会の説明をし始めた。
どうやらトーナメント戦を行うらしい。
ものすごい人数なため、前半グループと後半グループに別れ、片方が百人一首を行っている傍らでもう片方は書き初め大会をするようだ。ちなみにトーナメント戦で負けても、各グループの一位が決まるまで敗者同士で戦うのだとか。
そして最後は各グループの一位同士が戦い、真の王者を決めるみたいだ。
「一位決まるまでって……何回対戦すればいいんだろうね?」
「知らん」
私の素朴な疑問をバッサリ切ったのは美咲である。名前の順で並ぶと隣になる彼女は、先程から教師の話をそっちのけにぎらついた目で紫月山高校の集団を見続けていた。ミツくんとやらを探しているようだ。
ちらりと周りをみれば、誰もが美咲と同じ行動を取っていた。清美もきっとベアくんを探しているのだろう、頭の動きが忙しない。
紫月山高校の方々よ、これが藤野墨高校の品格である。とくと御覧いただきたい。
しかし彼女らに触発された私もまた、首を伸ばし背筋を伸ばして、佐々木くんはどこにいるだろうかと視線を巡らすのだった。
◆
ランダムな抽選の結果、私は後半グループとなり、前半は書き初めをすることになった。
ネットで半分に仕切られた体育館が、書き初め用スペースだ。この領域内だったらどこで書いてもいいようで、おそらく目当ての人がいるのであろう一角は人の密度が濃かったが、それ以外のところが逆にすかすかだったため、そこで適当に自分の陣地を取った。
清書用に与えられた半紙は三枚。それまでは自前の半紙で練習を重ねるらしい。テーマは「新春」だ。
正座をしながらエプロンをつけた格好で硯に墨を刷り、その間はただひたすらにどうでもいいことを考える。
新春祭の祭要素がどこにもない。
私はその事実に気付き、とてもテンションが下がっているのだ。
しかし周りは違うらしかった。
紫月山高校の生徒はどれにつけも全力少年少女なのか、墨を刷りながら精神統一をしたり物凄い集中力で練習をしたりしている。
そして藤野墨高校の生徒たちもまた、紫月山高校の人たちにいいところを見せたいのかはたまた特定の誰かにいいところを見せたいのか、まるで剣山のごとく鋭い気迫を放ちながら書き初めに挑んでいた。
この静かな空間に響くのは、ただ札を取る乾いた音と、目当ての人と仲良くなろうと目論んで話しかけるヒソヒソ声だけだ。
そういえば百人一首をしているグループも静かだな。騒ぐと歌を詠む声が聞こえなくなるからだろうか。
ただ何となく気になり、へのへのもへじを書いている手を止めて百人一首陣地の方へ顔を向ける。
そしで次の瞬間、体がまるで金縛りにでもあったかのように身動きがとれなくなった。
私は偶然にも、運命の出会いを果たしてしまった。果たしてしまったのだ。
こちらをまじまじと見つめる二つの瞳。広い肩幅、制服から覗く鍛えられた腕。黒い短髪に、軽い猫背。そして彼の手によって半紙に書き出された熊谷太郎という男気溢れる美しい文字。
太郎て。その名前の人に初めて会った。
とは思ったものの、頭の大半を占めたのはこの人は例のベアくんではなかろうかという憶測と衝撃だった。
適当に選んだ場所がまさかまさかのベアくんの隣だったとは。
思わず凝視してしまった。動くことができなくなるほどに目の前の人物は私を震撼させた。全米が驚いている。いま少女漫画のフィルターをかければ、きっと私たちツーショットの背景はパステルカラーのほわほわが光輝きながら漂っているに違いない。
正直に言おう。そう。彼は予想以上に、私のストライクゾーンをドストライクに行ったのだ。
これは一刻も早く佐々木くんに紹介してもらわねば。正攻法で行かないのは私がロールキャベツ女子だからだ。本人に直接迫るなんて恥ずかしくてとてもできない。
「あ、じろじろみてすみません。へのへのもへじが気になって、つい」
なんと。向こうから話しかけてきたではないか。
やばい。声も好みすぎるし、ちょっと赤らんだ頬もいじらしくて好きが止まらない。それから私の手によって描かれた失態を思い出してもやばい。やばくてやばくてやばい。
「あ、練習しているふりをですね、あの、いや、何かを書いとかないと練習サボってるって見られるので、えっと、カモフラージュというか……」
たじたじである。
生まれて初めての一目惚れであった。私の妄想は瞬く間に少女漫画に似た世界へと膨らんでいく。
まだたったの十六歳。恋らしい恋は女子校に進学した時点で諦めていたのだが、こんなところで恋を見つけるとは。
そして同時に私はショックだった。
この好意を差し出しても返ってくるとは限らないのだ。佐々木くんに紹介してもらうにしてもやはり相手は大人気のベアくん。恋人など選り取りみどりであろう。私がベアくんなら私を選びはしない。
「そうやって落書きかいちゃう気持ち、分かります。なんだか集中力がもたないですもんね」
激情がとどろく私の内側を知らない熊谷くんはとても朗らかに笑った。
集中力が持たないのではなく書道に興味がないだけなのだが、ここは訂正せずに私も笑みを返す。
そこから私は夢のような時間を送った。
周りは歌の札を取る音と一部の雑音しかしないためにかなり小声ではあるものの、緩やかに会話が続いたのである。
一生分の運を使ったのかもしれないと思うくらい、とても幸せなひとときであった。
◆
そして時間は残酷にもやって来るもので、お互いに清書を提出して片付ければ各々の控え室で昼食とのことだった。
私は宛がわれている会館に向かい、熊谷くんは自分の教室に戻っていく。涙の別れとはこのことかもしれない。
この大人数だ。次の百人一首で会えるかどうか。会えたとしても、今日以降会える日が来るかどうか。いや、偶然を装って会いに行く予定だが。
全力で佐々木くんの協力を得よう。
「何かいいことあったの?」
心の片隅で決心していると、清美が落ち込んだ様子でこちらをのぞきこんでいた。
「いや、別になにも」
彼女にはまだ言わないつもりだ。あれだけベアくんに興味がないと余裕をかましていたのに会って一瞬で恋しましたなど単純すぎて羞恥で死ねる。
「清美こそ何かあったの? 元気ないけど……」
さりげなく話をすり替える。
ちなみに彼女は三回戦でトーナメント敗退したらしい。同校の生徒にぼろ負けしたのだとか。
「ベアくんが一緒のグループにいなかった」
あ、やっぱそっちですよね、ぼろ負けしたことじゃなくてそっちですよね。ベアくんは私の隣にいました。
「前半グループ、イチくんはいたんだけどね……眼福だったけど……でも私が会いたいのはベアくんなの!」
「そっか……元気だして」
わりと本気で落ち込んでいる清美を白々しく慰める。
ごめんね、会うどころか会話までしちゃった。ベアくんは案外無口でも無表情でもなかったよ。
そこまで優越感に浸ってからふと気づいた。そういえばなぜ絶大な人気を誇る彼の周りには人だかりがなかったのだろうか。
現実の女子というものは二次元のように黄色い声はあげないものの、さりげなくイケメンににじりよるようで、まるで花に群がる蝶のごとく一角はすごい密集度だったのだ。
対して私たちの周りはどうだっただろうか。
すかすかだった。しかも仲良くなろうと目論んで話しかける者もいない。あの一角とは大違いである。
しかし確かに彼は熊谷くんだったし、一目で惚れるくらいにはやばかった。
そんな私の思考を止めたのは、トイレから戻ってきた女子生徒の興奮した声だった。
「さっきベアくんたちに会っちゃった!」
なんですって?
私たちは一瞬で会話を止め、勢いよく声のした方に顔を向ける。聞き耳を立てているのは私たちだけではないが、こういった周囲の行動に気付かないくらい声の本人は舞い上がっているようだ。そうなる気持ちは分からなくもない。
「お手洗いに行ったら偶然! その途中の廊下で楽しそうに喋ってたの!」
幸せだったととろけるような表情でのたまう彼女の情報を耳にした瞬間、私たちは一斉に尿意を覚えたふりをしてお手洗いに向かったのだった。
◆
結局はトイレが混んだだけで終わり、私たちが彼らに会うことは叶わなかった。
なんとも肩透かしをくらった気持ちで始まる後半戦。
「安藤桃香さんって知ってます?」
一回戦の相手は、紫月山高校の男子生徒だった。熊谷くんでないのが残念である。
「違うクラスですけど知ってます。可愛いですよね、彼女」
「可愛いの一言では済まされないですよ」
彼は安藤さんに恋をしているらしい。その語りっぷりはまるで詩人のようだったが、先ほど恋に落ちた私にはとても参考になる表現力だった。
藤野墨高校の生徒が紫月山高校の生徒にアイドルを見出だすように、紫月山高校の生徒もまた藤野墨高校の生徒にマドンナを見出だしているのだなあとしみじみ思いながら、勝利。
場所を移動した先で出会った二回戦の相手は、紫月山高校の女子生徒だった。典型的な堅物めがねである。
「みなさんスカートが短かすぎやありませんか?」
「それは私も思います」
「風紀はどうなってるんですか」
「同感です」
「赤の他人の太ももを見せられるこっちの身にもなってほしいものです」
「そうですよね」
以前も言ったが私は膝下三センチである。お洒落よりも保温を選んだ人間にスカートの短さをくどくど言うのは間違いだよと思いながら、勝利。
案外私って百人一首が得意なんじゃないだろうか。
そして三回戦のために場所を移動する。移動しながら視線を巡らせ、熊谷くんを探す。
どこだ、どこにいるんだ熊谷くん。
私の熊谷くんセンサーは先ほど出来たばかりでまだ未熟なため、彼を見つけるのは容易ではない。だからこそ、この場所変えと対戦相手の交代に期待するしかなかった。
来い、来い。熊谷くん来い。
次の対戦場所にたどり着き、平然とした顔を装いつつも、立ったまま未だ来ぬ相手を待つ。
しかし神様は残酷だ。世界はそう甘くないのである。
周りは対戦相手が揃い次々と着席していくなかで、まだ立っている私の方へのんびりと向かってきたのは、たしかに紫月山高校の男子生徒だったが熊谷くんではなかった。
つまらないのか、暇なのか、何か別のことを考えているのか、それともそれがデフォルトなのかは知らないが、全く読めない表情。ゆったりとした足取り。
おい、早くしろよこっちはあんたを待ってるんだよ。
という思いを全面に雰囲気で醸し出し、その男子生徒を凝視する。
すると何ということでしょう。
彼は私と視線がぶつかり合うと、瞬く間に表情を変え、笑顔を全面に出してこちらへと走りよったのだった。
「佐藤さん!」
聞きなれた佐々木くんの声はいつもより心なしか弾んでおり、静かな体育館にそれはそれはよく響いた。
いかにも。私が佐藤である。
「同じ後半グループだったんですね! 探してたのに見つからないからグループ別れちゃったのかと思ってましたよ!」
勢い余ってか私の両手を掴んではぶんぶんと振り回す佐々木くんに、圧倒されてしまう。
私も彼は前半グループなのかと思ったが、見つけられなかったのは私が彼の制服姿を見慣れていなかったからなのかもしれない。というかバイトをしているときは気付かなかったが背が伸びたのだろうか。顔も少し青年らしくなったような気がする。制服効果なのだろうか、それとも成長のせいだろうか。
というのは心底どうでもよくて、早く座ろう。みんな見てるしみんな私たちを待っている。もしかしたら熊谷くんも見ているかもしれない。
先ほどの熊谷くんの笑顔を脳裏に浮かべて、私は佐々木くんの手を素早く振りほどいた。しかし彼はそれにさほど気にする様子はない。
「しかも対戦相手ですか! 僕、負けませんよ!」
ペロリと唇をなめて、腕捲りをする始末である。
さっきの表情は何処に、と思うほど表情豊かな彼に圧されて、私はというと、うん、としか返せなかった。
そして漸く終了した会話。佐々木くんは座り、意気揚々と札を並べ始めている。
彼は気付いていないのだろうか。この体育館の凍った空気を。
みんな唖然とした顔で私たちを見つめ、ピクリとも動かない。時の狭間に来てしまったのだろうかと思うくらい動かない。
「どうしたんですか、佐藤さん」
手伝えよといわんばかりにこちらを見上げた佐々木くん以外、美術館の銅像かと勘違いするほど動かない。
「ああ、うん」
ちょっと状況が読めなくて、生返事のまま言われるがままに座って札を並べると、隣に座っている紫月山高校の女子生徒とばっちり目があった。
びくりと震える肩に、揺れる瞳。
え、わたし彼女に何かしたっけ?
しかしこちらの心配をよそに、我にかえったように時間を取り戻した彼女は、精一杯息を吸い込んだあと、一言こう叫んだのだった。
「ベアくんがベアくんじゃない!」
これを合図にして、生徒たちの雪解けが始まる。
そこかしこで飛び交う、体育館を揺るがすほどの様々な叫び声。
吃驚した声に、感動した声、悲痛な声、そして表現し難い謎の雄叫び。
なにが起こっているんだ。
驚愕して固まったその時の私は知らない。
私と同じく驚いているこの目の前の男、つまり佐々木くんが噂の無口無表情無音で九月三日生まれのベアくんということも、フジくんイチくんミツくんが佐々木くんの言う変態だということも、彼らが本当の変態で彼らから一方的に恋敵にされることも。
そして私は少々美的感覚に癖があるらしく、断じてB専ではないがいわゆるもっさり系男子が好きで、実は熊谷くんは、その男気ゆえに男子からは人気があるものの女子には人気がないことも。
阿鼻叫喚とはまさにこのことである。