「お……奥様、それにアドリオ様! これはいったい……いったいどういうことですの!? お二人で、いったい全体どこへ行っていらしたんです! さ、お話しになれるものなら、お話しになってくださいませ!」
玄関ホールに踏み込んだ瞬間に落とされた、これまでで最大級の雷に、あたしは肩をすくませた。死んだお父さんも怒ると怖かったけれど、パドマさんはもしかしたらそれ以上かもしれない。
「お二人がお部屋においでにならないと聞かされた時の私の驚きがわかりまして!? 心臓が止まるかと思いましたわ。それもそろって外からお戻りになるだなんて、夜の間中出かけていらしたということですの!? ミハル――じゃない、奥様、アドリオ坊ちゃまといったい、どこへ、なにをしに行っていたんです? わかるようにお話しになってください、さぁ、奥様」
彼女は、つぶらな瞳に涙を湛えて、ずいずいとあたしに迫ってきた。反射的におどおどと後退るあたし。どこへ、なにをしにと言われても……まさか正直にすべて打ち明けるわけにもいかないだろう。「日本に帰る方法を探しに、聖山に登ってきた」なんて。
アドリオ様はしかめっ面でパドマさんを睨みつけた。
「ミハルを責めるな。彼女を連れ出したのは俺だ。……その理由については、お前に教える義理も筋合いもないがな」
刺々しい口調に、あたしはびっくりして彼を見上げていた。パドマさんはジード様だけじゃなく、アドリオ様にとっても乳母みたいな人なんじゃないかと思うのに、その彼女に向かってこんな言い方をするなんて……。
「ぱ、パドマさん、ごめんなさい! あたしが悪いんです。あたしが、眠れなくて、その……庭をうろうろしてたら、アドリオ様が気づいて、つきあってくれて……」
思わず下手な言い訳をしていた。――ところが、それはかえって逆効果だったらしい。
「な……じゃあ、一晩庭にいたっていうの? 庭で……いったいなにをしていたんです、二人で!」
彼女はますます激昂して頬を引きつらせている。どうやら、好からぬ誤解を与えてしまったみたいだ。なにも後ろめたいことなんてないけれど、そのいきおいに、あたしは弁解する勇気を失ってしまった。
思いもかけない援軍が現れたのは、その時だった。
「おい、パドマ。そのくらいにしといてやれ。朝食の時間も過ぎてるんだ、まず朝飯にしようぜ」
麻のガウンを羽織った旦那様が、がりがりと頭を掻きながら、呆れたような顔で立っている。パドマさんは弾かれたように振り返った。
「お館様! 問題をすり替えないでくださいませ。ジード坊ちゃまのためにも、私は断じて……」
「そのジードも絡んで、ちょっと面倒なことが起きてるらしいんだよ。……アドリオ」
旦那様は、パドマさんには目もくれず、まっすぐにアドリオ様を見つめて声をかけた。アドリオ様は、無言のまま旦那様を――彼のお父さんを見返した。
「さっき中央から連絡があってな。午後一で使者が来るらしい。面倒臭ぇが、おとなしく部屋にいろ。いいな」
「なぜ? 父上に用があるんじゃないのか」
「ああ、俺にもだが、お前にも会いたいってことだ。『重要な用件』でな。わかったら飯だ、飯」
そう言い棄てると、旦那様は欠伸をしながら踵を返し、食堂へと歩いていってしまった。おかげでパドマさんのお説教はここでお開きになったんだけれど、なぜだかあたしの胸のうちには、得体の知れない黒々としたざわめきが、どんどん広がっていったのだった。
テオが「占鏡」を使って教えてくれた、見送りの儀。そのために必要となる、二人の見送り人。
中央からやってくるという、使者。その目的。
――ジードも絡んで、面倒なことが起きてるらしい。お前にも会いたいってことだ、『重要な用件』でな。
旦那様のさっきの言葉が、頭の中に響く。
あたしは、防寒用のマントを羽織った身体を、知らぬ間に自分でぎゅっと抱きしめていた。
朝食の時間は、それはそれでかなりつらいものだった――想像はしていたけれど。
延々と続くアウラ様の厭味、聞こえよがしなため息。今度ばかりはパドマさんも助けてはくれず、あたしはただひたすら時が過ぎるのを待った。お皿の上のものはなんにも減らず、作ってくれた人に申しわけないとは思いつつも、手をつけたのは食後のローハン茶とほんの少しの果物だけだった。
微妙に痛む胃を抱えて食堂を出、階段を昇ろうとすると、一瞬早く旦那様に腕をつかまれた。驚いて振り向くあたしに、緑がかった青い瞳が笑いかける。
「すまんな、厭な思いばかりさせて。……特殊な家なんだ。あまり、思いつめないでいてくれるか。ジードのやつが帰ってきた時、お前さんがいなくなってたりしたら、あいつ発狂しかねないからな」
ずきん。思いきり胸が痛んだ。あたしは頬を引きつらせながらも、なんとか微笑してみせた。
「あ、いえ、あの……平気です。ただ……」
「ん?」
「……アドリオ様が、パドマさんと……仲、悪くなったりしないか、その……心配で」
つい漏らしていた。旦那様はふっと息をつき、あたしの頭を撫でた。
「大丈夫だ。さっきのやり取りだろ? パドマに対して悪感情があってのことじゃない。ただ、パドマのやつは、イレイラの――ジードの死んだ母親の姉みたいな存在だったからな。どうしても肩入れしちまうんだろう」
そうか。言われてみれば、ジード様とアドリオ様って、お母さんが違うんだった。
そして、アドリオ様のお母さんは、多分、日本人。
「アドリオが気になるのか?」
不意に訊ねられ、あたしはきょとんとし、固まった。慌てて首を横に振る。
「い、いえっ。別に、そういうわけじゃ」
「俺には本音を言ってくれていいぞ。あいつらのどっちを選ぼうが、お前さんの勝手だからな。まぁ、しかし、それにしても……やっぱり血は争えねぇってことなのかもしれねぇなぁ」
「え?」
謎めいたせりふに、眉を寄せるあたし。旦那様の顔に、どこか切ないというか、懐かしそうな表情がじんわりと浮かんでいる。
「こうしてると、似てないはずなのに、不思議なほど重なって見えるんだ。……この髪といい、その瞳といい……あいつが俺の前に現れた時も、ちょうどお前くらいの年齢だった。見たこともないような服を着て、怯えた目をして……知らない言葉で、名前を名乗って……」
「旦那様……?」
背中に腕が回された。抗う間もなく、あたしは彼の胸の中に抱き寄せられていた。――ミサキ、と囁く小さな声が、耳元でした。
「……すまん。どうもお前を見てると、忘れたつもりのことまで思い出しちまってな」
すぐに身体が離された。旦那様は照れくさそうに苦笑している。どう反応したものか、あたしはただぎこちなく笑った。
五刻(午後二時)ちょうどにウェス・ハーシュ邸を訪れた使者を、レンドルスはすぐさま謁見室に通した。中央政府からの使いは過去なんどか迎えたことがあるが、今回はどうもただごとではなさそうだ。執事としての経験から、彼はそう直感した。
「時間を取らせて恐縮です、オルグ・ヴィネック卿。それに……アドリオ殿。
此度、中央政府ひいては審議院より、お二方への命を受けて参じました、ロルーヌと申します」
館の主人とその息子を前に、訪問者は丁寧に礼をしてみせた。中年であるという以外になんら特徴のない、無機的な顔つきの男。対するヴィネックは、椅子の上で鷹揚にあごを引き、使者を促す。
「口上はけっこう。それより、手早く本題に入ってもらえるか」
ロルーヌは肯き、懐から二通の封筒を取り出した。世界樹を模った臙脂の封蝋は、それが間違いなく審議院からのものであることを証明する役目も果たしている。彼は恭しく頭を垂れたまま、一通をヴィネックに、そしてもう一通をアドリオにそれぞれ渡した。
中身を取り出したヴィネックの眉が、ぴくりと動いた。
「……はん。こいつを俺たちに寄越そうっていうのか、元老院の連中は」
「左様で」
父に倣って内容を検めたアドリオも、驚きを隠せずに使者を眺めた。それから訝しげにヴィネックを見やった。
「父上、これは……」
「恒久手形だ。見るのは初めてだったか、お前は」
天上の切符。
あらゆる栄誉と免罪を約束する、世界共通のジョーカー。
「こんなもんを発行してもらえるほど、政府に貢献はしてねぇと思うけどな」
ヴィネックは皮肉交じりにつぶやくと、浅葱色の切符を人差し指と中指の間につまみ、ひらひらと振ってみせた。不敬とも取れるその態度に、だがロルーヌの顔色は一切変わらない。
「審議院の判断は絶対です。いずれ、真意がわかる時が来るでしょう。……では、私はこれで」
相変わらず無表情のまま一礼すると、訪問者は踵を返して退室した。二人の前で、扉がゆっくりと開き、そして閉まる。
「予想はしてたが、つまんねぇ用事だったな。もう戻っていいぞ、アドリオ」
ヴィネックは大欠伸をし、首を鳴らしてから立ち上がった。アドリオは口を開きかけ、なにごとかを問いかけようとしたものの、言葉が見つからず、結局口を閉じた。彼もまた、ぞんざいに切符を握りしめ、部屋を出て行く。
一人残されたヴィネックは、打って変わって神妙な顔になり、つぶやいた。
「――中央からの情報によると、確か同時にあいつにも発行されてるって話だったか……。どういうことなんだ? こりゃあ」
三枚もの切符が同時代に発行されることすら稀だというのに――ヴィネックの額にしわが寄った。
その脳裏を過ぎったのは、いまだ胸のうちに巣食う忘れ得ぬ恋人、美沙紀の面影。
そして二人の息子の想い人、未明の姿だった。
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