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  センロノハテニ 作者:日比谷碌樹
第一部
第九話 夜の出会い 1
 
 その出来事のあと、しばらくしてあたしはベッドから起き上がり、水差しの水でハンカチを濡らすと顔を拭いた。それからおもむろに荷物を片付け始めた。と言っても、何枚かの下着を箪笥から取り出し、ボストンバッグに仕舞った程度だけれど。
 ライティングデスクの上には、語学学習用に使っていたノートと筆記具が出しっぱなしになっている。でも、もういい。もう使うことは永遠にない。
 あたしは、さっき乱された服をきちんと整えた。時刻はそろそろ九刻、つまり夜の十時になる。真夏の日本と違い、どういうわけかここいらは初冬を迎えているとの話だから、外はきっと寒いだろう。このメイド服はわりと生地が厚めだから、そこそこ防寒性能を備えてはいそうだ。
 部屋を見回してから、エプロンを外し、ていねいに畳んでベッドの上に置いた。せめてパドマさんくらいには、お世話になったお礼を言っておきたかった。でもろくに言葉が通じない以上、それも叶わない話だ。あたしは心の中で、彼女に別れを告げた。

 ここを出て行くのだ。いますぐ。



 ジードは自室に引き上げ、寝台の上に倒れ込んだ。傷つけた小鳥の哀れな啼き声が耳にこだまする。

 ――自己嫌悪で死ねるものなら、間違いなく自分はたったいま絶命している。

 なんという失態を犯してしまったことか。これから先、どういう顔をして未明に会えばいいのだろう。
 いや、そもそも、もう彼女は自分を信用してはくれないだろう。会ってまだ十日かそこらだというのに、彼女の窮地をたまたま救ったことを恩に着せ、二人きりになった途端に襲ってくる不埒な輩。その程度にまで自分の立場が失墜していたとしてもなんの不思議もない。
 彼は両手で頭を掻き毟った。様子のおかしい主人を心配してか、忠実な愛犬がそばへ寄り添ってくる。しかしいまのジードには、ラギの艶やかな被毛すら直視することができない。

 ──未明の髪。未明の肌。未明の身体。甘い香り。やさしい声。少し戸惑ったような表情。

 頭の中は彼女の映像でいっぱいになった。
 好きだ。やはり、未明が好きだ。先ほどは確かに性急過ぎたかもしれないが、彼女が欲しいという気持ちに嘘はない。
 ジードは上半身を起こし、なんといって謝るべきか思案を始めた。それとも、言葉だけではだめだろうか。なにか、贈りものをした方がいいのだろうか。そこまで考えたところで、彼はため息をつき、自嘲気味に笑った。
 ウェス・ハーシュの家に生まれた男子は、皆、大学府へ進むことが決まっているため、親族などのごく一部の例外を除き、幼い頃から女子との交わりを一切禁じられて育つ。入学を許される十九歳になるまでは、なにがあっても貞節を守らなければならないからだ。
 つまり、同じ年頃の一般の男性とは違い、女の扱いや付き合い方がまるでわからないのである。それはホルツェンをはじめ、学内で知り合う友人たちもむろん同様だ。
「いや……待てよ。そうとも限らないな」
 そこでジードはふと気づいた。このウェス・ハーシュ家に、もっとも身近なところに例外が存在することに。
 それは彼の実父にして現当主であるオルグ・ヴィネック・シオン・ウェス・ハーシュだ。彼は二十三歳で大学府を卒業するが早いか、従姉でもある神官一族の娘、イレイラと結婚したのだが、どういうわけか在学中から派手な浮名で有名な男だったらしい。ワンジオ翁の目を誤魔化すことはできない。とすると彼は童貞のまま女を手玉に取ったということになる。そんなことが、果たして可能かどうかは別にして。
 ジードは頭を振った。

 ――父上のことはいまは関係ない。どちらにしろ、七日間会議で不在なのだから。

 それよりも、いますぐ謝りに行こう。彼女は部屋に入れてはくれないだろう。それでもいい。もう一度、きちんと謝りたい。部屋の外からでもいいからこの誠実な気持ちを伝えたい。
 ジードは立ち上がり、扉を開けると廊下へ出た。タイミングよく──いや悪く、駆けてきた小妖精とぶつかった。年の離れた弟妹のかたわれ、ユ・ゼルだ。彼は見事にすっ転び、緋色の絨毯の上に倒れ込んだ。
「痛ぁい! 兄様ひどいよ、痛いよう」
 ジードは苦笑しながら弟を助け起こした。
「廊下を走ったりするからだ。パドマに見つかったら三日間はおやつ抜きにされるぞ。ほら、さっさと起きろ」
 ユ・ゼルはその可愛らしい頬をまん丸に膨らませた。
「へんだ。兄様の意地悪! ねぇ、テラのこと見なかった? かくれんぼしてるんだけど、全然見つからないんだ」
「お前が鬼なのか? ならほかの人間に訊くのはルール違反だろう。自力で探し出すことだな」
 ユ・ゼルの顔がたちまち曇る。
「だってさっきからずっと探してるのに見つからないんだもん。テラの代わりにミハルは見つかったのにさ。ミハルは誰とかくれんぼしてたのかな、内緒だって言ってたけど。でも、お外にまで出るなんて反則だよね」
「……なんだって?」
 ジードの顔色が変わった。



 そもそもあたしは電車に乗ってこの町に来たんだ。それならきっと、この町発の電車──汽車なのかもしれないけど、とにかくそれに乗りさえすれば、どこかの地点で元いた場所に戻れる。
 元いた場所。
 あたしはこの十日で、ひとつの仮説を立てていた。ここは多分、日本じゃない。といって、おそらく、厳密には外国ですらないんだろう。なにかの拍子で空間がねじれて、別の時代のどこかの国に来てしまったんじゃないか。ヨーロッパにはきっと数え切れないくらいの小さな国があったんだろうし、そこにつまり、タイムスリップしてしまったんじゃないかと。
 突飛すぎる考えかもしれないけれど、だってじゃあ、ほかにどう説明がつく?
 そしてもし、もしもそのとおりだとしたら、脱出口が必ずあるはずだ。来れた以上は出ることもできるはず。
 そんなことを思いながらボストンバッグを携え、あたしは夜の街を駅まで歩いていた。道のりは多分、五キロ程度。雪こそ降ってはいないものの気温は相当冷え込んでる。きっと三度とか、そんなくらい。はっきり言って寒い。コートなしはきつい。温暖湿潤な日本が恋しい。
「……くしょんっ」
 くしゃみが出た。本格的に風邪をひく前にとっとと電車に乗らなきゃ。そう、急がなきゃ──なにしろ、お屋敷を出るところを、あの家のいちばん下の息子だっていう小さな男の子に見られているんだから。あたしを見たことは内緒よ、ジェスチャーを取り混ぜてそう口止めはしたけれど、なにしろ相手は子ども。誰かに訊かれれば話してしまうだろう。
 でも、すごく可愛らしい子だった。灰色のおかっぱで、澄んだ瞳がジード様にどことなく似て……って、あの人のことはもう思い出したくもないのに! あたしは立ち止まり、頭をぶんぶんと振った。信用できるなんて思ってた自分がほんとにばかだった。
 結局、慰安婦代わりに置いておきたかっただけなんだ。そう思った瞬間、無性に泣けてきた。信じた自分の愚かさとか、ああいうことをしたいからやさしくしてくれてたんだとか、考えれば考えるほど涙は止まらなかった。あたしに()しかかってる間中なにかを言ってたけど、動転するばかりで聴き取ることもできなかった。
 弟の方に襲われかけた時よりももっとショックだ。ショックで、悲しかった。どうしてこんなに悲しいのか、自分でもわからないけれど。
 駅舎の灯りが見えたところで、あたしは思わず走り出した。
 ところが、である。
「なにこれ……封鎖されてるのぉ!?」
 ホームへ続く階段の入り口には三重のロープがかかっていた。あたしは途方に暮れた。
 これって、どういうことだろう。ホームレス対策で夜間侵入禁止にしてあるとか、そういう意味なんだろうか。
 つまり……いまの時間、電車はないってこと? マジで?
 ボストンバッグを手に呆然と立ち尽くすあたし。次の瞬間、さらなるトラブルが降りかかってきた。
「お前、あの時の娘じゃないか! なんだってこんなところにいるんだ、ウェス・ハーシュ邸から逃げてきたのか!?」
 聞き覚えのあるダミ声。
「げ」
 頭上を見上げると同時に、あたしは小さく呻いた。駅舎の窓から、あの日あたしをつかまえたひげの駅長さんが身を乗り出している。それも、やたらと険しい顔つきで。
 あたしはダッシュでその場から逃げ出した。とは言っても土地勘はゼロ。どこへ逃げたらいいのかまったくわからない。でもとにかく、ここにいたらまずい。どこか、どこでもいいから隠れなきゃ。
 点々と設置された街灯が、いつしか繁華街らしき妖しげな界隈へとあたしを導いた。身を隠せればどこだっていい、そう思い、あたしは夢中でそのうちの一軒の建物の裏口から中へ潜り込んだ。


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