目を開けると、ぼんやりとした薄闇が見えた。
広い部屋の四隅には、ちょうど一晩で消えるように調整されているキャンドルタイプの常夜灯が設置されているので、夜中になにかあっても真っ暗闇でパニックに陥るってことはないらしい。寝返りを打とうとして、いま自分が置かれている状況を唐突に思い出し、顔が真っ赤になった。
あたしの真横には、オルグ・ジード卿が――もといジード様がいる。
眠っていてもまったく崩れない、こっちが恥ずかしくなるくらいきれいな顔のままで。
神に誓って、絶対に身体に触れたりはしない。だから同衾を承知して欲しい。涙目で迫られ、結局あたしは折れてしまったんだった。こんなこと、死んでもお母さんに知られるわけにはいかないと思いつつも(知られるはずもないんだけど)。
「ミハル……」
いきなり名前を呼ばれ、あたしは硬直した。起きてるのかと思ったけれど、どうやらそれは寝言だったらしく、長い睫に縁取られた瞳は閉じていた。でも、あたしの肩に回された左腕には、眠ってるとは思えないくらいの力が不意に込められた。……どういう夢を見てるんだろう、と一瞬不安になった。
あたしは極力、意識の中から彼を締め出すことにした。
それから、ゆっくりと、思考の海に潜る。
浴室でのピアとのやり取り。左脚の黒子。――そうだ、それに、ひとつ思い出したことがある。
これなに? 未明ちゃん。外語大って、こういう研究もするの?
実家に帰省した日、榛名にそう訊かれた。彼女が示していたのは、あたしの持っていたバンド付きのノートの中身。そこには、見たことも聞いたこともないような、おかしな文字が並んでいて、でもあたしにはまったく身に憶えのない内容で――あれってもしかして、この国……ていうか、この世界の国語だったんじゃないだろうか。
いや、でも、そうだとして、いったいいつあたしはここに来たんだろう? あの怪しげな廃隧道の崖から落っこちたのは年末の話だ。それより以前に一度来ているんだとしたら……。
あたしは、ジード様やその弟さんやピアが言うように、本当に記憶を失っちゃってるってことになる。あたしの人生のどの時点でかはわからないけど、ある日突然「こっち」に召喚れて、同じように突然日本に戻されて……ってことに。
そう思った途端、全身からすうっと血の気が引いていくのを感じた。
だって、それじゃ、あたしの意思とはまったく無関係に、この先もそういう事態が起こり得るって話になってしまう。たとえば日本にどうにか帰れたとして、大学を無事卒業できても、就職したとしても、またいつこんな不条理な状況に巻き込まれるかわからないなんて……そんなの冗談じゃない。
……頭痛くなってきた。だめだ。眠ろう、とりあえず。あたしは強引に瞼を閉じた。
――こんな風に腕枕されたのって、もしかして二回目だったような気がする。
でも、一度目はいったい誰に……?
「ミハル……愛してる、ミハル」
小さな声が聞こえた。不意打ちのような愛の言葉。ぎょっとしてジード様を見ると、その目は相変わらず閉じられていて、でも、眉がどこか苦しげに歪んでいた。……胸が痛んだ。
なんの変哲も取り得もない、どこにでもいるような女子大生。そんなあたしを、どうしてこの人は、ここまで求めてくれるんだろう。
それから一週間の間、ジード様は文字どおり、ひと時たりともあたしをそばから離そうとしなかった。お茶の時間も、食事の時間も、この部屋で二人きりで過ごした。庭に散歩に出る時ももちろん一緒。天使みたいに可愛らしい双子の姉弟、ユ・テラとユ・ゼルがやって来て、あたしにしきりに話しかけようとしてくれたのに、ジード様はさりげなく二人を遠ざけてしまった。
あたしはつい不満げな顔をしてしまったみたいだ。彼は申しわけなさそうに苦笑しつつも、あたしの肩を抱く手のひらに力を込めた。
「すまない。だが、いまだけは……せめて大学府に戻るまでは、お前を独占させてくれ。二ヶ月間もお前の顔が見られないなんて、私には拷問に等しいんだ」
不覚にも、きゅん、と胸が鳴ってしまった。……いや、だって、このレベルの人にそんなこと言われたら、たいていの女子はときめくだろう。それでもあたしは微力を振り絞って、抵抗っぽいことを試みた。
「……ジード様、趣味、悪いです。ほかにもっときれいな子、いっぱいいるでしょう。あたしみたいな素性もわからないような怪しい女、どうしてそんなに大切にしてくれるのか、不思議です」
「――驚いたな。本気で言ってるのか? ミハル。私の気持ちが信じられないってことか?」
身体の向きを変えられ、そう詰め寄られた。怒っているのか、それとも傷ついているのか、その声はいつもの穏やかな声色とは少し違って、かすかに震えてさえいるようだった。あたしは焦った。
「し、信じられないとか、そういうことではなくて、その……」
「いますぐにだってお前が欲しくてどうにかなりそうなのに、それを必死で抑えているっていうのに、お前はそんなにつれないことを言うんだな。……信じさせて欲しいのか? ベッドの中で」
とんでもないことを言い出され、あたしは首を必死で横に振った。けれど、彼は攻撃の手を緩めてくれない。狼狽えるあたしを抱きしめ、頭に頬をすり寄せながら、甘く低い声で囁き続ける。
「禁忌など本当はもうどうでもいい。お前さえ私を受け入れてくれるなら、私はすべてを棄てられる。わかってくれ、ミハル……愛してる、愛してるんだ。……気が狂いそうなくらいに」
彼の気持ちが流れ込んでくる。胸が苦しい――自分の感情なのか相手のものなのか、それすらわからないほど。
「本当はこんな状態のまま、お前を置いていきたくはないんだ。お前の心が完全に手に入ってもいないというのに、このままお前をこの屋敷に残したりしたら、それこそあいつの……」
言いかけて、彼ははっとしたように口を噤んだ。怪訝そうに彼を見上げるあたしにぎこちなく微笑み、話題を変えた。
「少し風が出てきたな。移動しよう、いい場所があるんだ」
小さな男の子みたいな表情だった。手を引かれ、美しく手入れされた芝生を歩く。五分ほど歩いた先に、見たこともないような立派な巨木がどっしりと立っていた。太く入り組んだ幹、いく筋にも分岐して天へ伸びる枝葉。たとえて言うなら、CMなんかで観たことのあるガジュマルみたいな――あたしは思わず嘆声を漏らした。
「すご……きれい……」
「イグネラの樹というんだ」
ジード様は幹にもたれかかるようにして腰を下ろし、あたしにもそうするよう促した。彼に倣い、その隣に座り込む。
「イグノディアス神の宿る世界樹と同じ種類だという説もあるんだが、確かにそう思えるくらい見事な樹だろう。……だから、この樹の下では、お前に触れることはできないんだ。かの神が嫉妬し、恋人同士の仲を引き裂くと言われているからな」
弁財天とか、山の神様みたいな存在なんだろうか。引き裂かれるほどの仲ではないんじゃ、と思ったけれど、さっきのことがあったので黙っていた。
それにしても、この手の巨木信仰って、どこの世界にもあるんだなぁ。日本の場合だと、神話に出てくる高御産巣日神(※)は、別名が高木神。元々は神格化された木を指しているって言われてるわけだし。
「子どもの頃、勉強や剣技の授業に嫌気が差すと、こっそり屋敷を抜け出してはここに来て、隠れていた。私がこの場所を気に入っていることは皆が知っているはずなのに、不思議と見つからなかったんだ。イグノディアス神が味方してくれたのかもしれないな」
悪戯っぽい微笑。あたしもつられて笑っていた。真夏の黄昏の、どこか切ないような風が、ふわりとあたしたちの間を通り過ぎていく。
心地好いはずのその風に、あたしの身体はなぜか震えた。
あの廃隧道を覗き込んだ時に感じた夏の風と、同じ匂いを嗅ぎつけたせいかもしれなかった。
(※「高御産巣日神」……天地開闢の折、高天原に現れたとされる「造化三神」の一柱。結合、生産を司る)
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