あたしは必死で廊下を駆け、一階の自室に飛び込んだ。鍵を掛けてベッドに潜り込む。しばらくの間は身体の震えが治まらなかった。
──なにを言っているのかは全然わからなかった。でも、考えていることはわかった。
恐怖と、怒りと、情けない思い。あんな風に力ずくで来られたらひとたまりもない。
「ちくしょう」
そんな言葉が口をついて出た。無性に悔しかった。大学の同級生に少しくらい似ているからって無条件に気を許すあたしもあたしだ。
──久世さんって、苦学生なんだって? 俺と同じだな。
第二外国語のドイツ語の授業であたしは初めて彼と言葉を交わした。瀬川淳。長野から上京してきているという彼は気さくで、話しやすくて、すぐに打ち解けた。付き合うというほどじゃなかったけれど、もしかしたら好きになるかもしれない。そんな予感を感じることが時々あった。
郷里は海の近くだという話をすると、彼はすごく羨ましがった。長野は山に囲まれていて、潮の匂いを感じることはないからだと。でもその代わりスキーとかできるじゃん、それもいいよね、そう言うと、彼は反対に、なら夏休みにお前の実家に招待してよ。俺、夏男だからウィンタースポーツよりサーフィンの方がやりたい。なんて返してきたものだ。田舎者同士、奇妙な連帯感が生じていたのかもしれない。
とにかく、瀬川君とアドリオ様はまったくの別人なんだ。当たり前だけど、認識が甘かった。
七刻を過ぎ、大広間では晩餐が始まっていた。あたしはまだ、メイドとしての晩餐デビューはさせてもらえない。そして使用人の夕食時刻はそれより遅く、八刻半(夜九時)。それまでは勉強でもしていよう。あたしは、帰郷するつもりで持ってきていた小型のボストンバッグから取り出したノートを広げた。入試並みに真剣に聴き取りをしているおかげで、いくらか語彙が増えてきていた。
語の響きそのものはラテン語系っぽいけれど、文法的には英語に近く、それほど複雑じゃない。少なくともフランス語や、あたしの母語である日本語ほどの煩雑さはなさそうだった。
YESは「ユアン」。NOは「デム」。一人称は「イド」。二人称は「テス」。三人称のうち、女性格は「シ」。男性格は「デュ」。複数形になると性差は消えて「デュス」に変化する。基本文型は主語+述語+目的語。疑問形になると述語と主語が逆転する。この十日で、それくらいのことはなんとかつかめていた。
ノックが鳴った――ような気がした。集中するあまり、聞き逃していたのだ。二回目のノック。はっと顔を上げる。パドマさんかピアが呼びに来てくれたのかもしれない。
ドアを開けると、そこにいたのはジード様だった。あたしはぽかんとして彼を見た。
「食事はまだなんだろう? 入れてくれ」
彼の手には、この前みたいに銀のドーム型のお盆が載っている。……そう言えば、昼間、お茶を淹れに行った時、なにか言われたような……。まったく聴き取れなかったんで逆に適当に肯いちゃったんだ。まずかったなぁ。
パドマさんは、あたしたちメイドがこの家のご子息に近づくことをよく思っていない。まあ身分差とか、いろいろ面倒の種だからだろう。ピアをたしなめる彼女の渋い表情を思い出し、あたしは慌てて首を横に振っていた。
「あの、えと……レーゾント。デム、ダルハ、テス……」
ひどい片言だったけれど、意味は通じたらしい。ジード様の表情が曇った。
「……パドマになにか言われたのか? 気にしなくていい。勉強を見てやるだけだ」
勉強、という単語だけ聴き取れた。言葉を教えてもらえるのはそりゃありがたいけれど、パドマさんを裏切るようなことは正直気が進まない。でも彼は、そんなあたしの様子にはおかまいなしで部屋に入り込み、後ろ手にドアを閉めた。あたしは仕方なく彼に従った。
ジードは、いまやほとんど焦がれるような想いで、目の前の少女を見つめていた。彼女はどこか後ろめたそうな顔をして、もじもじと食事を口に運んでいる。
今日のメニューは、潰した芋と燻製の肉を薄く切ったエッカに挟んだ、ロマド風サンドイッチと、温野菜のサラダ。そして、卵液を甘く味付けして蒸し焼きにしたゾブリッカ。薬草を煮詰めて作ったスパイシーなソースがかかっている。とろけるような味わいが特徴の、ロマド独特のデザートだ。
初めて口にするゾブリッカに、未明は目を輝かせた。
「ロジー」
美味しい、という意味の形容詞だ。ジードは微笑した。
「お前がどこから来た娘なのかはわからないが、やはり女性は皆甘味に弱いものなんだな。太るのを気にしてデザートを避ける若い娘も多いと聞くが、お前はむしろ細すぎるくらいだ。気に入ったならどんどん食べるといい」
未明は屈託ない笑顔を見せた。ジードの胸が甘く疼く。
──本気で好きなら、タブーでもなんでもとっとと犯して、その女と添い遂げろ。
友人の言葉が耳に蘇る。ジードは頭を振った。そんなことをするわけにはいかない。自分だけの問題ではないのだ。ウェス・ハーシュ家の名誉がかかっている。長い歴史を持つこの家で、大学府を卒業できなかった長子などはこれまで存在しない。
だが、それならなぜ、未明に会いに来てしまうのだろう。惹かれているという自覚はあった。自分も男だ。経験がないとはいえ、いや、ないだけに、二人きりの空間がどれほど危険なシチュエーションであるかは厭というほどわかっている。
それなのに、止められない。会いたい。食事を届ける、勉強を教える。そんな口実にすがりつく。理由さえあれば、未明も自分を拒まないだろう。現にさっきも、彼女は「勉強」という言葉に反応を示した。
食事を終え、テーブルの上を手早く片付けると、未明はライティングデスクに広げたままのノートを示した。上目遣いに、甘えるような眼差しでジードを見る。
「コニオン……トア」
心臓が射抜かれる。頬が、いや全身が熱くなる。
ジードは椅子を引いて腰掛けると、懸命に平静を保ちながら「講義」を始めた。未明は真剣な表情で彼の言葉に耳を傾けている。
「語彙は日常生活の中で増やしていくしかないが、それでも、基本的な言い回しは覚えておいた方がいいだろうな。そうだな……今日は禁止構文を教えよう。〇〇するな、という意味の文章だ」
彼はノートに簡単な絵を描いて説明した。人物の上に大きな×印。NOを意味するデムの文字。
「ダット・デア・イル。この、デア・イルの部分が変わっていくんだ。相手にしてほしくない行動をはめ込んでいけばいい。たとえば……」
ジードはじっと未明を見つめた。
「……一人で出かけるな。私のそばから離れるな……」
口調が熱を帯び始めた。彼は知らぬうちに未明の手をつかんでいた。彼女は戸惑い、怯えたように自分を見ている。ジードは続けた。
「ほかの男を見るな。ほかの男と口を利くな」
もう限界だった。ジードは未明の小柄な身体を素早く引き寄せ、抱きしめていた。驚きのあまり身動きもできない彼女の耳元で、彼は切なく告げた。
「お前が好きだ」
腕の中で未明がもがき始めた。生まれたての仔猫にも似た、弱弱しい力だ。ジードの中で、彼女へのいとしさが燃え上がり、そのいきおいを増していく。
「愛してる、と言ったんだ。──こういう風に」
彼は未明の頬に手を添えると、抗う間も与えず唇を奪った。意識のどこかで花火が弾けたような、恍惚と官能の嵐が一気に押し寄せる。息が荒くなる。やわらかな唇を貪り、舌をこじ入れる。接吻という行為自体初めてではあったが、不思議とそんな気がしなかった。カルマ駅で初めて彼女を見た時から、こうなることをどこかで予感していたのかもしれない。
情熱的な口づけは五分ほど続き、未明の身体から力が抜けていくのがわかった。逆にジード自身は、全身の血管と神経が緊張に張り詰めていくのを感じていた。中心部分が熱を持ってずきずきと疼いている。性的に興奮している証拠だった。
この、熱く滾るおのれの分身を、未明の体内に挿入する。赦されない行為だ、少なくともいまの彼には。欲望に負けて彼女を抱いてしまえば、あまりに大きな代償を払うことになるだろう。
だが、それでも、彼女が欲しい。彼女への気持ちは、この恋情は一時期の惑いなどではない。
ああ、もう理屈などどうでもいい、私はお前が欲しい、お前とひとつになりたいんだ、いますぐに。ジードはすべての葛藤を振り払った。
「ミハル、愛してる、お前が好きだ」
彼は未明に頬ずりをし、その身体を軽々と抱き上げるとベッドに横たえた。そしてその上に馬乗りになる。赤く潤んだ瞳で呻くように囁く。
「愛してる。……お前が欲しい」
組み敷かれた未明がなにかをわめいている。鳥の囀り。パニックのあまり母語しか出て来ないのだろう。その様子は、ジードの中に眠る男としての庇護欲と、嗜虐心を大いにそそった。彼はふたたび口づけをした。
「んっ……ふ……っ」
未明は必死で顔を背けようとしている。しかし力ではとうてい敵いはしない。存分に味わい尽くし、なお名残惜しげに唇を離す。燃え立つ欲情が、次なる行為をあるじに指示する。ジードは手のひらを未明の胸元に這わせた。
――やわらかい。
これまでに触れた、どんなものよりもやわらかかった。それでいて、不思議なことに熟れ切らない果実にも似た張りのある硬さが伝わってくる。──これが女というものなのか、とジードの胸を甘い感慨が満たしていく。彼はその感触のとりこになった。服の上からではあったが、夢中で撫で回し、時に力を込めて揉み、捏ね上げる。飽きることがなかった。
しかし、そこが最終目的というわけではない。彼はようやくその次の段階へと移った。びろうどのスカートをめくり上げ、太ももの辺りまでを覆っている白い下穿きに手をかけた。これを脱がしてさえしまえば、未明の深奥へ続く入り口が姿を現すはずだった。ウェス・ハーシュ家の歴史も名誉も、大学府も、「天上の切符」さえ、すべてが取るに足らないことに思えた。
――私がいま、心の底から欲しいのはミハルだけだ。
彼は自らの欲望のままに動き、下穿きをずり下ろした。だがその下にはもう一枚の衣類が残っていた。
見たことも聞いたこともないような奇妙な形をした、ひどく小さな下着だ。春に咲く花々のような扇情的な色。手の込んだレースの刺繍。それはまるで、彼という男の手で脱がされるのを待っているかのようにすら感じられた。ジードの手がゆっくりと布地の端にかけられた。
苦しげな小鳥の声が、途切れ途切れに聞こえてきた。
ジードは顔を上げた。それは未明の泣き声だった。彼女は泣いていた。肩を震わせ、顔を腕で覆うようにしながら、すすり泣いている。
彼は言葉を失くした。……自分はいま、いったい、なにをしようとしたのか。
未明がこの行為を望んだのか? いや。彼女は、自分に対し、感謝の念こそ抱いているかもしれないが、恋慕の情などその片鱗も匂わせたことはない。──自分に抱かれることなど、望んでいるはずがないのだ。
胸が切り裂かれそうな痛みに襲われた。未明を傷つけたこと。そして、はっきりとした拒絶を受けたという事実。
「……すまない」
ジードはつぶやいた。スカートを元どおりにし、ベッドから降りる。彼女の顔などとても見られなかった。
やがてドアが開き、閉まる音がした。小鳥の声はそれから小一時間ほど止むことはなかった。
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