ほぼ一年中温暖な気候が続くこのエンザンテでは、夏季の日の入りは一段と遅くなる。ゼノンは銅貨一枚をポケットに突っ込むと、七刻半(午後七時)を回った頃、カジュヌ港近くの市場へと買い出しに出かけた。この時間帯、売れ残りの野菜が安く手に入ることがあるのだ。
数日前、大量に買い込んだ二十日芋も、はや残り少なくなっている。少年の頬に、ため息混じりの苦笑がふと浮かんだ。
――ヴァルのやつが大喰らいだから、食費がかさむったらないよ。家族を新しく迎えようっていうなら、少しは考えてくれればいいのにさ。
本当はもうわかっていた。親代わりの同居人、ヴァリーが、海から連れ帰った異国の少女に恋心を抱いていることを。狭い家の中である。それでなくても単純な彼の思っていることなど、年齢よりも賢しげなゼノンの目には呆れるほど筒抜けだった。ただ、肝心の未明の方は、生来鈍感な性質なのか、ヴァリーが自分に向ける熱っぽい眼差しにはまるで気づいていない風情だったが。
ヴァリーを獲られたくない一心で、彼を好きにならないように釘を刺したこともあった。だが、未明ならいい。彼女は街の盛り場でヴァリーの気を引こうとする女たちとはどこか違っている。
……うん。ミハルならいいや。ヴァルと恋仲になっても。ヴァルと結婚しても。
もしかしたらすでに「夫婦」になってしまっているかもしれない。なにしろ手の早い海育ちの男だ。ゼノンは赤くなり、頭を乱暴に振って気持ちを切り替えると、慌てて駆け出した。これ以上遅くなると店が閉まってしまう。
それが災いした。
角を曲がろうと飛び出した瞬間、街道をやってきた二頭立ての辻馬車とぶつかりそうになり、咄嗟に避けたものの、体勢を立て直すこともできず思いきり地面に転がされてしまったのである。天地がひっくり返り、ひどい衝撃に襲われた。馬の嘶き、蹄の音、慌てふためく大人たちの声。起き上がろうとしたところで、右肘に強い痛みを感じた。
「なんてこった、坊主、平気か? おい、大丈夫か、ええ」
嘆息と悲鳴の混じった御者の声が聞こえ、同時に身体を抱き起こされる。ゼノンはなんとか気丈に答えた。
「へ、平気……こんなの、どうってことないよ……てっ」
御者の隣には、馬車の乗客らしい二人の青年の姿があった。どちらも背が高く、身なりが良く、そして驚くほど整った顔立ちをしている。
「血が出ているぞ。破傷風になったら大事だ、手当てをするから送っていこう」
灰色の髪をした、より長身の男が、いとも軽々少年を抱き上げた。驚きのあまり言葉も出ないゼノン。
「い、いいよ、手当てなんて。こんな怪我くらい、舐めとけば治るよ」
慌てて降りようとするも、青年は頑として聞き入れない。
「自分の肘を自分で舐めるのはむずかしいぞ。いいからおとなしくしていろ。家はどこだ」
「……カジュヌ港近くの小屋。ここから港に向かって東にちょっと行ったとこ」
「よし」
青年は目を細め、肯いた。ゼノンがこれまでに見たこともない、それはまるで宝石みたいに澄んだ緑碧に輝く瞳だった。
少年の案内で馬車を走らせるうち、やがて一軒の粗末なログハウスが見えた。そこが彼の家なのだという。
「お前、独りで暮らしているのか」
彼に誘われて室内に入った灰色の髪の青年――ジードが、訝しげに訊ねた。問われるまま、少年は首を横に振る。
「親代わりの同居人がいるよ。それから、近々結婚する予定なんで、その相手の女の子も一緒に」
答えを聞き、青年は少し安心したように微笑した。
「そうか。私はオルグ・ジード。こっちは弟のアドリオだ。お前は?」
「えっ……あの、ゼノン」
彼はどぎまぎと答えた。
「兄上、先にゼノンの手当てをしてやらないと。水場はどこだ?」
そう言ったのは黒髪の青年、アドリオだ。ゼノンは彼をリビングの隣室であるキッチンに促した。それに続こうとしたジードの足がふと止まり、同時にその目が大きく見開かれた。
「――これは……」
リビングの隅に置かれたベッドの上に、彼の視線は注がれている。いや、より正確に言うなら、きちんと洗濯を済ませて畳まれた、見慣れぬ意匠の衣類にだ。ふらふらと吸い寄せられ、無意識のうちに手が伸びた。
冬物らしく首元と袖の長い、シンプルなデザインの赤い上着。それに、帆布のような手触りの、ごわごわとした生地の青いズボン。どちらもこれまで目にしたことはない。
――だが、奇妙な既視感があった。ロマド市のカルマ駅で、初めて未明に会った時、彼女が身にまとっていたなんとも奇妙な服に、それは不思議と似て見える。
彼は震える手で、その衣類を掻き抱いた。
「なにしてるのさ、ジード!」
水場から戻ってきたゼノンの素っ頓狂な声が聞こえた。その右肘部分には、元はアドリオの持ちものだった白いハンカチが巻かれている。ゼノンはジードのそばに駆け寄ると、憤慨したように抗議した。
「もう、せっかく畳んでおいたのに……なんで広げちゃうのさ。そりゃ、ちょっとめずらしい服なのはわかるけど、女物だし、ジードには関係ないだろ」
彼の手元からそれら衣類を奪い返そうとし、ゼノンはふと眉をひそめた。
「ジード? どうしたのさ、固まっちゃって」
「兄上?」
アドリオまでがなにごとかと覗き込む中、ジードは渇いた声を絞り出し、ゼノンに訊ねた。
「ゼノン。――これは誰の服なんだ? 女物だと言ったな。両方ともか? ……もしや……ごく最近、異国から舟でここに漂着したという娘はいなかったか。少しこげ茶色の混じった、つやのある黒髪で、瞳も美しい黒で、外国訛りの言葉を話す、十六くらいの……私の……」
ゼノンはどこか怯えたように後退った。
「し、知らないよ、そんな子。それは……その服は、ヴァリーのお嫁さんになる女の子のために買ってきた古着なんだ。だから返してよ、ジード」
彼の言う異国の娘の特徴は、すべてあの居候の少女に当てはまる。――本当のことを言っちゃだめだ。きっとこの二人はミハルの知り合いで、ミハルを捜しに来たんだ。もしもここにいるってばれたら、いまはいないけど、でも戻ってきたらすぐに連れていかれちゃう。そんなのだめだ、だって、ヴァリーは彼女のことが大好きなんだもの。結婚しちゃうのは淋しいけど、ミハルならいい。ぼくたちは、三人で幸せに暮らせるはずなんだ。だから本当のことなんて、絶対に言うもんか――ゼノンはその小さな拳をかすかに奮わせた。
「ヴァリー? さっき言っていた同居人の名か。ゼノン、教えてくれ。その娘の名は――」
「違うって言ってるだろ! 出てってよ、二人とも。これ以上いられたら迷惑だよ、さあ、出てってってば」
少年は必死の形相で言い続けた。その態度は、彼がなにかを知っていることをはっきりと示していた。ジードに倣い、説得に出ようとしたアドリオは、続いて異母兄が取った行動に絶句した。
ジードは、片膝を床につき、頭を垂れ、静かな、だがあまりに真摯な口調でこう言った。
「ゼノン、頼む、教えてくれ。私は、私とアドリオは、ゼーレンディアから彼女を……ミハルを捜しに来たんだ。彼女は以前、ある事件に巻き込まれ、行方知れずになってしまい……それから私はずっと彼女を捜し続けてる。むろんこれからも、見つかるまでは永遠に捜し続けるつもりだ。
もし、もしもここに彼女がいるのなら、頼む。……私と会わせてくれ。私に、彼女を返してくれ」
断罪を待つ罪人。父、オルグ・ヴィネックにする以外に、彼がこんな姿を晒したことなどはこれまでにない。
「兄上……」
アドリオはただぼんやりとそのさまを見守った。彼の知るジードは、名家の長子として、並以上に高い矜持を持つ男だ。属する階級によって他人を見下したりはしないが、決して媚び諂ったり、ましてこんな風に誰かに頭を下げることなど、そうそうは考えられない。それもこんな、年端のいかない子ども相手に。
不意に、移動中の馬車の中で聞いた、ジードのせりふが脳裏をかすめた。人生の分岐点。だからお前に勝機はない、と。
アドリオは頭を振った。退却などもってのほかだ。未明を好きな気持ちは、ほかの誰にも負けてはいない。
「ゼノン、俺からも頼む。俺たちはどうしても彼女を連れて帰らなきゃならないんだ。その代わりに望むものがあるなら、言ってくれ。このエンザンテの貨幣じゃないが、金貨なら少しは持ち合わせてる。なぁ、頼む、ゼノン」
「お金なんか要るもんか」
ゼノンはぽつりと言い捨てた。彼はジードを睨みつけた。
「なんで……なんで来ちゃったのさ。せっかく、ヴァリーが……ヴァリーが好きな子と一緒になって、三人で幸せになれるはずだったのに……あんたたちはどうせ、なんでも持ってるんだろ。なのに、どうしてなにも持ってないぼくから、ぼくやヴァリーから、ミハルまで奪おうとするのさ」
黄褐色の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。ぼろぼろのサロペットの裾を震える手で握りしめ、嗚咽をこらえながら彼はつぶやいた。
「ミハルが……いるんだな。ここに」
ジードは飢えたように言った。ゼノンは乱暴に涙を拭うと、首を横に振った。
「いまはいない。ヴァリーと一緒に船で出かけてる。戻ってくるのは多分、二週間後だ」
「船? どこに? 国内か、それとも――」
「……ゼーレンディアだよ。どこの港かまでは知らないけど」
ジードの顔色が変わった。
「ゼーレンディアだと? エンザンテとの商取引は、ごく一部にのみ限られているはずだが……」
交易都市ロマドにも、時折エンザンテからの商船が訪れることはあるが、回数はきわめて少ない。しかも相手は必ず決まっている。エンザンテの上層にコネを持つ、富裕な豪商だ。
「そうか……わかった。ゼノン、よく話してくれたな。心から礼を言うよ。ありがとう」
ジードは微笑んだ。ゼノンは目を逸らしたが、教えてしまったことに対し、不思議と後悔は感じなかった。
なぜなら、未明はずっとどこかに帰りたがっていた。
その場所が、もしかしたらこの男のもとなのかもしれない。
ヴァリーはさぞがっかりするだろう。彼のために、しばらくは好物料理でも作ってやらなければ。鼻をすすり上げながら少年は思った。
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