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  センロノハテニ 作者:日比谷碌樹
第一部
第七話 アドリオの憂鬱

 ジード様の部屋のドアを閉じるなり、あたしはホッと息を吐き出した。このお家の長男、オルグ・ジード様は、やさしい人だけれどそばにいるとなんだかひどく緊張してしまう。あたしに対する空気がどこか張り詰めているというか……ここに連れてきてしまった責任を感じているせいだろうか。きっとそうなんだろうな、なにしろものすごく真面目そうな人だもの。そう思うと、面倒をかけているという実感が湧き上がり、あたしはなんだか無性に申し訳ない気分になった。
 あたしがこの邸に来て、十日が経っていた。その間にあたしはパドマさんからメイドの心得を色々と教わった。と言っても言葉が不自由なため、もっぱら彼女のあとについてその仕事ぶりを見学するところから始まったんだけれど。お(はした)仕事から食事やお茶の給仕、当主の一家に関する雑事やなんかは、すべてメイドの管轄のようで、中々のハードワークでもあった。東京でしていたバイト三昧の生活がふと思い出された。

 ――いつか、帰れるのだろうか。元の世界に。

 一人になるとすぐに心細くなって泣けてきてしまう。あたしは両頬を軽く叩いた。帰れる。きっと、帰れる。大丈夫。
「よしっと」
 気合を入れ直すと、今度はアドリオ様の部屋に向かう。彼はジード様の四つ下の弟で、つまり、あたしと同じ十八歳。それだけでも親近感を感じるには十分だったけれど、彼は驚いたことに、あたしが通っていた大学の同級生によく似ているのである。初めて見た時は本当にびっくりしたものだ。
 黒い髪も褐色がかった黒い瞳も、すらりと背の高いところも、なにより遠くを見つめるようなその眼差しがすごく彼のことを思い起こさせる。講義中にぼんやりと外を眺めていては、教授に当てられていた姿を思い出し、あたしはふと笑っていた。そう言えば、その容姿は、お兄さんのジード様にはあまり似ていない。まぁ、どうでもいいことだ。
 厨房に赴き、お茶の準備をする。カップとポットを温め、ウォーマーをかぶせる。やかんのお湯を陶器製の水差しに注ぐ。アドリオ様が好きなのは、バラに似た香気を放つユニスという青い花を乾燥させたお茶で、持っていくのはいつもこれと決まっている。
 支度をしていると、ここ数日の間に仲良くなった、メイド仲間のピアが寄ってきた。パドマさんによると、彼女の年齢は十六歳(ヒアリングが間違ってなければの話)。丸顔で、見ているとなんとなく妹の榛名を彷彿とさせる。
「お疲れ、ミハル。ね、それ、アドリオ様の分?」
 あたしは懸命にヒアリングをしながら肯いた。ピアは意味深な表情を浮かべて迫ってくる。
「ねぇ、ミハルってさ、ジード様とアドリオ様のどっちがいいと思う? あたしは断然ジード様なんだけど」
 完敗。名前しか聞き取れない。あたしは曖昧にへらへらと笑った。でも、ピアは最初から人の話は聞いてないらしく、どこか浮かれた口調でおしゃべりを続けている。
「でもさぁ、ジード様って、大学府に入るくらいだからあと一年はエッチできないじゃん? それ考えると、迫るなら弟のアドリオ様かなぁって。既成事実作ろうと思ったらさ、やっぱり──」
「ずいぶんと念の入った計画の立てようね、ピア」
 ピアは飛び上がった。恐る恐る背後を振り向き、必死で愛想笑いを浮かべている。
「あ、こ、これは、女官長様。あっと、あたし、お庭のお掃除に行かなくちゃ。それじゃね、ミハル」
 そう言うなり彼女は厨房を飛び出していった。彼女の後ろ姿を見送りながら、深いため息を吐き出すパドマさん。
「まったく……どうしていまどきの娘っていうのはああなのかしら。親御さんからお預かりしている手前、無碍に追い出すわけにもいかないし。本当に困ってしまうわ」
 パドマさんは仏頂面になり、独りごちている。あたしは切り出した。
「あの、アドリオ様に、お茶、お持ちします」
 お決まりのフレーズくらいならどうにか覚えられた。彼女はちらりとあたしを見た。そして思いついたようにこう付け加えた。
「ミハル。いまこんなことをあなたに言っても半分も理解できないでしょうけど……ジード様にはあまり、近づかないようにしてちょうだいね。あの方には特殊な使命が課せられているの。少なくともあと一年の間は、なにがあっても間違いを起こさないようにしなければ。まあ、そのうちあなたにもわかるようになると思うけど」
 なにを言っているのかほとんどわからなかった。でも、多分、ジード様には近づかないように、とかそんな内容なんだと思い、あたしはとりあえず肯いておいた。近づくも近づかないも、あたしはいずれここを出て行く身なのだから。それも、なるべく早いうちに。



 夕方の、涼しくも心地好い風が、アドリオの頬をやさしく撫でて通り過ぎていった。彼は窓辺に腰掛け、うたた寝をしていたのだった。はっと気づいて起き上がると、人の気配を感じた。
 振り向くと、小卓の上にティーセットを並べているメイドの姿が目に入った。彼は不興をあらわにした。
「勝手に入るな。出て行け」
 小柄なメイドの肩がびくりと揺れた。それは十日ほど前から邸に住み込むようになった、新参のメイドだった。可愛らしいがどことなく異国的な顔立ちをしていて、不思議と印象に残る。アドリオは立ち上がった。
 メイドの娘はなにか、聞き慣れない外国語を口にしている。彼女の母語なのだろう、歌うような響き。
ゆっくりとそのそばへ寄るアドリオ。
「そうだな。……いいことを考えたぞ。俺もあと一年したら、兄上と同じくあの地獄の修道生活に入らなけりゃならないんだ。いまのうちに資格を喪失してしまえば行かなくて済む」
「……?」
 彼女は怪訝そうにアドリオを見ている。言葉が不自由なのだと誰かが言っていた。アドリオは口元に不敵な笑みを浮かべた。
「いまここで、お前を抱いてしまえば、俺は大学府行きの資格を永遠に失う。願ってもないことだな」
 娘がなにかを口走るのが聞こえた。誰かの名前のようだった。誰だろうと関係ない。彼は娘の細い手首を握った。
「……!」
 彼女は息を呑んだ。アドリオの不遜な思惑にようやく気づいたようだった。
「あ、あの、アドリオ様。しつれい、します」
 出て行きたいという意思表示らしい。彼は意地の悪い微笑を湛えながら首を横に振った。片言の話し方が妙にそそる、そんなことすら考えた。舌なめずりをして獲物に迫る猛獣のごとく、彼は娘の両腕を押さえて自由を奪い、その華奢な身体を床の上に組み敷いた。彼女の顔に恐怖と焦りの色が浮かぶ。
「心配しなくても、それだけの代償はやるつもりだぜ。……お互い、楽しめばいい。そうだろ」
 娘は懸命に身をよじった。大きな黒い瞳に、うっすらと涙が浮かんでいる。彼はわずかに動揺した。その黒い眼差しは、いまは行方も知れぬ彼の実の母親を思い起こさせたからだ。
 自分を押さえつけている腕の力が緩んだのを彼女は敏感に察し、めちゃくちゃに暴れてその拘束からどうにか脱出すると、跳ね起きて扉へと走った。彼女はそのまま部屋を飛び出した。


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