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  センロノハテニ 作者:日比谷碌樹
第二部
第十四話 若者と少年


 ここが天国じゃないことはすぐにわかった。あたしはクリスチャンじゃないから、多分違う場所へ召されたんだ。
 ってことは……極楽浄土? でも、それにしては様子がおかしい。だっていま目の前にいるのって、どう見ても外国人だよね。茶褐色の瞳に栗毛の髪、日に焼けた肌……温かい手のひら……あれ? なんか感触がやけにリアルなんだけど……。
「気がついたか」
 あたしの頬を撫でているのは、見知らぬ若い男の人だった。当然、その言葉は日本語じゃなく、あの変わった響きの外国語。どうして理解できるのか自分でもまるでわからないけれど。

 ――つまりあたしは死ななかったんだ。あんな小舟で海に投げ出されたっていうのに。

「大丈夫? お姉ちゃん」
 十歳前後の、そばかすの浮いた可愛らしい男の子があたしを覗き込んでいる。あたしは反射的に肯いていた。
「あ……あの……ここ……」
 身体を起こそうとして眩暈を感じ、ぐらついてしまった。そのあたしの背中を、この精悍な顔の男の人がとっさに支えてくれた。
「無理に起きるな。生身で海を漂流してたんだぞ、死んでてもまったくおかしくはないんだ。……水は飲めるか? 気分は?」
 あたしは額を押さえ、ひどく弱弱しい声で答えた。喉がかすれ、うまく喋れないのだ。
「へ、平気……です……」
 男の子が水の入ったコップを差し出してくれた。あたしはそれを受け取り、ほんの少しだけ中身を飲んだ。男の人が言った。
「ここはカジュヌ港に接する港町だ。ああ、俺はヴァル。ヴァリーとも呼ばれるけどな、好きな方で呼んでくれ。こいつは俺の同居人で、ゼノン。弟みたいなもんだ」
 彼はいっきにまくし立てた。それからじっとあたしを見つめた。
「……見たことない色だな、その瞳は。まるで、なんだか……吸い込まれちまいそうな……どっか別の世界につながってるみたいだ。こうして見てるだけで、いまにも……」
 その大きな手が、ふたたびあたしの頬に伸ばされる。触れる寸前、男の子――ゼノンの揶揄気味の声が飛んだ。
「なんだよ、やっぱエッチ目的なんじゃん。目が覚めるなり口説いたりしてさ。もう少し分別持って欲しいよ、弟分としては」
 ヴァルと名乗った男の人の拳が、ゼノンの頭を威勢良く(はた)いた。大げさな悲鳴が響き渡る。
「それ以上余計なこと言いやがったら、ほんとに納屋に放り込むからな! あーっと……悪い、ええと……そうだ、名前だ。お前、名前はなんていうんだ」
 イエロートパーズみたいな澄んだ瞳があたしを見据えた。
「ミハル・クゼ。……あの、ヴァリーさん、あたしを助けてくれた、あなたが」
さん(・・)は要らねぇって。……いや、実際に海から引き上げたのは俺じゃない。ちょうどシルフ漁をやってたシドンて地元の漁師だ。ランタンクラゲみてぇにきらきら光って、しかも海に浸かってたってのにちっとも濡れてない、不思議な娘を拾ったって騒ぎになってな。事態を収拾するために、とりあえずここに連れてきたんだよ。――連中はお前のこと、アーマンドラの化身だって言ってんだけど……そうなのか? ミハル」
 聞き慣れない単語にあたしは首を傾げた。
「アーマンドラ? 知らない……それはなんですか」
「なにって、海と戦を司る女神だろ。そうか……お前やっぱり、このエンザンテの人間じゃないんだな。言葉遣いもちょっと不自然だし……なぁ、お前、ほんとにゼーレンディア合陸連邦から流されてきたのか? ずいぶんと珍妙な服だが、それもあっちじゃ普通なのか」
 あたしは困り果ててしまった。ゼーレンディアという名前には聞き覚えがあるけれど、そもそもどうしてそんなところにいたのかは謎のままだからだ。でも、日本から来ましたなんて言ったところで、きっと通じやしないんだろう。
「ゼーレンディアの南、離れ島から舟に乗せられて流されました。途中、舟が転覆して、あたし、放り出された。そこからは、憶えていない……」
「舟に乗せられたって、いったいなんで」
「……わかりません。あたし、知らないうちに離れ島にいた。どうしてそこにいたのか、わからない。親切な男の人が助けてくれて……でも、その人、あたしを舟に乗せて、海に流した」
「ひどいなぁ。助かったからいいけど、それじゃあまるで、ミハルを殺そうとしたみたいじゃん」
 憤慨したように言うのはゼノンだ。――そのとおりだ。
 水も食料もないあの状況では、あたしは死んでもおかしくなかった。というより、シグルさんは明らかに殺意を持ってあたしを眠らせ、舟に乗せ、海に棄てたんだ。ただ、その動機はいくら考えてもわからないけれど。
「ふーん……まあとにかく、ゼーレンディアに帰してやりゃあいいんだな」
「簡単に言うけどさ、ヴァル。国交がないんだぜ。どうやって送り届けるっていうのさ」
「俺がインヴォルタンの頭領(ヘッド)だってわかって言ってんのか? 娘一人くらい、どうにでもなるさ」
 あたしをそっちのけで話を進める二人に、慌てて言った。
「ゼーレンディアに帰ってもだめです。あたし、そこの人間じゃない。別の……別の国から来たですから」
「え?」
 彼らは異口同音に訊き返した。
「別の国です。でも、どうやったら帰れるのか、全然わからない。どうしてゼーレンディアにいたのかもわからない。あたし、帰る方法探してるところ」
「…………」
 ヴァリーとゼノンは顔を見合わせ、黙り込んだ。あたしははっとした。彼らにしてみれば、面倒な厄介ごとを背負い込んだのとまったく変わらないに違いないのだ。気まずい沈黙が流れる。でも、この空気を打開してくれたのは、ヴァリーの明るい声だった。
「まあ、別に焦るこたないさ。いたけりゃいつまででもいてくれてかまわないしな。とにかく、その元いた国ってとこに帰る方法を探すんだ。俺たちもできる限りは協力するから」
 あたしは驚き、彼をまじまじと見つめた。ゼノンまでが意外そうに目を瞬いた。
「いいの? ヴァル」
「なんだ、異論があるのか? ゼノンは」
 悪戯っぽくそう言われて、ゼノンの方がうろたえている。
「異論なんかないけど……でも、ミハルは女の子だよ。ぼくは紳士だからいいけど、ヴァルは……」
 言い終える前にまたもゼノンは殴られてしまった。
「阿呆か。言っとくがな、餓鬼に手を出すほど飢えちゃあいねぇよ。まったく、どっからそういう知識を仕入れてきやがるんだ、こいつは」
 ヴァリーは憤慨し切った様子で悪態をついた。あたしは仕方なく、曖昧に笑いながらそんな二人の掛け合いを見守った。いくつに見られてるのか知らないけど、敢えて否定する必要もないだろう、そう思ったので。

 ハーマッド島から南海を漂流すること、多分丸一日。たどり着いた港町で、あたしはなぜか、この風変わりな二人組の暮らす家に居候することになったのだった。

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