ジードは、自らの宣言どおり、パドマから未明の分の食事の載った盆を受け取ると、一階の彼女の部屋へと向かった。空き室となっていた使用人部屋のひとつで、長い廊下のいちばん西側にある。幸い、途中でメイドの誰かとすれ違うことは一度もなかった。
部屋の前で息を整え、ノックをする。すぐに応答があった。ドアが開き、あの娘が──未明が顔を出した。
「あ……」
彼女はうろたえているようだった。メイド頭のパドマが来たのだと思っていたのかもしれない。しかし、訪問者であるジードの方は、そんな彼女の戸惑いなど意にも介さなかった。いや、介せなかった、という方が正しい。
とても可愛い。――率直に、そう思ったからだった。
未明は、パドマから与えられたらしい臙脂のメイド服を着ていた。髪はまだ整えておらず、長く垂らされたままだ。ジードの目は、未明の頭のてっぺんから爪先までを不躾なまでに眺め回した。その露骨な視線に、未明は後退った。青年ははっと我に返った。
「ミハル、お前の食事を持ってきた。中に入ってもかまわないか」
問いかけたところでわかるはずもない。ジードはふと微笑を浮かべ、右手に載せた銀の盆を突き出してみせた。
未明は躊躇いつつも肯き、彼を部屋へ招じ入れる仕草をした。──ジードの胸が高鳴った。ドアを静かに閉じる。
いま、この部屋には、自分と彼女の二人だけだ。
未明は、彼女の母語らしい言葉で、なにごとかを語りかけている。内容は不明だが、その響きの可愛らしさに彼は聞き惚れていた。小鳥が囀っているみたいだ。そんなことさえ思った。
彼女は椅子を引き、ジードに座るようジェスチャーをした。彼は首を横に振った。
「食事を摂るのはお前だ。座って食べなさい」
そう言うと、盆の蓋を取った。肉と温野菜の載ったプレートに、皮の固いこの地方独特のパン、エッカ。テーブルの上の水差しを取り、空のゴブレットに水を注ぐ。そしてふたたび彼女を促す。
未明はおずおずと腰掛けた。それから遠慮がちに声をかけてきた。おそらく、ジード自身の食事が終わっているのかどうかを気にしているのだろう。彼は笑って言った。
「私はとっくに済んでる。お前はきっと、飲まず喰わずだったのだろう? いいから食べなさい」
ジードはベッドの端に腰を下ろした。未明はナイフとフォークを取り上げ、赤身の肉を口に運んでいる。
「それは今朝獲れたばかりの赤獅子のテールだ。脂肪が少なく、美容と健康にいいそうだぞ。多少くせはあるが、慣れれば美味だ」
未明は肉を飲み込むと、わずかに笑った。ジードの心臓がざわめき出す。
彼女の笑顔を初めて見た。その想いで胸がいっぱいになった。
それから未明はずっと笑顔になった。食事が口に合ったのか、それともたんに気を遣っているだけなのかはわからないが、ジードにとっては大差のないことだ。彼は未明の一挙手一投足に釘付けになっていた。
彼女は、早朝の鳥が囀り続けるような感じで、ジードに対しずっとなにかを話しかけている。おいしいとか、これはなんの肉かとか、そんな内容なのかもしれない。できれば逐一答えてやりたい。しかし、それができないいまは、とにかく彼女のそばにいて、その身を護ってやりたい。そうジードは強く思った。
未明はパンを取ったが、じきに途方に暮れたような顔になった。その理由は、言葉が通じなくてもすぐにぴんと来た。
「そのパンはエッカと言うんだ。ロマドには昔から伝わる製法で作られる伝統的なパンだが……貸してごらん」
彼は未明の手元に手を伸ばした。パンを受け取ろうとした瞬間、誤って彼女の指先に触れた。
全身に稲妻が走ったような気がした。たったそれだけのことで、である。
ジードは喘ぐように未明を見た。パンを取ろうとして唐突に手を引っ込めたジードの意図が読めず、未明はただ戸惑っているようだ。自分がなにか悪かったのか、という風に彼を覗き込んでいる。ジードは口元を押さえた。
「ミハル……」
未明はきょとんとして彼を見つめた。名前を呼ばれたことくらいはわかる。しかし、そのあとが続かない。彼女は怪訝そうに眉を寄せた。口を開き、なにごとか問いかけてくる。腕が勝手に動き、気づくと未明の左手を握っていた。彼女が身体を硬くするのが気配でわかった。ジードはベッドから立ち上がった。
その時、ノックの音がした。
ノックの音が聞こえ、あたしはベッドから飛び降りるとドアを開けた。きっとパドマさんが食事を持ってきてくれたんだろう。そういう期待は見事に──じゃなく、半分だけ裏切られた。
そこに立っていたのは、あたしを駅まで迎えに来てくれた青灰色マントの男の人だった。もっともいまはマントは着ていず、一応室内着らしい、いくつものボタンのついたベージュの上下のスーツみたいな姿だけれど。彼の手には銀色のお盆があった。彼はそれをあたしに示しながらなにかを口走った。あたしはとりあえず肯き、彼を招じ入れた。
「あ……あの、さっき、すみませんでした。あたし、取り乱しちゃって……マントも汚しちゃいましたよね。ごめんなさい、結構高価そうだったのに」
通じていないことは承知の上で、それでもあたしは謝った。彼はお盆をテーブルに置くと、さかんに食事を勧めてくれた。お肉とか野菜とかパンとか、なんだかすごく美味しそうなものがお皿の上に載っているのが見えた。正直、お腹はぺこぺこだった。十二時ちょっと過ぎに売店で買ったサンドイッチを食べたきりだったんだから。
「あの、でも、あなたは食事済んだんですか? あたしだけ食べるのって、ちょっと……」
そう言ってみたけれど、どうやら彼の夕食はすでに終わっているらしい。あたしは椅子に腰掛けると、彼に勧められるまま食べ始めた。でも──これって……なんの肉?
レアに焼かれたその赤味肉は、率直に言って、めちゃくちゃ獣臭かった。不味いわけではないけど、食べたことがない味だ。牛でも豚でも鳥でもない。この辺り独特の生きものの肉……なんだろうか。
気を取り直してパンに手を伸ばす。きつね色に焦げ目のついた、すごく美味しそうなパン。ところがこれも一筋縄ではいかない。とにかく固いのだ、フランスパンなんて目じゃない! どうやっても手で千切れない。あたしは困り果ててしまった。
すると、窮状を見かねたのか、ベッドに腰掛けていた彼がパンに手を伸ばしてきた。情けないけれど、一口大に千切ってくれようとしているらしい。かなり恥ずかしかったけど、おとなしく彼にお願いしようと思い、パンを差し出した。ところが、その途端、彼は弾かれたように立ち上がってしまった。……え? なんで?
あたしの図々しさにひいたのだろうか。彼はその緑がかったきれいな青色の瞳を見開き、じっとあたしを凝視している。あたしがなにか、まずいことをしでかしてしまったのかもしれない。どうしよう、謝った方がいい? でも謝るにしても言葉が……そう思っていると、不意に左手を強くつかまれた。あたしは身を竦めた。
怒っているんだ。やばい、よくわかんないけど、怒らせてしまった。作法が悪かったのかもしれない。
「ミハル」
名前を呼ばれた。強張った声――間違いない、やっぱり怒ってる。はい、あの……ごめんなさい。パンは自分で千切ります。十八にもなって甘ったれたこと言ってすみません、だから怒んないで!
その時、ノックの音がした。
入ってきたのはパドマだった。彼女は未明のために用意した何種類かの衣類を胸元に抱えていたが、次期当主の不穏な振る舞いに目を丸くし、素っ頓狂な声を上げて二人に駆け寄った。
「まあぁぁ! ジード様、坊ちゃま! なんてことをなさってるんです、その手をお離しになって! ミハルが怯えているじゃありませんか、まあ、まあ、なんてことかしら、まったく、なんてことかしら!」
衣類が足元に落ちるのもかまわず、彼女はジードにむしゃぶりついた。我に返ったジードは慌てて未明の手を離し、弁明を始めた。
「ま、待て、落ち着け、パドマ。誤解しないでくれ、私はただ……」
仲裁に入ろうとしているのか、未明の必死な声が聞こえた。パドマは彼女の身体を突き飛ばすようにしてジードの前に立つと、彼を睨みつけた。
「だから私は反対だったんでございますよ、お館様が……旦那様がお留守の間に、もし間違いでもあったら……私はあなた様の亡きお母様、イレイラ様に顔向けができません! よりによって大学府からご帰省になっている間に、こんな……こんな、破廉恥な」
ジードは声を荒らげた。
「違うと言ってるだろう、パドマ。人の話を聞かないか。それに少しは気を配ってくれ、一介のメイドの部屋でこんな騒ぎを起こしたら、あとでどんな噂が流れるかわからないぞ。ミハルのためにも、頼むから落ち着いてくれ」
ミハルのために、というフレーズが効いたのか、不意にパドマは口を噤んだ。しかしその表情は不信に満ちている。
「──ジード様。ご承知でいらっしゃることとは思いますが……」
「ああ、わかってる。わかってるとも」
彼はさも鬱陶しげに首を振った。事実、パドマの言いたいことはよくわかっている。
大学府を首席で卒業し、このウェス・ハーシュ家を継ぎ、ゆくゆくは審議院で認められる人間になるためには、あと一年は男性としての貞節を守らねばならない。十九歳で大学府に入学する時の、それは契約だった。この世を統べる全能神にして世界樹の精霊、イグノディアスとの。
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