女主人の間は、いつからか空っぽになっていた。
私がそのことに気づいたのはいつだったろう。もの心つく前、そう、おそらく三つか四つ。それくらいの時だ。
父と母は別々の部屋で暮らしていた。当たり前のことだ。なにを意外そうな顔をしている? ……ああ、やつの母親も他界しているんだったな。
高位の一族というのはそういうものなんだ。一人一人がそれぞれ独立した居室を持つ。むろん、同じ家の中でだ。
淋しい? そんな感情は知らん。ともかく、母はいつの間にか姿を消していた。父は特に変わった様子もなかった。愛していたのかいないのか……私が真実を知ったのは十年ほど前のことだ。
母は不義を働いていた。私を生んでしばらくしてから、姿を消すまでずっと。
嗅ぎつけたのはオルヌ副神官らしい。イシオス神殿はわかるか? キニッサの離れ島にある神殿だ。そこの副神官をしている男で、我が家とは昔から懇意なのだ。ともかく彼の進言によって、母の不貞は明らかになった。
相手などは知らん。知りたいとも思わん、どうせ邸内の使用人の誰かだろう。それとも荘園で働く者か。そいつをどう処したのかは不明だが、母は父自らが断罪した。
礼拝室で斬首されたのだ。父自身によって。
怯えた顔をしているな。恐ろしいのか? 心配するな、私はお前を殺したりはしない。……いや、できない。お前が私を殺すことはあっても、その逆は不可能だ。
──お前を愛しているからに決まってるだろう。
お前がいなくなってしまったら、私は生きていけない。だからお前には私を殺すことができるのだ。
そんな目をしないでくれ……ああ、同情でも憐れみでもかまわない、お前が私を見てさえくれるなら! 過去のことなどどうでもいい、お前さえここにいてくれれば。
名前を呼んでくれ。……もう一度だ。もう一度。……もっと、もっと私の名前を呼んでくれ。
気が狂いそうだ。もっと、お前のその声を聞かせてくれ。
愛してる。愛してる……
カシアン、というのが彼の名前だった。ソフォモンドの大将戦の時、武芸場で聞いていたはずのその名を、あたしはあらためて思い出した。
カシアン。そう呼びかけると、彼は泣き出しそうな顔になった。
胸が、ツキンと痛んだ。
この顔は知ってる。なにか苦しみを抱えていて、それを吐き出す方法を知らないでいる人の表情。小学校時代、同級生から苛められていた妹の榛名が、そのことをあたしや両親に悟られないように必死で自分を押し隠していた時のことをふと思い出した。
同情と憐れみ。確かに大差はない。少なくともあたしが抱いている感情は、純粋な恋慕の情ではまったくない。
――でも、なんとなくほっとけない気がする。きっとこの人がここまで内面をさらけ出した相手はあたしがはじめてなんじゃないかって、そう思うと。行きがけの駄賃というか乗りかかった船というか、そのどれも当てはまらない気もするけど、とにかくなんだかほっておけない。
どうかしている。薬を盛って、意識のない間に女に──あたしに暴行するようなろくでもない人だっていうのに。なのに……。
「カシアン、大学府に友達はいるの」
あたしの問いに、彼は首を横に振った。友人として付き合うに値する人間などあそこにはいない。そんな風に続けて冷たく言い捨てた。でも、それって本心だろうか。そりゃ、集団の中では浮き上がるほどきれいだし、なんでも自分一人でこなしてしまいそうにも見えるけれど。
そのうち、彼は自分の母親について語り出した。お母さんの思い出だっていうのに、楽しい話では決してなかった。
ベッドの上に横になり、あたしを左腕に抱きかかえていた彼は、やにわに起き上がると今度は身体を重ねてきた。そして悲痛な声で囁き続けた──名前を呼んでほしいと。
あたしはなんども繰り返し、彼の名前を口にした。だんだん、わかってきたことがあった。
なにかが足りていないんだ。でもそれを埋められるのは、少なくともあたしじゃない。
黒雲がざわざわと蠢き、ついに雨が降り出した。ウェス・ゴート邸の二人の門衛はため息をついて空を仰いだ。職務とはいえ、こんな機嫌の悪い空の下で立ち続けるのはやはりつらい。
「婚儀が始まりゃあ、振舞い酒にもありつけるさ。それまでの辛抱だ」
仲間の言葉に、もう一方の男も肯いた。なにしろこの名門一族の跡取り息子の結婚式なのだ。さぞ盛大に執り行われるのだろう。そうなれば浴びるほど酒を飲んでやるつもりだった。
そうつぶやき、自分を励ましていると、前方から、二頭の馬とともに二人の男が近づいてくるのが見えた。緊張が走ったのもつかの間、彼らはすぐに手にした長銃を下ろした。
やって来たのはウェス・ゴート家の狩人二人組だ。王冠を象った紋章が上着の襟元に縫い込まれているのが見て取れる。ただ、身なりは確かにそうだが、見慣れぬ顔だった。片方はボサボサの赤茶色の髪に汚れた布で眼帯をしている。そしてもう片方は、漆黒の髪に褐色の混じった黒い瞳。門衛たちはそろって眉を顰め、声をかけた。
「いま戻りか、ご苦労なことだな。ところで、お前ら、新入りか? あんまり見た覚えがないんだが」
赤茶の髪が肯く。
「ああ、臨時に雇われたんだ」
「その目はどうしたんだ? 怪我か?」
男は苦々しそうに背後を示した。
「やられたんだよ。小娘と思って油断した」
気を失っているらしい十四、五歳の愛らしい娘が、馬上で黒髪の相棒に囚われている。得心がいったようで、門衛は肩をすくめた。
「必死に抵抗したんだろう。まあいい、通れ。お館様もお待ちかねだ」
狩人たちは目配せをし、肯き合った。そして悠々と門を抜けた。
──まずは第一関門突破だ。
「ほらね、ばれなかったでしょ。あれを使ったおかげよ」
正体を失くし、黒髪の男に抱かれていたはずの娘はやおら身を起こすと、茶目っ気たっぷりにそうつぶやいた。
「おい、起き上がるなよ。お前は気絶してるところなんだから」
黒髪の青年、つまりアドリオの焦り顔にも彼女はどこ吹く風だ。
「平気よ。もうあんなに離れてるし、見えやしないわ」
「慎重の上にも慎重を期さなきゃならないんだ。俺たちがどんな思いで……」
「それより、その髪意外と似合ってるじゃない。灰色より明るめでいいんじゃない」
少女は赤茶の髪の青年に向かってにっこりと微笑んだ。笑いかけられた男──ジードはちらりと娘を見、冷ややかなため息をついた。
「しおらしげな娘に見えたんだが……勘違いだったか」
「失礼ねぇ、勘違いなんて。あたしは淑女よ。だから髪の色を変える草木のことだって詳しいんじゃない」
少女、ヨナは口をとがらせた。ジードは彼女を無視して手綱を引いている。
その言葉どおり、ジードの髪を赤く染めるためのレグドラ草を短時間で集めてきてくれたのはヨナだ。本邸に侵入するにあたり、門衛はともかくも、執事はおそらく彼の顔を見知っている。当主も同様だ。少しでも見た目を変えておいた方がいい、そう考えていたところ、ヨナがこの案を授けてくれたのだ。
もっとも、カシアンと鉢合せしてしまえばそれまでなのだが。ただジードにしても、最後まで欺き通せるとは思っていない。とにかく屋敷に入り込まなければ始まらないのだ。
やがて四本の支柱に囲まれた玄関に着いた。ジードは馬を降りた。アドリオは娘を抱きかかえて彼に続く。
待ちかねているという言葉は嘘ではないらしい。すぐに老齢の執事が姿を見せたからだ。
「おお、ようやく戻ったか、待ちわびたぞ。……ん? お前たち、出て行った者らとは違うようだが……」
ジードはなに喰わぬ顔で答えた。
「あいつらだけじゃ心配だったんで、こっそりついていったんです。案の定、やつらウィーマにやられてしまいましてね。だが、我々はこのとおり、首尾よく仕留めましたよ」
彼は背後をあごで示した。執事の顔が輝いた。
「うむ、よくやった。ところでこの娘、そのう、生娘なのだろうな」
「ええ、むろん。男を知っているように見えますか」
聞きようによっては無礼なせりふに、ヨナはぴくりと眉をしかめた。それが伝わったのか、彼女を抱く腕にやや力がこもったようだった。──なぜか、ヨナはどきりとした。
「よし、入れ。これで婚儀の準備は整ったな」
ジードは、大して興味もなさそうな風を装い、訊ねた。
「しかし、なぜ未通の娘が必要なんです? 異教徒の結婚でもあるまいし、彼女を供物にでもするおつもりですか」
「お前が知る必要などはない。さあ、とっとと娘を運べ」
執事の目が鋭く光った。ジードは肩をすくめた。
★「ぽち」っといただけると嬉しいです★
↓ランキング参加中です。よろしければ1clickお願いします↓
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。