しばらくの間、あたしの身柄はここに――このやたらと豪勢なお屋敷に預けられることに落ち着いたらしい。もちろん、日本に帰る手段が見つかるまでは、ってことだけれど。そういうわけで、パドマさんというらしいこの親切そうなおばさんに導かれるまま、あたしは邸内を歩いていた。途中、すれ違う人たちが皆、好奇の眼差しを浴びせてくるのがわかり、そのたび生きた心地がしなかった。
やがて彼女は廊下の突き当たりの一室の前で止まると鍵を取り出した。ドアを開け、中に入るようあたしを促す。あたしはおとなしく従った。
六畳ほどの質素な部屋だった。とは言っても、あたしがいま東京で借りている学生向けアパートだって似たようなものだ。ベッド、少し大きめの箪笥、チェスト、ライティングテーブルとチェアに姿見。多分ここではどうということもないインテリアなんだろうけど、あたしの目にはすごくレトロでお洒落な家具に映る。ただ、窓がないのが痛いといえば痛い。それでもあたしはパドマさんを振り返り、けんめいに笑顔を作った。通じないのを承知でお礼を言った。
「ありがとう、パドマさん。すごく素敵な部屋で、嬉しいです」
彼女はあたしよりも嬉しそうに微笑んでいる。お母さんを思い出し、涙が込み上げかけた。
それからパドマさんはどこかへ引っ込み、しばらくすると一揃いの衣服を持ってきてくれた。着替えろ、という意味みたいだ。どうやって着るのか不安を感じつつも、とりあえず袖を通してみることにし、服を脱いだ。下着姿になったあたしを見て、パドマさんは目を瞠った。あたしの身につけている下着──それはなんの変哲もない、安物の上下ペアのブラとショーツだった──が、よっぽどめずらしかったのかもしれない。彼女はなにかを言いかけ、躊躇し、結局口を噤んでしまった。気にはなったけど、どうせ言葉のわからないいまは訊くことすらできない。それであたしは気づかないフリをした。
与えられた衣服の中にコルセットがなかったので、あたしは内心、ホッとした。面倒だし、身体が歪みそうだし、第一つけ方がわからない。ともかく着替え終わり、鏡の前に立ってみる。
ヴィクトリアンメイド調の、パフスリーブのついた臙脂のロングドレス。レースたっぷりの白いエプロン。黒タイツにエナメルのバレエシューズ。おお。ぴったりだ。……いや、若干、胸元がきついような気がする。もしやと思い、あたしはパドマさんを振り返った。彼女はなんだか困惑しているように見えた。
あたしの背があんまり高くないのと(コンプレックスなので明かしたくもないけれど、百五十五センチしかない)童顔なせいで、きっと中学生くらいに思われてたのかもしれない。
ウェス・ハーシュ家の晩餐は、通常、黄昏を過ぎた夜七刻(夜六時)より始まる。メイド頭であるパドマは忙しく立ち働き、広々とした大広間で給仕に励んでいた。
長大なテーブルには、五名の人間が座っている。家長席には次期当主のジード。そのはす向かいに、彼の四つ下の異母弟、アドリオ。その向かいには家長、オルグ・ヴィネックの母であるアウラ。そして最後に、まだ六歳になったばかりの双生児、ユ・テラとユ・ゼル。最年少の二人を除き、彼らは特に会話を交わすこともなく、黙々と食事を続けている。金のゴブレットに注がれた酒を含みながらジードはパドマに小声で訊ねた。
「ミハルはどうしてる? 食事は?」
パドマは彼の皿にメインの肉料理をサーブしつつ、短く答えた。
「部屋におります。晩餐が終わり次第、私が食事を届けようと思っておりますが」
この邸で預かる以上、未明にはメイドの仕事を覚えさせるつもりでいた。だが、急ぐ必要はない。なにしろ彼女は言葉もままならないのだ。最低限の生活習慣に慣れたところで、教育を始めればいい。そう思っていた。
そこでパドマはつい、付け足していた。ずっと思っていたことだった。
「……あの子、思ったより子どもじゃないみたいですわ。お仕着せを取り替えてやるべきかしら」
「なに?」
ジードは思わず訊き返していた。パドマは慌てたように口を閉じ、その場を去ろうとした。が、ジードは咄嗟に彼女を呼び止めた。
「パドマ。ちょっと」
「はい。なんでしょう、オルグ・ジード様」
ジードはわざとらしい咳払いをしてから、声を潜めた。
「ミハルの食事は私が届ける。様子を見がてら」
パドマは呆気に取られた。状況も立場も忘れて大声を出しそうになったが、慌てて自身をいなし、あくまで小声で反駁した。
「ばかなことを。あの子はメイドとして受け入れた、身元も知れぬ娘ですよ。ご自分のお立場をお考えください。こんな夜に、部屋を訪ねるなんて……」
お館様でもあるまいし、というせりふを危うく口にするところだった。それに気づいているのかいないのか、ジードはあくまで平静に続ける。
「彼女を連れてきたのは私だ。全責任は私にある。食事の用意ができたら私を呼べ。これは命令だ」
パドマはため息をついた。そこに、アウラの高圧的な声が飛んだ。
「さっきからなにをこそこそと話して合っているのです? 密談なら時と場所を選んでおやりなさい。パドマ、お前はもうお下がり」
パドマは肩を震わせた。長年仕えてきた相手ではあるが、この年老いた高慢な女主人とは、いまだに心を通わすことができずにいる。彼女はそそくさと給仕用台車を押し、部屋の隅へ控えた。双子の弟妹が甲高い声で不思議そうに言い合っている。
「今日、上の兄様、いつもよりご機嫌じゃない?」
「テラもそう思う? ゼルも。兄様、いつももっとクールだもんね」
「でしょ? なにかあったのかなぁ。知りたいね」
「うん、知りたいね」
場の空気など察することもなく、無邪気にさんざめく二人。不意に、がたん、と大きな音がした。すかさずアウラが眉を顰めて叱責する。
「アドリオ! まだ食事は終わっていませんよ。無作法はお止しなさい。テーブルにつきなさい、アドリオ」
ジードの異母弟にあたる十八歳の少年は、祖母をちらりと見やっただけで、その言葉にはまるで従おうともせずに部屋を出て行った。アウラの大仰なため息が大広間に響き渡る。
晩餐は、この四半刻(三十分)後に終了した。
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