アドリオは伝令室に走り、受話器をつかむや直通になっている大学府の執務局へと電話をかけた。だが、応答はない。なにしろ明け方に近い深夜のことである。彼は舌打ちをし、受話器を壁のホルダーに叩きつけると、自室へ駆け戻った。
数分で着替えを済ませ、革のバッグを引っかけて部屋を出、そのまま厨房に向かった。貯蔵室からパンやチーズ、干し肉を手当たり次第につかみ出すとバッグに詰める。
馬車でなく、単騎なら半分の時間で行ける。だが食糧はあるに越したことはない――彼はそう考えたのである。
「レンドルス、俺はこれからキニッサに向かう。お前は夜が明け次第、大学府に連絡を入れて、贋の電話をかけてきたのが誰なのかを探ってくれ。必要なら警吏庁にも連絡を取れ。いいな」
泡を喰って立ち尽くす執事に、彼はそう言い棄てた。邸を出、厩舎に立ち寄り、彼の愛馬である銀波号に飛び乗ると、まだ明け切らぬ暗闇の中を南に向かって出発した。
大将戦の翌日、二刻半(午前九時)から始まる哲学の講義に出ようとしていたジードは、学内での総務を取り仕切る事務局の職員に呼び止められ、伝信室に行くよう促された。
「ご実家の執事の方から、急なご用事とのことです」
「急な用事?」
慇懃な物言いに眉を寄せるジード。職員は肯いた。
「ええ。おっしゃっていることが、どうも私どもにはわかりかねる内容でしたので……」
要領を得ない回答だ。わけがわからないながらも、彼は第一教義棟一階の伝信室に向かった。
「ジードだ。レンドルスか? どうしたっていうんだ、いったい」
『ああ、これはオルグ・ジード様。ご勉励中、まことに申し訳ございません』
執事の声はいつもの冷静さを欠いているように聞こえた。ジードは重ねて訊いた。
「かまわないが、なにかあったのか。ああ、そう言えばミハルは? 無事に着いたんだろうな」
『──』
返事がない。電話の向こうから、異様な空気が伝わってきた。ジードの顔が強張った。
「レンドルス、ミハルは……ミハルはちゃんと邸に着いたんだろう? 夜中は過ぎたかもしれないが、それでも──」
彼は送話器に噛みつかんばかりのいきおいで怒鳴った。ややあって、消え入りそうな執事の声が聞こえてきた。
『あ、あ、あのですね。それが、つまり、昨日の話なんです。ロモッカが言うには、ウェス・ハーシュ家の執事を騙る男から、大学府宛てに至急邸に戻るようにとの電話が来たと。それで、電話を受けた大学府の職員という男に、ミハルは学府長との謁見が長引いているため、終わり次第自分たちが送るから先に帰れと……そう言われたというんです』
ジードは愕然とし、その場に立ち尽くした。彼はかすれ声でつぶやいた。
「そ──その大学府の職員というのは……」
『ええ、それについてさっき訊いてみたんですが、そんな電話を受けた者にも、ロモッカに電話をかけたという者にも心当たりはないそうなんです。……ですから、オルグ・ジード様。ミハルは、おそらく、その誰ともわからぬ者によって、攫われた……ということになるのでは』
ぐらりと身体が揺れた気がした。額から厭な汗が噴き出す。ジードは懸命に自分を保った。
『オルグ・ジード様?』
「……ああ、聞いてる。大丈夫だ」
彼は額を押さえながらなんとかそう答えた。
『時にオルグ・ジード様、昨日はソフォモンドの学内対抗戦が行われたとか』
脈絡のない執事の言葉に、ジードはわずかながらも苛つきを覚えた。
「ああ。それがどうかしたのか」
『ロモッカから聞きましたが、ミハルは特別に観覧を許されて見学していたそうですね。決勝戦まで観ていたとすれば、拉致されたのは少なくとも昼過ぎ、ということになりますまいか』
「……なんだと?」
ジードの緑がかった青い瞳が見開かれた。そんなことはまったく初耳だ。
「ミハルが……彼女が、試合を見学していた? 賓客としてか? それじゃあ、彼女は……」
レノラと同席していたことになる。思いもかけない話だった。彼ははっとした。
大将戦の直後、駆け寄ってきた従妹は、興奮冷めやらぬまま自分に抱きつくなり唇を寄せてきた。
もしも未明がその時まで貴賓席にいたとすれば、自分とレノラが接吻を交わしている場面を見たことになるのではないか。
ジードは思わず口元を押さえた。黙り込んでしまった次期当主に、執事は訝しげな口調になった。
『どうされました、若君。ミハルの行方について、なにか、思い当たるようなことでも……』
「──いや、すまん、そうじゃない。レンドルス、とにかく私は学内で手がかりを片っ端から集めていく。お前はすぐに動けるよう、待機していてくれ」
『承知いたしました、オルグ・ジード様』
レンドルスはそこで電話を切ろうとしたが、思い出したように慌てて付け加えた。
『ああ、そうでした、若君! 今朝明け方近く、弟君様が馬でそちらに向かわれました。おそらくは昼過ぎ頃に到着できるのではないかと』
「アドリオが? あいつが、どうして……」
ジードは怪訝な面持ちになった。口数の少ない異母弟は、メイドの誰とも親しくすることもなく、邸内では常に独りで過ごす、一匹狼のような少年だ。これまで一度も大学府に来たことすらない。
そんな彼の胸中を読んだのか、レンドルスは遠慮がちにこう続けた。
『失礼ながら、弟君様は、ミハルには心を許しておいでのようでした。ここ一ヶ月の間は、特にも。ですからおそらく、ご心配のあまりだと思われます。昨夜も、深夜だというのにミハルが戻るのをずっとお待ちになっていらしたようですし』
ジードの心臓が妖しくざわめき出した。
──あの一匹狼のアドリオが? 彼女に心を許していただと?
じゃあ、私が大学府に戻っている間、あいつは毎日のようにミハルと一緒にいたのか?
私がそうしたように、あいつも……ミハルの部屋に入って、彼女と二人きりで……。
『若君。若君』
執事の呼びかけが聞こえた。ジードは頭を振った。いまはそれどころではない。ともかく、未明を捜し出さなければ、と。
「なんでもない。さっき言ったとおりだ、レンドルス。なにかわかったことがあれば逐一連絡してくれ」
彼はそれだけ言うと電話を切り、足早に伝信室を出た。
ジードは体調不良を理由に一限をサボタージュし、その足で講堂にある学府長室へ向かった。
逸る気持ちを抑え、ノックをする。いつもどおりの穏やかなワンジオ翁の声が応えた。
「お入り」
入室し、一礼するなり彼は切り出した。
「単刀直入にお伺いします。昨日、学府長に目通りいただいた、我がウェス・ハーシュ家のメイドの件ですが」
ワンジオ翁はすぐに肯いた。
「あの可愛らしい侍女のことだね。実に興味深かったので、ソフォモンドを見学していくよう勧めたのだよ。しかし、決勝戦のあとでいつの間にかいなくなってしまってね。彼女は──」
「いなくなった? 決勝戦のあとに、ですか」
ジードは我を忘れ、噛みつかんばかりのいきおいで身を乗り出した。
「そう。それまでは確かに、二階の来賓者向けの席に座っていたのを見ているからね。君がほら、あのカシアンに試合直後に切りかかられただろう、それで心配そうに席を立ったところまでは覚えているんだが。私もすぐに武芸場に降りたので、そのあとのことはわからないのだよ」
そこで一旦言葉を切り、さらに続けた。
「カシアンと言えば、彼の処分はとりあえず保留になってね。目下、自宅謹慎させているところだ。手は大丈夫かね」
「ああ、ええ。包帯越しではありますが、日常生活をこなすのにこれといって不都合はありません」
ジードは手の甲を軽く撫でた。彼の返事に、ワンジオ翁はかすかな笑みを見せる。
「そうかね。それはなによりだ。ああ、話が逸れてしまったが、あのフロンジーネがどうかしたのかね」
ジードは唾を飲み込んでから、どうにか本題を切り出した。
「──ロマドのウェス・ハーシュ本邸に戻ってこなかったそうなのです。おそらくは、何者かに……拉致されたのではないかと」
ワンジオ翁の目が光る。
「拉致? この大学府の構内でかね」
「わかりません。ただ、土地勘もない彼女が独りでここを出て行くことはまずあり得ないでしょう。ロモッカを……当家の御者を待っていればヴィネックまで帰れるのですから」
「ふむ」
学府長はその白く長いあごひげを思案顔で撫でた。それから言った。
「彼女をこの大学府に引き止めた私にも責任の一端はある。なにか協力できることがあれば、遠慮なく言いたまえ」
ありがたい申し出だった。なにしろワンジオ翁は、学府長であると同時にロマド市長でもある。いざという時には力を借りることになるかもしれない。
ジードは深々と頭を下げ、退出した。
教義棟に戻る頃には一限が終わっていた。哲学の講義が行われていた教室から出てきたホルツェンとレミットが、級友の姿を見つけて駆け寄ってきた。
「ジード! お前がサボるなんてめずらしいな。手が痛むんで気分が乗らないってやつか」
いつものように軽口を叩くホルツェンだったが、ジードのただならぬ表情に目を留め、眉を顰めた。
「おい、どうしたんだ? なんか良くないことでも?」
「ジード?」
レミットまでが不安そうに彼を見上げている。ジードはそんな二人を見つめ、口を開いた。
「──頼みたいことがあるんだ。申し訳ないが、協力してもらえないか」
いつになく真剣な口調に、友人たちは面喰らったような表情を浮かべている。ジードは手短に事情を話し、学内で未明の姿を見た者がいないか、さらに言えば拉致につながる手がかりを知っている者がいないかを、大学府中の人間に片っ端から訊いて回って欲しいと頼んだ。
思わぬ話にレミットは目を白黒させている。
「そ、そりゃあ協力はするけど、でもなんだってジードがそこまでするのさ? いなくなったのはただのメイドなんだろ」
レノラ姫っていうあんな美人の婚約者がいるのに──と、彼にはその理由が理解できない。
だが反対に、もう一人の親友であるホルツェンは心得た様子で肯いた。
「わかった、任せとけ。レミット、お前わかってないな。仮にもウェス・ハーシュ家のメイドだぞ? あの貴賓席に座ることさえ許されるほどの。使用人とは言っても、そこらの下級貴族より格式は上だ、なぁジード。心配するな、彼女は必ず見つけ出してやるから」
ジードは驚いた。ワンジオ翁に賓客扱いをされ、レノラと同席した事実までは話していない。なぜホルツェンがそれを知っているのか。
「悪い、言いそびれちまってたけど、昨日レノラ嬢を案内した時、彼女がそんなことを言ってたんだ。異国風の可愛い子で、名前も聞かないうちにいなくなったってな。夕食の時にでもお前の耳に入れてやろうと思ってたんだが、お前、夜はやたら不機嫌で寮に戻るなり寝ちまっただろ? それでタイミングを逃しちまってさ」
ホルツェンはそう言って片目を瞑った。そしてジードの肩を軽く叩いた。
「人海戦術だ。ほかの寮の、話のわかるやつにも声をかけて協力してもらおう。とにかくしらみ潰しに訊いていこうぜ」
頼もしいせりふだった。ジードは感謝を込めて微笑した。
ラウロ・エウリック・グリザニカは、第二学生寮の友人であるレミットからの意外な頼まれごとに快く肯いた。
「ああ、いいよ、おやすいご用さ。第一寮の連中にはぼくが訊いておいてやるよ」
レミットの顔が輝く。
「いいのか? 仲の悪い第二寮の、それもジードの頼みだっていうのに」
昨日の「敗戦」はまだ記憶に新しいところだろう。だがラウロの表情はひどく晴れやかだった。彼はにんまりと極上の笑みを浮かべている。
「ぼく、いま、すっごく幸せなんだ。わかるだろ、同室の王様がいなくなってくれたからさ」
なるほど。レミットはつられて噴き出した。カシアンの退学については保留にされたらしいが、いずれなにかしらの処分が下るのは間違いない。少なくともそれまでの間はラウロは心穏やかに過ごせるというわけだ。
レミットと別れ、ラウロは早速訊き込みを開始した。彼とてまったく関わりのない相手というわけではない。行方不明になったメイドというのは、あの対抗戦の前夜、カシアンがかどわかそうとした娘なのだろうから。
「構内に女? 見た覚えないよ。昨日だろ?」
「レノラ姫なら見たぞ。噂のとおり、絶世の美女だったよな」
「行方不明って、オーバーだな。たかがメイドじゃないか」
返ってきたのはこんな声ばかりだ。芳しい結果は中々得られない。ラウロはため息をつき、それでも訊き込みをやめようとはしなかった。生来の正直者でもある。引き受けたことはきちんとやり遂げたい。
「あれ、あいつら、確か……」
彼はふと目を留めた。寮の入り口にたむろしているのは、カシアンと同じチームだった、ハリドランとグラッドの二人だ。グラッドの試合は悲惨だったよなぁ──そう思いながらラウロは躊躇なく彼らに声をかけた。
「なあ、ちょっといいか」
「あ? ああ、ラウロか。なんだよ」
ハリドランは居丈高に答えた。その態度に、ラウロは内心、苦虫を噛み潰す思いだった。
――まったく、だからこの第一寮は「高飛車寮」なんて渾名されるんだ。カシアンだけじゃなく、そういうお高くとまった学生がほんとに多いんだからな。
ラウロは咳払いをし、いたって事務的に続けた。
「あのさ、昨日、昼過ぎくらいに、構内で女性を見なかったか。臙脂の女官服を着た、十六くらいの若いメイドなんだけど」
「メイド? なんでここにメイドなんかが……」
不審そうに眉を寄せるハリドラン。
「ウェス・ハーシュ家のメイドなんだってさ。第一寮のオルグ・ジードの家のさ。大学府に使いで訪れて、そのまま行方不明になったって話なんだ。それで、誰かが彼女を見てないか、訊いて回ってるんだけど」
ハリドランの表情が、見る見る侮蔑的なものに変わっていく。
「ばかばかしい。いくらウェス・ハーシュ家ったって、メイドだろ? なんでそんなに必死になって捜す必要があるんだよ。ジードのやつ、カシアンにやられた傷が悪化して、頭までおかしくなったんじゃないのか」
あまりな言い草に、ラウロはかっとなった。そのジードのチームに負けたのはどこのどいつだ、そう言い返そうとした時だった。
「臙脂の……十六くらいの女だって? それが、ウェス・ハーシュ家のメイドだっていうのか」
ラウロはものすごい力で両肩をつかまれた。目の前に、グラッドの巨体が迫っていた。
「あ、ああ。もしかして見たのか? グラッド」
そう訊き返すも、グラッドはいきなり口を噤んでしまった。ラウロの肩から手を離し、露骨に目を逸らしている。
「おい、グラッド」
相棒のハリドランも怪訝そうに彼を見ている。どうやらグラッドは話す決心がつかないでいるようだ。
この時、ラウロの頭に閃くものがあった。
「もしかして……カシアンが絡んでるのか」
グラッドの肩が大きく震えた。図星だ。間違いない。
「グラッド、どういうことだ? 教えろよ、おい」
ハリドランとも目を合わせようとしない。ラウロは焦れ、言った。
「なあ、グラッド。もしなにか知ってることがあるなら、話してくれ。カシアンは、ウェス・ゴート家は確かに実力者だけど、大学府じゃあ誰だって公平に裁かれる。やつがなにか好からぬことをしたっていうならなおさらだ。それに問題になってるのはウェス・ハーシュ家の人間だぞ、カシアンの家に負けない名門だ。なにか知ってて黙ってたってことになれば、お前の立場だって後々危うくなるかもしれないぞ」
グラッドは怯えたような目をラウロに向けた。彼が匂わせた、保身という概念が効いたようだ。
やがて彼はぽつぽつと喋り始めた。
「……俺……見たんだ。昨日の昼、多分閉会式をやってる頃、来賓用の車停めにウェス・ゴート家の馬車がいて……それで、そこにあの女の子が近づいてったら、御者台から降りてきた男が、なにか布みたいなもので彼女の口を覆って。きっと眠り薬かを仕込んでたんだ、彼女すぐに意識を失っちゃったみたいだったから」
ラウロは目を見開いた。ハリドランも同様だ。
「ほ……ほんとかよ、おい? それじゃあ誘拐じゃないか」
「グラッド、見間違いじゃないのか? ほんとにウェス・ゴート家の馬車だったのかよ」
二人は矢継ぎ早に質問を浴びせたが、グラッドは強固に肯いた。
「間違いないよ。そりゃ遠目だったけど、俺、視力は両方ともいいんだ。あの王冠をあしらった紋章はウェス・ゴート家のだよ。教科書で厭というほど見てるから、間違いようがない。カシアンがいたかどうかはわからないけど」
ハリドランは呆気に取られて口を開いたままだ。逆に、ラウロは、驚きつつも妙に納得していた。
よく考えれば、試合が始まる前からカシアンの挙動はおかしかったのだ。女人禁制の学生寮に若い娘を引っ張り込もうとするなど、通常では考えられない。なにが彼の乱心を引き起こしたのかは不明だが。
「わかった。話してくれて助かったよ。ありがとう、グラッド」
ラウロは頭を下げるとすぐさま第一寮を飛び出し、第二寮のジードの部屋に向かった。
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