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  センロノハテニ 作者:日比谷碌樹
第一部
第三話 ウェス・ハーシュ家
 
 最初の難関は、メイド頭のパドマだ。次期当主が連れ帰った娘を見て、ジードの予想どおり、彼女は大仰なまでのリアクションを示した。
「まあ、まあ、まあ、ジード様! いったいこれはどういうことですの。重要な用件があるとおっしゃってカルマ駅までお出でになったと思ったら、まぁこんな……用件とはなんでしたの。大学府にお通いになっていらっしゃるあなた様が、まさか殿方特有(・・・・)の理由でお出かけになったとは思いませんですけれど、それではいったいこの娘は……」
 ジードは顔をしかめた。「そう一度にまくし立てないでくれ、パドマ。頭に響く」
「言いたくもなりますわ、ええ、オルグ・ジード様。旦那様のお留守中に、万一にもおかしな過ちを起こされたらと思うと……あなた様がお生まれの時からご面倒を看申し上げている私だから言えるんです。ジード様、坊ちゃま、お教えくださいませ。この娘はいったい、なんですの」
 感極まったのか、パドマはデコラティブなエプロンの端を持ち上げて懸命に(まなじり)を拭いている。ジードは忍耐強く説明を始めた。
「パドマ。頼むから聞いてくれ。この娘は、今日カルマ駅に到着した下りの定期便に乗っていたそうなんだが、その……記憶を失っていてね。言葉もわからない。難民というわけでもなさそうなんだ。この状態で放り出すのはいかにも忍びないだろう、だから私が一時的に預かることにしたんだ」
 パドマはあんぐりと口を開けた。そして、彼が庇うようにして肩を抱いている小柄な娘を、頭の天辺からつま先まで、まじまじと見た。
「記憶を失ってる、ですって? 本当に? まあ……可哀相に、まだほんの十五かそこらの子どもじゃありませんか。それにこの恰好! どこの大陸の放浪民(ツィゼット)か知りませんけど、こんな服でよくもまぁ無事にここまで来れたもんですよ」
 彼女はそっと娘に触れた。パドマの剣幕に最初は怯えていたらしい娘は、しかし、母親のような温かさを持つ彼女に警戒心を緩めたのか、されるままになっている。パドマは娘を抱き寄せると頭を撫でた。
「なんて細っこいんざんしょ、きっとろくに食べものも食べられない生活をしてきたんでしょうねぇ……よござんす。そういうことなら、私が責任を持って面倒を看させていただきます。部屋も服も用意しますからね、心配しなくても大丈夫ですよ、あなた」
 娘の頬に赤みが差した。ジードはほっと胸を撫で下ろした。
「そうと決まれば、まず……ええ、ともかく、名前がわからないことにはね。ねぇあなた、名前はなんて言うのかしら? 名前、名前よ。わかる? あなたの名前」
 パドマは必死に思案していたが、やがて自分の顔を指してこう繰り返した。
「私は、パドマ。パドマ・ルジナ・イルト。パドマと呼んでちょうだい」
 それから娘の顔を指差し、「あなたは?」と訊ねた。意味が通じたのか、彼女は口を開いた。
未明(ミハル)
 ジードの心臓がまたも跳ねた。初めてまともに聞く彼女の声。彼女の名前。
 それは、想像していた以上に、細く可愛らしい声だったからだ。



 あたしは山の駅から馬車に乗せられ、麓の街へと連れて来られた。石畳の街路に、同じく石造りの古い家々。ガス灯に、煉瓦でできたお店らしき建物。あたしはふたたび考え始めた――ここはいったいどこなんだろう。ヨーロッパのどこかの町? まさか、そんなばかな。
 だってあたしはあくまで国内を走る電車に乗っていたんだもの。なぜそれが、いきなり海を越えて外国に? あり得ない。きっとここは……そう、テーマパークなんだ。言葉が通じないのは、キャストの人たちがなりきっているから。
 無理がありすぎる説明なのは自分でもわかっていた。でもそう考えるしかなかった。
 あたしはこの時、正気を保つのに必死だった。
 ちらりと隣を見やると、さっき駅まであたしを迎えに来た若い男の人が、じっとこっちを見つめている。目を逸らし、あたしはふたたびうつむいた。悪い人じゃなさそうだけど、信用できるのかどうかなんていまの段階じゃまだわからない。それにこれからいったいどこへ連れて行かれるんだろう。
 じわじわと涙が込み上げてきた。泣いたってどうしようもない、小さな子どもじゃあるまいし。そう自分で自分を叱咤してもダメだった。もう、止まらなかった。家で待ってくれているはずのお母さん。榛名。ネコの茶々。

 帰りたい。こんなところ、いたくない。

「……っく……ひ、……っく……っ」
 嗚咽していた。こんな風に泣くのは、お父さんが死んだ時以来だ。そうだ、お父さんのお墓参りにだって行くつもりだったのに。帰りたい。誰か、誰でもいい、助けて。元の電車に戻してよ、お願い。
 不意に、隣に座る男の人が、あたしの肩を抱き寄せた。驚きのあまり息が止まった。青灰色のマントに身体が密着する。彼はなにか、小さく囁いた。意味はわからなかったけれど、ひどくやさしい声だった。
 人肌の温もりとその穏やかな声に、あたしの緊張は一気にほぐれた。あたしは、彼の肩に頭を預け、馬車の中で号泣した。



 パドマに未明を託したあと、ジードは自室へと向かった。ヴィネック街区の一等地に建つウェス・ハーシュ家の邸宅の中でももっとも日当たりの良い、広い部屋のひとつを彼は現当主である父親から与えられている。
 重厚な装飾の施された両開きのドアを開け、中へ入る。すぐに、大きなクッションに寝そべっていた彼の愛犬が尻尾を振ってご機嫌伺いにやってきた。白い長毛の純血種だ。
「ああ、ラギ、ただいま。いい子にしていたか」
 ジードは相好を崩して犬を撫でた。そのやわらかな毛並みの感触に、ふと、馬車の中で未明を抱き寄せ、彼女の髪を撫でた時のことを思い出した。

 ──細く、艶やかで、やわらかい。ラギよりももっと緻密で、もっと……いい香りがする。

 頬が仄かに熱くなっていた。未明は子どものように泣きじゃくっていたから、気づかれはしなかっただろう。
 彼はケープを取り、マントを脱ぐと衝立に掛けた。天蓋のついた恐ろしく広大な寝台に腰を下ろす。
 あの娘は、いったい、何者だろう。なぜ、「天上の切符(イグノード)」を持っているのだろう。
 オサイオン市直轄の要塞島。「天上の切符」と呼ばれるあの恒久手形は、そこを本拠地とする中央政府のみが発行権限を持ち、さらには国家の最上位機関、審議院で認定を受けた人間しか手にすることはできない。また、その存在は大っぴらに語られるようなものではなく、民の多くは切符に関する知識を持たない。ここロマド市においても、切符について知らされているのは、ウェス・ハーシュ家の一族、市長を含む市議会の数人のメンバー、それに駅舎長のノーゼスと彼の助手。せいぜいそれくらいだ。
 名もなき難民が持っているはずなどないものだ。あの娘はただの娘ではない。パドマが言うような、他大陸からの放浪民とも思えない。……では、いったい?
 ノックの音に、思考が遮られた。続いてメイドの声がした。
「ジード様。晩餐のお時間でございます。お早く参られますよう」
 ジードは立ち上がった。カルマ駅への往復で、時間がおしていた。この邸のメイドたちには、几帳面なパドマの教育が染み込んでいる。彼は思わず苦笑した。

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