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  センロノハテニ 作者:日比谷碌樹
第一部
第二十六話 学内対抗戦 2
  
 一刻半(朝七時)過ぎに目を覚ましたあたしは、自分の状況をあらためて確認し、茹でたように真っ赤になった。
 すぐ真隣にはジード様の身体があった。一晩中、腕枕をしてくれていたんだ。
 そう思うといても立ってもいられない気持ちがした。
 カーテンを通し、冬の朝日が室内をやわらかく照らしている。あたしは、まだ眠っている彼の顔をじっと見つめた。
 うん、寝てても崩れない顔って、こういう顔なんだなぁ。妙な感心までしていた。

 ──私が戻るまで、どこにも行かないでくれ。愛してる。──

 そう言われたことを不意に思い出し、いっそう顔が赤くなる。
 お腹の、鳩尾(みぞおち)の辺りがきゅうんと疼いた。痛いくらいに。
 それで、こう自問しないわけにはいかなかった。

 ……あたしって、この人のこと、好きになっちゃったの? いつの間に?

 でも──でも、あたしは、いつまでこの世界にいられるのかわからない。戻る方法を探さなきゃならないし、もしもそれが見つかればきっと……おそらく、元の世界を選ぶだろう。
 それなのに、彼を受け入れるようなことを言うのって、卑怯なんじゃないだろうか。
「ミハル」
 急に名前を呼ばれ、あたしはびくりと震えた。驚いた、起きてたんだ。
 ジード様は上体を起こすと素早く腕を伸ばし、あたしを抱きしめ、それから唇を寄せた。
 もうなんど目になるかもわからない、ジード様とのキスなのに。
 
 くらっとした。
 一瞬で、お腹の底が熱くなる。頭がぼうっとしびれていく。

 キスはものすごく長い間続いた。神様との「契約」のために、その先の行為はいまはできない。ジード様はそう言っていた。だからなのか、まるでキスだけで補完しようとでもするみたいに彼は激しかった。
「ミハル……」
 唇を離すと、ジード様はあたしの頭をやさしく撫でながら囁いた。
「私が戻るまで、ほかのどんな男のことも考えないで……いつも私のことだけを考えていてくれ。私もむろん、お前のことだけをいつも想っている。約束、してくれないか」
 あたしは肯いていた。肯いたことすらすぐには気づかなかった。
 さっき、あんなことを考えてたはずなのに。
 なのに、昨夜は言えなかった承諾の言葉まで、続いて口にしていた。



 大学府の学府長さんは、童話に出てくる小人──ドワーフとかゴブリンみたいな感じの人で、いかめしいおじいさんを想像していたあたしはやや面喰らってしまった。
「よく来てくれましたね、フロンジーネ(お嬢さん)。さ、そこにおかけなさい」
 甲高いのにどことなく知性を感じさせる声だ。あたしは一礼してから椅子に腰掛けた。
 預かってきた書簡を筒ごと手渡す。彼はウェス・ハーシュ家の紋章を一瞥してから中身を(あらた)めた。
「確かに。遠いところを、さぞ大変だったでしょう。時にフロンジーネ、ソフォモンドに興味は?」
 唐突に訊かれ、あたしはきょとんとした。
「ソフォ……モンド? それは、なに、ですか」
「ああ、失礼。我が大学府での教目(きょうもく)のひとつで、古い武道ですよ。学生は皆、これを習得することになっていてね。ちょうど今日は学内でチーム対抗戦が行われる予定なんです。もしよければ、見学していきませんか」
「え……でも」
 あたしは躊躇(ためら)った。別邸にいるロモッカさんが、そろそろ迎えに来てくれる頃のはずだ。
 その思いが顔に出たのか、学府長さんはにっこり笑って言った。
「従者の方になら、ここから電話を入れればよろしい。ぜひそうしておいきなさい。ただ、お聞き及びかもしれませんが構内は一応、女性の立ち入りを禁じておりますのでね。都合上、これを着ていただくことになりますが」
「はあ」
 学府長さんはそう言って、真っ黒なローブみたいなものを傍らのチェストの抽斗(ひきだし)から取り出すと、テーブルの上に置いた。なんか、妙に用意がいいなぁ。
「これは女性の賓客をお迎えする場合に来ていただく道衣(ドゥーグ)でね。イグノディアス神の逆鱗に触れぬよう、ヒジリギクの灰で清めてあるのです。そう、いま着ているその女官服の上から羽織って、首のところをひもで留めて。そうそう、それにフードをかぶって……それでよろしい」
 満足そうに肯く学府長さん。なんだか、わけがわからないことになってきた。スポーツ観戦はきらいじゃないけど、そんなことのんびりやってていいんだろうか。あたし、この世界じゃただの使用人に過ぎないのに。
 ノックが鳴り、灰色のロングワンピースみたいな服を着た男の人が、給仕車を押しながら入ってきた。どうやらここの職員らしい。
「失礼いたします。お客人の方に、お食事をお持ちいたしました」
「ああ、ご苦労様。……フロンジーネ、朝食はまだなのでしょう? 武芸場へ移る前に食べていかれるといい。団体戦が開始されるまではまだ半刻(約一時間)以上ありますから」
 学府長さんの言葉にあたしは戸惑った。
「でも、あの……」
「エヴァノス、ウェス・ハーシュ家の別邸に連絡を入れて差し上げなさい。迎えは四刻過ぎ(正午)でいいとね」
 職員の男の人は心得た様子で肯くと退去した。
 学府長さんは振り向き、悪戯っぽくウインクをしてきた。
「さ、どうぞ、遠慮なさらず。我が大学府の食堂のメニューは中々の味なのですよ、フロンジーネ。特にその、斑野鹿(まだらのじか)のソテーは絶品でね。冬季以外は禁猟で口にする機会も少ない。肉は苦手では?」
「いえ、でも、あの」
「なら、ぜひ。ああ、私はこれから開会式に出なければなりませんので、しばし席を外しますが、どうぞごゆっくり。なにか用事があれば、そこのベルを鳴らすといい。誰かしら来てくれますから」
「……」
 学府長さんはあたしを残して部屋を出て行ってしまった。あたしは途方に暮れた。
 仕方なく、用意してくれた食事に手を伸ばす。ソテーは確かに美味しかった。赤味の肉で、赤獅子(クロッサ)みたいな臭みもない。巧く調理したエゾジカみたいな食感だ。
 ていうか、こんなところでまったりとご飯食べてていいんだろうか。あたし。



 鋭い音とともに剣が宙を舞った。動きを封じられ、レミットは呆然と立ちすくんだ。
「勝負あり! 勝者、ルグド・ホス・レヴァンノ」
 無情な審判の声が響き渡る。対戦相手と握手を交わしたのち、レミットは肩を落として待機席へと戻った。
「あああ、やっぱり負けた。それも開始直後に……これだから厭なんだ、ソフォモンドなんて」
 仲間の体たらくにホルツェンは渋い顔だ。
「お前、いくらなんでも弱すぎだろ。ほかのクラスのやつらになんて呼ばれてるか知ってんのか? 逆ポイントゲッターだぞ、お前と当たれば必ず勝てるからって。少しは奮起しろよ、悔しくないのか」
 レミットは涙目で級友を睨みつける。
「どうせそのとおりだよ。ホルツェンなんかにぼくの気持ちがわかるもんか」
「そう気を落とすな、レミット。個人戦の成績はそれほど重視されない。ポイントはこのあとの団体戦で取り戻せばいい」
 ジードの言葉は慰めにはなっていない。ホルツェンは深々とため息を吐き出した。
「闘気満々の相手に勝てるくらいなら、演舞の延長線みたいな個人戦で負けるわけがねえだろ、そもそも。──とにかく、俺とお前で稼ぐしかねぇな。期を通して、団体戦は一戦だって棄てられないんだからな」
「普段、成績とか全然気にしてないくせに、なんでソフォモンドの時だけは燃えるんだよ、ホルツェン」
「勝負ごとで燃えるのは男の(さが)だろうが。俺がこだわるのは査定なんかじゃねえ、ただ純粋に勝敗だ」
 ホルツェンは憤然と答えた。やっぱり筋肉ばかだ、とレミットはこっそりつぶやいた。
 相手の出鼻をくじくという意味で、先鋒は腕に覚えのある俺。中堅はこの際目を瞑って、レミット。そして大将はもちろん、オルグ・ジード。ホルツェンは得々と繰り返した。
「そういや、あいつ、昨夜はあれからどうしたんだろうな。精神統一とやら、できたのかね」
 意味深な笑みを浮かべるホルツェン。ジードの顔つきが変わった。
「俺たちはどっちもシードされてる。順当に行けば、当たるのは決勝戦だ。それまでは、お前のためにも絶対に負けるわけにはいかねえな」
「──ああ」
 ジードの拳に力が入った。彼だけは、カシアンだけは、どうしても許すわけにはいかないのだ。



 斑野鹿のソテーもエッカも、デザートのチーズまで食べ終えてしまっても、学府長さんは戻ってこなかった。ゴブレットに注いだ水も飲み干し、これからどうしようかと思っていると、ふたたびノックが鳴った。
「は、はい」
 あたしは思わず返事をしていた。来たのはきっと学府長さんだろう。ところが、ドアが開いて姿を見せたのは、思いも寄らない人──女性だった。それも、とびきりきれいな。
 あたしと同じか、ほんの少し年上くらい。ふんわりとウェーブのかかった長い金髪、バサバサの睫毛に覆われた大きな薄紫の瞳。濡れたみたいに輝くピンク色の唇。そしてなぜか、あたしがさっき学府長さんに貸してもらったのと同じ黒いローブを着ている、西洋絵画から抜け出したような美人だ。
 彼女はあたし以上に驚いているらしく、形の良い口をぽかんと開けてこちらを見つめている。
「……あ、あなた……どなた? その道衣は……ワンジオ翁は、いらっしゃらないのかしら」
 透き通るようなきれいな声。鈴を振るような声って、きっとこういうのを言うんだろう。
「学府長様、えーと、いま、開会式に……」
 口ごもりながらの危うい答えだったけれど、彼女はそれで得心したらしい。
「ああ、そうね、今日はソフォモンドの対抗戦がある日でしたわね。それじゃあ武芸場にいらっしゃるのね、きっと」
 あたしは曖昧に肯いた。彼女はそのまま部屋を出て行こうとして、ふと足を止めた。
「その道衣を着ていらっしゃるってことは、あなたも来賓の方なのね。よろしかったらご一緒しません?」
 世にも麗しい微笑み。同性ながら、あたしは思わず赤面してしまった。
「さ、早く行きましょう、団体戦が始まってしまいますわ」
 そう急かされ、あたしは慌てて彼女に続いた。学府長さんを待っていた方がいいような気もしたけれど、なんとなく、逆らえないような雰囲気だったのだ。
 庶民の弱みってやつだろうか、と、頭の片隅であたしはつぶやいた。


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