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  センロノハテニ 作者:日比谷碌樹
第一部
◆閑話‐告解室の秘密・後篇‐

 一晩、告解室で懺悔すると、夜明け前に女の幽霊が現れる。
「だから、なんにもないってことを証明するのなんて逆に簡単だ。告解室に独りで籠りゃあいいんだ。寝ずに懺悔し続けて朝を迎えちまえば、噂が嘘っぱちだったってわかるだろ」
 ホルツェンは、なぜか浮かない顔つきでジードに策を預けた。
「でもな、無理だと思ったらとっとと眠っちまえ。どうせ噂なんだ、真相なんて知らない方が……あ、いや、くだらないオチに決まってるからな」
「それはそうだろうが、なら余計に眠るわけにはいかないだろう。心配はありがたいが、そう案じなくても大丈夫だ。――じゃあ、行ってくる」
 寮の部屋を出るジードの後ろ姿を、ホルツェンはどこか渋い表情で見つめている。昼間と同じく、彼はぼそりと独りごちた。
「仕方ねぇな。あんまり気が進まねぇけど、ほかならぬジードのためだ」
 ぼりぼりと頭を掻いてから、あくまでジードには気づかれないよう、ホルツェンはそのあとを追った。



 礼拝堂の重々しい観音扉を両手で開き、入り口から続く薄暗い石段を下っていく。地上よりも空気が冷え冷えとしていて、訪れる者を厭でも厳粛な心持にさせる。が、ジードの歩みに迷いはない。真っ直ぐに前を見据え、速くも遅くもない歩調で黙々と歩き、やがて現れた焦げ茶色の小部屋の前で彼は止まった。外壁の中央には世界樹のエンボス。その両脇の一部には色つきガラスが填め込まれ、また一部には格子彫りが施されてはいるものの、決して豪奢な造りではない。そう――大きさとしては、人が二人も入ればいっぱいになってしまいそうな、ごく小さな空間である。
 ――ここが告解室。イグノディアスへの忠心を、そして自身が抱える罪を告白するための場所だ。
  ノブに手をかけ、室内に入る。ふわり、と独特な香の残り香が鼻をついた。ジードは思わず眉根を寄せた。

 ――この香りはいったい……以前、なんどかここを訪れた時には気づかなかったが……?

 訝しく思いつつも、彼は椅子に腰を下ろした。前には簡素なテーブルが置かれている。もっともこれは、告解をする者が背を丸め肘をつくための補助具のようなものだ。ジードは定められたそのポーズを取った。そうするうち、意識せずとも、人はなにかしら内省的な気分になってくるものである。ジードも例外ではなかった。

 ――同じ寝台で眠るのを拒むのは、私のことを受け入れられないからなのか。

 整った眉が苦しげに歪んだ。秋季休暇を終えて大学府に戻る前、屋敷で起きたあの出来事をふと思い起こしたせいだ。

 未明。あの日、どこからともなく現れた、不思議な娘。出自も知れないあの少女に、彼は、生涯初めてといっていいほどの強い思慕を覚えた。
 心からの愛を告げ、受け入れてくれるよう迫った。だが――彼女は、どこか申し訳なさそうに、ジードを退けた。
 あまりの衝撃に言葉を失くし、立ち直ることもできないまま、屋敷をあとにしたのだった。
 それなのに、だというのに、いまだに忘れられない。恋しい。会いたい。胸の内で荒れ狂う恋慕の(ほむら)。折に触れ蘇る、愛らしい微笑。小鳥の(さえず)りにも似た、歌うような声。ジードは固めた拳を額につけた。……もし、こうして祈ることで、イグノディアスが自分の望みを叶えてくれるとしたら。そんな奇蹟が起こるのなら、一晩寝ずに祈り続けることなどあまりに容易い代償だ。

 未明に……彼女に触れたい。心が手に入らないのなら、せめて、身体だけでも――そんな不埒なことまで思い巡らせている自分を、こうなっては認めざるを得なかった。
 時間は刻々と過ぎてゆく。ジードは一心不乱に祈った。未明が欲しい。彼女が自分に振り向いてくれるのなら、なんだってする。夜は深まり、いつしか日付も変わっていた。だが彼は睡魔すら感じず、ただひたすらに両目を瞑り、未明への愛を胸の中で囁き続けた。
 香の匂いが、一段と濃くなったようだった。まるで異国を思わせるような、濃密で官能的な――やがて夜明けも近づく頃、かすかに衣擦れの音がした。ジードはふと顔を上げた。

 白い人影が、目の前に揺らめいていた。

 彼は弾かれたように立ち上がった。まさか、本当に出るとは……。唾を呑み込み、瞬きを数度繰り返す。だが人影は消える気配がない。とすると、これが、噂の幽霊の正体か。しかし――確かに人の形はしているものの、その顔まではわからない。そうだ、男か女かもこれでは不明だ。ジードは意を決し、キッと前方を睨みつけた。
 今度こそ、彼は驚愕せずにはいられなかった。

「ミ……ミハル……?」
 渇き切った声が咽喉元から漏れた。目を凝らしたその先に揺らいでいるのは、白い靄に包まれた小柄な少女の姿――焦げ茶混じりの長い黒髪、小さな顔、少しだけ含羞んだような表情、そして、夜空を映し込んだあの輝く瞳。薄紅色の瑞々しい唇が、かすかに震えた。

 ……ジード……オルグ・ジードなの? どうして……あなたがこんなところに……。

「幽霊」はひどく困惑した様子だった。生霊の類にしては妙に現実味のある口調でもあった。
 だがジードの思考はそこで停止した。
「ミハル……っ!」
 彼はテーブルを蹴倒し、未明(らしき像)へと飛びかかった。奇蹟が起きたに違いない。自分の抱く恋心を哀れと思し召したイグノディアスが、情け深くも想い人を、未明をここに呼び出してくれたのだ。そう、これは幻でもなんでもない。なぜなら――「幽霊」にはまごうことなき肉体があった。両腕の中にしっかりと抱きしめることができたのだから。
「ミハル、ミハル! 愛してる、私の……私の小鳥! もう離さない、離すものか!」
 狂ったようにその細腰を掻き抱き、顔中にキスの雨を降らす。この時、意識の奥底に、若干の違和感が生まれた。急に身長が伸びたのだろうか? それに……なんというか、感触が違う。細いながらもほどよく丸みを帯びた未明の身体にしては、どこか肉づきが悪いというのか――ジードの耳に、焦ったような悲鳴が飛び込んだ。
「ちょ、ちょっと、オルグ・ジード! 離せ、離しなさいっ!」
 それは明らかに未明の声色ではなかった。しかし女の声には違いない。それもはっきりと聞き覚えのある――。突き飛ばされるまま、ジードは数歩後退し、よろけた。体勢を立て直そうとした彼の目が、これ以上ないほど大きく見開かれた。

「あ……あなたは……」

 相手が軽く舌打ちをするのが聞こえた。見きわめたその正体を、名前を叫ぼうとしたまさにその瞬間、それまでとは比べものにもならないほど強烈な香が――というより煙が小部屋を襲った。咄嗟に口元を押さえたものの、すでに遅かった。ジードは呆気なく眠りに落ちた。と同時に、山吹色のローブをまとった人物が、あたふたと扉を押し開け、外に飛び出してきた。見事なハニーブロンドが揺れ、彫像のように整った美しい横顔をふわりとかすめる。やがて辺りは完全な静寂に包まれた。
「幽霊」の足音も遠ざかる頃、物陰に身を潜めていた大柄な青年が、ゆっくりと頭をもたげてため息をついた。
「……やれやれ。だから止めとけって言ったんだ」
 それはジードの親友、ホルツェンだった。彼の手の中には、鈍色の輝きを放つ小さな香炉が握られている。どうせこんな顛末だろうと予想して部屋から持ち出した「秘密兵器」――秋季休暇でロマドの歓楽街を訪れた際、妙に派手ななりをした女占い師から面白半分に購入した催眠香である。まさかこんな使い方をすることになるとは思いもしなかったが。
ライフェット女史(・・・・・・・・)が使ったのは、催眠香じゃあなく、催淫香ってやつなんだろうけどな。まったく……ワンジオ翁もほんと、人が悪いぜ」
 あの茶目っ気旺盛な学府長のことだ。「鉄の軍曹」が学生相手に夜な夜ななにをしているか、感づいていないわけはあるまい。知っていて、わざと見過ごしているに違いない。まさか、そういった「仕事」を任せるために、彼女を教職に就けたとまでは思わないが……。
「にしても……なんだってフードで隠したりするんだろうな。あれだけの美貌の持ち主が」
 首をひねりつつ、床に崩れ落ちたままの親友の腕を持ち上げ、肩にひょいと担ぐ。彼は思わず苦笑した。
「あの『鉄の軍曹』もドン引きするとはな。お前の恋心ってやつはまったく凄ぇよ。ジード」



 教授棟の一隅に設えられた神学資料室。デスクに構え、学生たちのレポートを添削していたジャーミナは、唐突なノックの音にふと顔を上げた。
「入りたまえ」
 現れたのは、最終学年に属する大柄な青年、ホルツェン・オルレアド・シモン・ライゾックだった。勉学への専心ぶりはいまひとつではあるものの、頭脳は明晰で機転も働く。ジャーミナをして好印象を抱かせる、数少ない学生の一人である。
「失礼します」
 入室と同時に彼は頭を下げた。ジャーミナはペンを走らせながら、事務的に訊ねた。
「なにか質問でも? ああ、君は追試の心配はないぞ。ギリギリだったが、いつもどおり見事なものだ」
 その口調には若干の皮肉が混ざっていた。要領よく手を抜いているのはわかっている。「鉄の軍曹」の牽制を、ホルツェンは苦笑いとともに受け流した。
「恐縮です、教授。実はお教え願いたいことがあるんですが、よろしいでしょうか」
「言ってみたまえ」
「なぜいつも顔を隠しておられるんです? 素顔を見られると『課外活動』に差し障るとか?」
「――」
 ジャーミナの手が止まった。ホルツェンはなに喰わぬ顔で続ける。
「ついでに言うなら、男子学生というのは皆、美人に――それも年上の美女に弱いものです。フードを取られてはどうです? その方が講義も進めやすいのでは」
 ジャーミナはゆっくりと立ち上がった。衣擦れの音をさせながらホルツェンに近づき、そのあごをぐいとつかむ。息詰るような沈黙のあと、不意に、彼女は笑みを漏らした。
「……なるほどね。あなただったの、昨日の助っ人は」
 がらりと声色が変わった。ジャーミナはさばさばとフードを脱いだ。日の光の下に晒されたその素顔は、昨夜より数段も華やかな美しさをまとっている。髪とよく似た色合いの琥珀の瞳が、親しげにホルツェンを見つめた。
「この香り……強い催眠効果をもたらすバドゥーアの粉末ね。あなた、もしかして、ロマドの……ロナジアの店に?」
「さぁ。店主の名前までは知りませんが……それより教授。なぜあんなことを? まさかとは思いますが、大学府側の……ワンジオ翁の指図だということは……」
 ジャーミナはぷっと噴き出した。そのさまをまじまじと眺め、ホルツェンは胸中でこうつぶやいた。――思ったより若い。三十にもいってないんじゃないか? 間違いなく大学府最年少の教授なんだろうな。
「身の上相談のつもりだったのよ、最初は」
 彼女はどこか決まり悪そうに「告白」を始めた。教授の職に就いたばかりの頃、告解室に姿を見せるのは、肉欲の悩みを抱えた学生がほとんどで――躊躇はあったものの、彼女は大いなる義務感から、生徒たちに尽くそうと決めた。ロマドで雑貨屋を営む古い付き合いの女友達から、一晩で記憶と効果の消える催淫剤を譲ってもらった。だがどこからか噂は広まり、歪んだ形で喧伝されていったのである。ホルツェンはそこで口を挟んだ。
「しかし……なら、なんで普段、そのキャラを隠してるんです? 学生(おれ)たちがあなたを陰でなんて呼んでるかご存知ですか? 鉄の――」
「鉄の軍曹、でしょ? もちろん知ってるわよ。名誉だとも思ってるわ。うちは代々巫女の家系だけど、父は男子が欲しかったらしくて、私が男だったらって子どもの頃散々言われたもの。女は姉が三人もいるしね。だから勉強して認められて、こうして大学府に教師として招かれたことを誰よりも喜んでくれたし」
「……」
「それに、素顔を見せたらあなたたち、講義には集中できないでしょう? これだけの美人が目の前にいたら、ね」
 ジャーミナに悪戯っぽく笑いかけられ、ホルツェンもつい、つられて微笑する。
「なるほど。確かにそうかもしれませんね。俺らくらいの年代の男なんて、バカばっかりですから。たとえ大学府(ここ)に通っていようとね」
 そう言うと、ホルツェンは一礼し、辞去しようとして思い止まった。
「ああ、教授。もうひとつ教えていただきたいんですが……」
 ジャーミナはきょとんとして睫を瞬かせた。
「尽くす、っていうのは、つまり――手で? 口で? ……それとも……」
 言い終える前に、軽やかな笑い声が湧き起こり、部屋中を満たした。目に涙を浮かべながら、ジャーミナはホルツェンの耳元に唇を寄せ、そっと囁いた。
「今度、告解室にいらっしゃい。その時に教えてあげる」
「……サービスしていただけるのなら」
 二人は顔を見合わせ、どちらからともなくウインクを交わした。ホルツェンが部屋を出て行ったあと、ジャーミナはデスクに戻ったものの、その視線はどこか落ち着かなく空を彷徨っている。思わぬ隙を突かれたせいで、昨夜のあの体験をまざまざと思い出してしまったのだ。

 オルグ・ジード――第四学年の首席生徒にして、ウェス・ハーシュ家次期当主。その彼が、まさか告解室を……自分のもとを訪れるとは。ほかの学生たちと同じように、慰めを欲しての行為とは彼に限っては思えないが……。

 ロナジアが調香してくれた催淫剤は、吸い込んだ者に、ある種の幻覚を見せる働きをする。すなわち、胸の底に秘めた想い人の姿を幻視させるのである。そういう相手がいないのなら、自分の素顔が映るだけだ。むろんそんな場合に備えて、記憶を消す作用のある香を追加しているのだが。ジャーミナはぽつりとつぶやいた。
「ミハル、か……あのオルグ・ジードがあそこまで乱れるなんて。いったいどんな子なのかしら」
 もしもホルツェンが機転を利かせて外から香を吹きつけてくれなかったら、どうなっていただろう。埒もない想像に、彼女は苦笑した。そしてなにごともなかったかのように口元を引き結び、フードをかぶり直すと添削を再開した。

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