残された二枚のカードのうち、どちらを選ぶか。
追い込まれたヴィネックがとった行動は、この場にいる誰もが――神であり、そしてヴィネックの分身でもあるウルディノシスさえ――予想せざるものだった。
卓上のカップがカタカタと音を立てる。椅子にかけたまま、ウルディノシスが声を殺して笑い出したのだ。さもおかしそうに背を震わせながら、彼は言った。
「女神に賭けた? いま、君、そう言ったね? ならぼくの勝ちだ。女神は、イギーは、ぼくの可愛い妻なんだから。そうだろう」
勝ち誇ったようなせりふが、庭園中に響き渡る。同時に、テーブルを取り巻く空気がぴりっと振動した。無言ではあったが、思わぬ夫の言葉に対し、イグノディアスが反応を示したのだろう。
ヴィネックもまた、なにひとつ答えない。ウルディノシスは肩をすくめ、未明を一瞥した。それを合図に、躊躇いながらも肯く未明。
「ど……どうぞ」
即座に二枚の勝負札の正体が暴かれる。――ヴィネック、九。ウルディノシス、四。勝ったのは、ヴィネックだ。
四戦目を抑え、ヴィネックの点数は三点。これでウルディノシスと同点に並んだ。二回戦の勝者は、五戦目で決まる。崖っぷちからの挽回に、ジードやカシアンは思わず大きな溜め息を漏らした。
「残るカードは七、十一、十二だ。『谷』がなんなのかはいまだにわからないが……」
「貴様の父親が持っているのが七だとすれば、負けだぞ。七では十一にも十二にも勝てんのだからな」
じれったそうに歯噛みするカシアンを見やると、ジードは沈黙した。先ほどから感じている違和感が一段と強くなったためだ。女神に賭けたという謎めいた言葉の真意もわからない。運に任せた、ウルディノシスがそう解釈するのも無理はなかった。
思案するジードをよそに、ゲームは最終戦を迎えた。互いに一枚しか残っていないカードを、放り投げるようにしてテーブルの真ん中に並べ合う。ウルディノシスの表情は、勝利への確信に満ち満ちている。一方、気だるげに頬杖をつき、黙って開示の時を待つヴィネック。その顔つきからは心情などまったく読み取れない。
「どうぞ」
消え入りそうな声とともに、カードが表返される。
白いユニスの咲き誇る十二と、大角を生やした山羊の十一。一騎打ちを制したのは、愛のユニス。つまり――ヴィネックだ。安堵のあまり脱力したのか、カシアンの身体がわずかにふらついた。
「へえ」
ウルディノシスは意外そうに瞠目したものの、すぐにこう続けた。
「まあ、紙一重の勝利ってところだけど、ぼくも嬉しいよ。こうでなくっちゃ、決闘が盛り上がらないからね」
「は! 負け惜しみも大概にするのだな。貴様の命運もここまでだ、神とやら」
いつもの彼らしく高圧的に言い放つカシアンに、だがウルディノシスは見向きもしなかった。落としはしたが、ゲームの内容を振り返れば、窮地に立たされているのがどちらかなど明白だ。
――オルグ・ヴィネック、イギーが君に力を貸すはずなどないだろう。ぼくに蘇ってもらいたいがために君たち依り子を捜し集めたのは、ほかならぬ彼女だ。彼女もまた、君たちにしてみれば敵なのだからね。
ウルディノシスは内心、ほくそ笑んでいた。つまり、先ほどのヴィネックの勝利は、運に頼ったものでしかない。なるほど確かに思考を放棄してしまえば相手に読まれることはないだろう。だが、神頼みで勝てるほどキューズァロというゲームが甘くはないことは、ヴィネック自身がいちばん承知しているはず。
要するに、そんな手段に出ざるを得ないほど、彼は追い詰められているのだ。六人の依り子のなかでももっとも才走っていると言っていい、ヴィネックほどの男が。
ウルディノシスは、彼の目の前で空っぽのカップを玩んでいる相手をじっくりと眺め、薄い笑みを浮かべた。
夕暮れの「春の街」に、人々の上げる歓声がこだまする。「救世主」として颯爽と出現した神が、灰色の髪の対戦者を打ち負かすたび、その声は大きくなった。
「見ろ、あの野郎、手も足も出ねぇぞ!」
「当然だ、なんてったって神様だぞ、相手は。負けっちまえ、身の程知らずが!」
空に浮かぶ「窓」の位置が、いっそう近くなった。卓を挟んで向かい合う二人のプレイヤーの姿も、手に届きそうなほどはっきりと見える。ロナジアは朱色の髪を振り乱し、地団太を踏み、金切り声で怒鳴っていた。
「ファロダ! なにやってんのよあんた、そんな若造相手に! キューズァロで負けたことなんてないっていっつも自慢してたじゃないのさ!」
彼女はいらいらと爪を噛んだ。いったいなにが起きているのかはわからないが、勝負はどう見ても劣勢。このままでは負けてしまう――そう思うと、いてもたってもいられない。といって、自分にできることもない。歯痒さのあまり、ロナジアは路上で仁王立ちになり、銀髪の男をキッと睨みつけた。
手札となる五枚のカードをそれぞれが引き抜き終わり、三回戦が始まった。未明と、そして世界の命運がかかった神との三本勝負、初戦の勝敗がこれで決まる。
ところがヴィネックは、手元にそろえたカードをちらりと見るなり、またしても無造作にシャッフルを始めたのである。なかば予想していたこととはいえ、ウルディノシスは憐れみさえ込めた眼差しを彼に向けた。
「つまらないなあ。まさか、運だけでぼくに勝てると、本気で思ってるのかい」
勝負札として抜き取ったカードをぞんざいな素振りで卓上に伏せると、ヴィネックは素っ気なく答えた。
「言ったろ。女神に賭けたってな」
そうして第一戦目。開けられたカードは、ヴィネックの五に対し、ウルディノシスは一。素数同士の対決は、白獅子を刺し殺す蜘蛛に軍配が上がった。まずはウルディノシスの勝利だ。
二戦目。ヴィネックはやはり、伏せたままのカードから適当に一枚を抜き出すと、卓上に放った。さして迷うこともなくウルディノシスもそれに続く。
未明の合図を待って、カードがひっくり返される。白い可憐なユニスの花と、不孝を表す紅い火蠍――十二と七の勝負を制したのはヴィネックだ。
序盤戦を終え、点数は一対一の互角。だが、ここに来ても、ヴィネックの表情はぴくりとも変わらない。彼はむっつりと押し黙ったまま、その次のカードを選び出した。二回戦までの戦い方が嘘のような、やる気がないようにさえ見える態度である。
果たして第三戦、ヴィネックのカードは六。そしてウルディノシスは十一。優美なる蛇が、強奪をつかさどる山羊に踏み潰された。――勝者はウルディノシスだ。彼の得点には二点が加わり、ふたたびヴィネックを突き放したことになる。
見ていられなくなったのか、ここでついにカシアンが「切れ」た。
「なにをやっている! 貴様、どういうつもりだ、ええ!? これは最終戦なのだぞ。ミハルが……私の天使がかかった戦いだというのに、そのふざけた態度はいったいなんなのだ!」
プラチナブロンドを掻き毟り、泡を飛ばさんばかりのいきおいで怒鳴り散らすカシアン。ヴィネックは答えもせず椅子の背にもたれ掛かり、長い睫毛を伏せ、ゆったりと腕を組んでいる。馬耳東風、といった趣である。
そんな相手に、ウルディノシスは静かな調子でこう語りかけた。
「オルグ・ヴィネック。君は確かに、ぼくの知識どおりだったよ。勝つためなら、大胆な選択ができる――いままでに積み上げた技術をすべて捨て、運に任せるなんてね。君にさえわからないものは、さすがのぼくも読みようがない」
その言葉に、ヴィネックはうっすら閉じていた目をゆっくりと開けた。
「ま、ぶっちゃけ、やりたくはなかったがな。これしか勝ち目がねえんだ。しょうがねえだろうな」
あきらめとも開き直りとも取れる返答に、ウルディノシスはいよいよ憫笑を漏らす。
「君の判断は正しかったよ。ただし、君の期待していた運は、残念ながらなかった。『前を向く者だけが風を味方にする』……君も知っている格言だけど、まさにそのとおりになったってことかな」
ヴィネックは無言で空を仰いでいる。憔悴しているのに違いない――ウルディノシスはそう感じ、軽く肩を震わせた。イグノディアスではないが、あの生意気きわまりない依り子が、ここまで追い詰められているのだ。内心、愉快でならなかった。
三戦目まで終えたところで、ウルディノシスの手札は二と三。ということは、谷も含め、ヴィネックは四か九か十。依然としてヴィネックにも勝ちの目は残っている。が、四、五戦両方に勝てる組み合わせはごくごくわずかである。こんなでたらめな切り方で、勝負手を残せようはずもない。『前を向く者だけが風を味方にする』のだから。
ウルディノシスは勝利を確信した。そうして、四枚目の勝負札を抜き出し、テーブルに置いた、その時だった。
「なあ、カシアン。さっき言った、俺の若い頃の夢ってやつを教えてやろう」
あまりに唐突なせりふが、その場に響き渡った。当のカシアンはぽかんとし、一瞬置いてようやく反応したものの、その表情は鬼のように歪んでいる。
「貴様……いい加減にしろ。やる気がないのなら、その勝負、この私が――」
「ひとつは、自分自身と勝負すること。
もうひとつは、神様ってやつと勝負して勝つことさ」
カシアンの怒声すら遮り、ヴィネックは言い切った。その顔つきが、がらりと変わっていた。いつもの彼らしい、不遜で、人を喰ったような、どこか真意の読めない笑顔がそこにはあった。カシアンだけでなく、ジードもまたはっとし、どことも断じ得ぬ空間一帯に向けられたヴィネックの視線の先を追う。
ほどなくして、彼は呻くようにつぶやいた。
「そうか……」
深く肯いたその顔には、苦笑さえ浮かんでいた。――父の狙いが伝わってきたのだ。
一方で、おのれの勝利を信じて疑わなかったウルディノシスの胸中には、不安という名の黒雲がにわかに広がっていく。それもまた、分身たるヴィネックを通じて得た洞察力によるものである。彼は、ヴィネックが勝負札として突き出したカードを前に、鋭く叫んでいた。
「待て!」
なにかがまずい。このままでは、おそらく、負けるのは自分の方だ。
胸の奥で、シグナルはそう報せていた。むろん理由はわからないが。
「オルグ・ヴィネック。君――イカサマを使ったね」
渇いた唇を舐め、そう訊ねるウルディノシス。応じるヴィネックは怒るでもなく、むしろ楽しげに両手を広げている。
「イカサマぁ? この俺がか? 面白えこと言ってくれるじゃねえか、神様。
使ったってんなら、そいつを立証してもらわねえとな。あ? どんなイカサマだ、いったい」
余裕たっぷりに返され、ウルディノシスはぐっと詰まった。確かに、タネを暴けないうちは、勝負を止めることはできない。どれほど疑惑が濃かろうと、言いがかりの域を出ないからだ。これは賭け事の――いや、勝負事の常識である。
「だいたい、お前さんも妙なことを言うよなあ。俺が本番じゃイカサマを使わないことも、知識としては心得てるその道の技術も、お前さん、最初っから全部知ってるはずだろう」
ヴィネックの言い分は至極まっとうなもので、そうなると沈黙するのはウルディノシスの番だった。彼はヴィネックさながらに腕を組み、黙考を始めた。
――ヴィネックがなにかを仕込んだのは、ほぼ間違いない。
しかし、見破れない。思いつく限りの、どのイカサマも当て嵌まらない。
ましてここはその辺の賭場というわけではない、「神の館」である。カードもテーブルも、ウルディノシス自身が神力を使って具現化したもの。
小細工を仕込む時間も用意も、ヴィネックにあり得るわけがない。そう考えれば考えるほど、イカサマなど不可能に思えてくる。ウルディノシスはキッと顔を上げると、荒々しい声で告げた。
「カードを……交換する!」
言うなり自分の置いた勝負札をむしり取り、残っていた手札に換えようとした時だ。ヴィネックは飄々と言ってのけた。
「なら、俺も変えさせてもらう」
「ぼ、ぼくもだ!」
ウルディノシスは腰を浮き上がらせ、焦りもあらわに叫んだ。すべての民に愛され崇められる万能神としての体裁など、頭から消え去ってしまったかのように。
ヴィネックはにやにや笑いながら相手を眺め、こう言った。
「『蛇の輪』だな。いまんとこ、点数で勝ってるのはそっちだ。ルールに則り、先に『止め』てもらおうか」
ウルディノシスは絶句した。彼はようやくにして悟ったのだった。
「お前……」
それ以上の言葉が出てこない。そう――無造作に出したとしか見えなかったここまでの相手のカードは、すべて計算づくだったのだ。
ヴィネックの腕であれば、自分でシャッフルしたカードの行方など、見ずとも覚えておくのは容易なこと。そうしておいて、意図的な敗北を演出してみせたのに違いない。最後の二枚で逆転できる、そういう確信のもとに、「蛇の輪」の中に巧妙にウルディノシスを追い込んだのである。
勝利する寸前で違和感に気づかせたのは、もちろんわざとだ。イカサマを見抜かれ、敗北する危険をあえて犯したのは、より屈辱的な敗北をウルディノシスに与えようという目論見があってのことだろう。それはおそらく、あとに続くジード、カシアンの二人のためにだ。
ウルディノシスの唇が、かすかに戦慄いた。ヴィネックから得た洞察力が、皮肉にも、そのヴィネックの揺るぎない勝利を彼に教えていた。
だが勝負を降りるなど論外だ。ウルディノシスはその両眼に炎を宿し、手元に残った二枚の手札をじっくりと見比べた。考えても正答など出て来はしない。彼は苦悶の末、カードを伏せてシャッフルし、あえて選ぶことなく一枚を抜き出した。
それは、つい先ほどまでの自分が憐れみさえ向けたはずの「神頼み」。
一部始終を眺めていたヴィネックは、彷徨うような視線を中空に投げた。
それから、静かに口を開いた。
「無駄だよ。お前さん、自分で言ったじゃねえか。『前を向く者だけが風を味方にする』んだろ?
それに――」
ヴィネックはいったん言葉を切り、カードを抜くと卓上に伏せ置いた。
四戦目、ヴィネックは四。ウルディノシスは三。勝者はヴィネックだ。
間を置くことなく、ウルディノシスは、たった一枚残っただけの手元のカードをテーブルに載せた。その顔からは、表情が消えていた。
表返された運命のカードに描かれていたのは、銀色の毛並みを持つ凛々しい一角獣と、とぐろを巻いた蛇。
「……俺には女神がいた。そして、お前さんにはいなかった。ただそれだけのことさ」
ヴィネックの九が、ウルディノシスの二を踏み潰した――。
「勝った! 勝ったぞ、神に……神に勝った! オルグ・ジード、勝ったぞ、貴様の父親があの男に!」
震える声で快哉を叫ぶカシアン。その隣では、なぜかジードが苦笑いしながらヴィネックと未明を見つめている。ヴィネックの仕掛けたイカサマの正体が、彼には呑めていたからだ。ふとその脳裏を、幼いジードやアドリオにキューズァロの手ほどきをしてはイレイラにこっぴどく叱られていた父の姿が過ぎる。このやり方のどこが知育玩具だ、そう雷を落とす母の声さえ聞こえてくる気がした。
「背後からメイドたちに手札を覗かせるのだから、母上が怒るのも無理はないな」
ジードは微笑し、独りごちた。そう、それが、ヴィネックが使った「イカサマ」の真相だ。
仲間を使って対戦相手の背後に回らせ、盗み見させたカードの数字をこっそり教えてもらうのは、イカサマとしては初歩の初歩。いまどき、引っかかる輩などそうそういないだろう。それに、賭場では通常そうした手口を防ぐために、プレイヤーの周囲をカーテンで覆う造りになっている。
これがより上等な店になると、ダルージュ織と呼ばれる特殊な生地でできたカーテンを使用する。客の目からは勝負の様子が――カードの目を含め――見えるが、プレイヤーからは布を隔てた観衆の様子を窺うことはできない。大学府の武芸場でも貴賓席の御簾に用いられているほど、便利な「目隠し」だ。
その知識は当然、ウルディノシスも持っていた。だが、彼は疑いもしなかったのだ。
自分の魅力に抗える女が「窓」にいたことも、大観衆の中から、ヴィネックがその女を見つけ出すことも。
しかし、とジードは首をひねった。父の言う女神とは誰のことなのか。未明でないことは明白だ。もちろん、亡き妻でもなければイグノディアスでもない。そうなると……。
劇的な勝利を収めたヴィネックは、遠い眼差しを、黙って空に向けていた。その視線の先に浮かぶのは無数の「窓」――いや、人込みのなか、たった一人ヴィネックの勝利を喜んで飛び跳ねている、馴染みの女の姿だ。
「まったくの偶然とはいえ、感謝するぜ、ローニャ」
そうつぶやくと、彼は片目を瞑った。「窓」に映し出されたロナジアに気づいたのは、二回戦の長考の時だ。ウルディノシスの言葉が、皮肉にもヴィネックの意識を「窓」に向けさせた。じれったそうに口を歪めるロナジアのその意図を、ヴィネックは即座に読み取った。どこにいても目立つあの朱色の髪が、まさかこんな風に自分を助けてくれようとは――ヴィネックはふと思った。
「それにしても、俺の人生ってのは、節目の勝負になると必ず女が絡んでくるんだな」
亡妻イレイラと、運命の恋人である美沙紀。二人目の依坐、未明。――そして、ロナジア。
果たして、そこになにかしらの意味はあったのか。それとも、意味などない、たんなる運命の悪戯に過ぎないのか。
顔色を失くし、椅子の上で固まったままのウルディノシスに、ヴィネックは言い放った。とどめとも取れる一言を。
「ま、なんにせよ、あれだ。
意外にちょろいもんだな。神様ってのも」
★「ぽち」っといただけると嬉しいです★
↓ランキング参加中です。よろしければ1clickお願いします↓
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。