秋季休暇が終わり、季節は本格的な冬季へと移り変わった。大学府の広大な敷地に、各大陸へ帰省していた学生たちが、三々五々集まってくる。いよいよ最終学年の始まりだ。
期の初日には、お決まりの定期面談が控えている。すなわち、イグノディアスとの契約を遵守したか、背いたか。講堂へ向かう途中、ジードは偶然同級のホルツェン、それにレミットと出くわした。
「よぉ、ジード。お前もとうとう今日が年貢の納め時ってやつか」
いつものように軽口を叩くホルツェンだったが、級友の表情はあきらかに冴えない。彼は怪訝そうにジードの顔を覗き込んだ。
「おい、どうした? なんだその不景気な顔は。例のメイドはどうなったんだよ」
「……別にどうもしやしないさ」
ジードのテンションは異様なまでに低い。さては振られたか、とホルツェンは口元を押さえた。しかし、傍で二人のやり取りを聞いていたレミットは、好奇心丸出しで突っ込んでくる。
「なんだよ、例のメイドって。もしかしてジード、秋季休暇の間に筆下ろししちまったのか? 名門中の名門、ウェス・ハーシュ家の次期当主様が?」
否定する気力もないらしい。ジードは深いため息をつくと、一人講堂へと歩き出した。レミットは目を丸くしてその後ろ姿を見送っている。
「いったい全体どうしちゃったんだよ、ジードは。ぼくらの学年じゃ一、二を争う優等生だっていうのに。あんな意気消沈した姿、入学してから初めて見たよ」
ホルツェンは頭を掻いた。レミット・ウォーザロワ・キッファンは五大陸中の北端に位置する農業都市コーロンナの地主の息子で、いたって気はいいのだが、おおらか過ぎてデリカシーに欠けるところがある。空気読めよ、といった感じか。
「意外にも難攻不落の相手だったか。あのウェス・ハーシュ家の跡取り息子に迫られて落ちねぇんじゃな」
それとも、迫り方を間違えたのか。あり得る話だ。親友の恋模様をなかば楽しみつつ、ぶつぶつと独りごちるホルツェンだった。
定期面談は、講堂最上階の学府長室で行われる。ジードは艶のあるフォモック材(※樫に似た家具向けの高級木材)でできた重厚な扉を力なく叩いた。
「お入り」
すぐに応答があった。奇妙に甲高く、性別すらも判別しがたいワンジオ翁の声だ。
「失礼します」
入室し、一礼してから椅子に掛ける。窓から差し込む朝日が眩しく、傷心のジードにはやや沁みた。
侏儒を思わせるほど小柄なワンジオ翁は、その空洞のような真っ黒の眼に慈悲の色を湛えて、ウェス・ハーシュ家の次期当主を見つめた。なにがあったのやら、ずいぶんと落ち込んでいる。彼らしくもないことだ。
「しっかりと禁を守ったようだね。しかし、いっそ破ってしまえばよかったとも思っている。違うかね」
ジードの頬が赤らんだ。
「──いえ。惑ってはいません。私は、少なくとも在学中は、女神イグノディアスにのみ忠誠を捧げる覚悟でおりますから」
彼はそれでも言い切った。名門の長子として、どういう理由があろうと大学府を退学になるわけにはいかない。あの遊び人の父でさえ守り通した禁忌だった。
「さて。しかし、それにしても……ひどく変わった気配がするのだがね、オルグ・ジード。君の周囲に、なにか変化でもあったのかね? この休暇のうちに」
ワンジオ翁はそう言ってこの優秀な学生をじっと見つめた。相手の表情が微妙に変わる。ジードは知らぬ間に口を開いていた。
「……とても不思議な娘なんです。どこから来たのか、いや、言葉すら通じない。見たこともない服を着て、聞いたこともない……小鳥の囀りのような声で……戸惑ったような黒い瞳で、私を……」
激情に我を失くし、彼女の身体に触れた時のことを思い出す。すべてが初めての感触だった。やわらかな唇。甘い香り。艶やかな髪。
――もう一度、触れたい。
「忘れられないんです」
ジードは顔を覆った。
同じベッドで眠ることを拒否された時、彼は足元がぐらつくほどの衝撃を覚えた。間髪を入れず、上ずったように問いただした。自分の気持ちを受け入れられないためなのか、と。
果たして彼女は肯いた。
どこか申し訳なさそうに肯いたのだ。
呆然とするジードを置き去りに、彼女は出て行った。そして元の使用人部屋に戻り、女官服を着、メイドとして働いている。おそらくはいまも。
秋季休暇はそれから一週間ほどで明けた。ジードは未明とはろくに話もしないまま屋敷を出た。これ以上拒絶されるのが怖かったのだ。
だが、これから三ヶ月の間、帰省は一切禁じられている。次の休暇は春だ。春が来るまでは未明には会えない。
なにがあろうと会うことはできない。
たとえどれほど会いたくても。
ワンジオ翁はなにも言わなかった。彼はただ黙って、ジードの気が落ち着くのを待った。
窓の外では、いつしか初雪が舞い始めていた。
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