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  センロノハテニ 作者:日比谷碌樹
最終章
第十八話 挑発
 
 昼とも夜ともつかぬ鬱蒼とした闇が広がる聖山オルド・カルマ。山頂付近は濃い霧に覆われ、漂う冷気の前にはただ一匹の野ウサギすら姿を見せることはない。生きものの営みを跳ねつけるような、どこか浮世離れした空気の支配する神峰。
 そんな山中を延々彷徨う、一人の男がいた。
 汗と垢、泥にまみれ、黒い蓬髪を振り乱しながらひたすらに麓を目指し続ける、ラルモ・オルヌ。かっと見開かれた二つの(まなこ)には、もう何日も前に目の当たりにしたあの映像(・・・・)が、褪せることなく未だに焼きついていた。
「神よ……我が神、ウルディノシス神よ……」
 血の気を失い、かさかさにひび割れたその唇からは、念仏にも似た「その名」が絶えず漏らされる。そう――あの日、突如として空に現れた「救世主」の名だ。目にするや否や、オルヌの魂は神に奪われた。そうして強く願ったのだ。あのお方のもとに行きたい。自分こそ、すべての人類の中でもっとも賢い自分こそが、あのお方にはふさわしい。イグノディアスなどものの数ではない、ウルディノシス神の役に立てるのなら、どんなことでもすると。
 同時に、激しい嫉妬に襲われた。ウルディノシスのそばには、オルヌのよく知るあの連中の姿があった。ウェス・ハーシュ卿と彼の二人の息子、ウェス・ゴート卿の――いや、聖女クリスティアの愛息、そして共謀者だったはずの白髪の隠者。この自分を差し置いて、下種きわまりないあのような者たちが。憤りと焦燥に駆られ、彼は庵を飛び出した。錫杖すら持たず、方向もわからぬまま、ふらついた足で下界を目指した。ただ神の微笑みだけを脳裏に描いて。
 いつしか沼地に入り込んだことにも気づかず、オルヌはよろけ、そのまま倒れ込んだ。手をつこうとして、つかむものがないことを知った。枯葉に隠された底なし沼が、山中には無数に存在する。オルヌの眼前に、死の一文字が迫った。
 一陣の風が吹いたのは、そんな時だった。



 登り始めていったいどれほどの時間が過ぎたのだろう。もはや感覚を失いつつある四肢を、ジードは必死で動かし続けていた。それは彼のあとに続くカシアンも、そしてヴィネックも同様だった。外見(そとみ)にはせいぜい百五十トーティ(約五十メートル)ほどだった尖塔だが、どこまで登っても終わりが見えないのだ。
 それでもあきらめる気などは毛頭起きなかった。この先に、登り切った先にあるはずの「神の館」に、未明がいる。引き返してしまったら、もう二度と彼女には逢えないだろう。ジードは目を瞑った。地下の牢獄で、格子越しに交わしたあの言葉を、もういちどこの耳で確かめたい。それが叶うのなら、たとえ手足が折れようと――。

 ……さま、ジード様……

 風に乗って聞こえてきた声に、ジードははっとした。間違いない。
「ミハル……ミハル! いま行く、待っていてくれ!」
 彼は叫び、それから目を凝らした。うっすらと周囲を囲んでいた雲が急激に消えていき、代わりに現れたものがあった。
 若草が茂り、蔓バラの咲く庭園。向かって中央に設えられた金色の噴水からは、七色に輝く飛沫が盛んに上がっている。小鳥の囀りに、暖かく差し込む日の光。どこからどう見ても平和で美しい、一幅の絵画のような光景。
 気づくと、ジードたちは、その庭に降り立っていた。ついさっきまでよじ登っていたはずの尖塔は、いまやどこにも見当たらない。かすかに残る手足の痺れだけが、夢でも幻影でもないことを証明してくれている。ジードは深々と息を吸い込んだ。青草の香りと、甘い、異国の香のような匂いがした。
「ここが……」
 神の館の建つ場所か。しかし、肝心の「館」らしき建物は周囲には見当たらない。すぐそばにやってきたヴィネックと視線を交わし、そう言おうとした矢先だった。
「ずいぶん時間がかかったんだなぁ。いい加減、待ちくたびれちゃったよ。ぼくも彼女も」
 忘れもしないあの声が聞こえ、三人は弾かれたように背後を――誰もいなかったはずの――振り返った。
「――ようこそ、神の館へ。なにはともあれ、歓迎するよ。君たちを」
 果たしてそこには、彼が立っていた。イグノディアスの夫にして真の統治と魅了の神、ウルディノシス。
 そして、その腕から逃れようと必死でもがく、未明が。



「神の館へようこそ。ここに来た人間は、君らが初めてだよ」
 尊大な笑みを浮かべるウルディノシスに、いち早く答えたのはヴィネックだ。彼は、飛び出そうとする二人の若者を後ろ手に制しながら、ずいと前に出た。
「そりゃあどうも。しかしあのクソ長ぇ梯子はどうにかならないもんかね? こいつらはともかく、俺はそれなりの歳なんでね。客を迎えようってのなら、馬車のひとつも寄越してもらえると大いに助かるんだがね」
 ヴィネックの軽口を聞き、ウルディノシスはおかしそうに目を細めた。
「仕方がないよ。あるじであるぼくが言うのもなんだけど、ここに来るにはそれだけの資格が必要なんだもの。そりゃあ、あちらの世界(・・・・・・)みたいに、自動的に昇り降りができる箱があれば便利だろうけどさ」
「自動的に昇り降りできる箱? なんの話だ、そりゃ」
 眉をひそめるヴィネックの脇から、カシアンが吼えた。
「そんなことはどうでもいい! 貴様、ミハルからいますぐ離れろ! 神だかなんだか知らんが、これ以上私の前でふざけた真似をするとどうなるか、わかっているのだろうな!?」
「カシアン!」
 鋭い一声が飛んだ。発したのはやはり、ヴィネックだ。彼はやや乱暴にカシアンの腕を引っ張ると、無言で相手をいなした。飄々とした普段の態度とはかけ離れたその威圧感に、さすがのカシアンもしぶしぶ黙り込む。
「――単刀直入に言うぜ。俺らがここへ来た目的は、あんたもわかってるだろうがただひとつだ。ミハルを返してくれ。それさえ済みゃあ、とっとと帰るからよ」
 ヴィネックはあえて事務的な調子で切り出した。この場の空気をできる限り刺激せずにことを運ぶためだ。
 そんな彼に対し、ウルディノシスは濃緑の双眸をぱちぱちと瞬かせた。
「帰るだって? いやだなぁ。せっかくここまで辿り着いたっていうのに。君らがここまで来るのを、ぼくは心待ちにしていたんだから」
 その語調に、不穏な響きが混ざる。ヴィネックの顔つきが、さっと変わった。
「ミハルを賭けるのなら、それ相応のやり方をしなきゃ。そう――決闘だ。君ら三人とぼくとで、命懸けの闘いをするんだ。もちろん君らが勝ったら、ミハルを返してあげるよ。でも、負けてしまったら、彼女は永遠にぼくのもの。……永遠にね」
 世にも不敵な微笑を浮かべるウルディノシス。これに激昂したのはカシアンだけではなかった。
「いいだろう、望むところだ。もとよりミハルを取り戻せぬまま生きのびる気など私にはない」
 ヴィネックの制止を振り切るようにして叫んだのは、彼の息子、ジードだ。すでに戦闘態勢に入っているのか、その全身から、あの青白い炎が漂い出した。だが、それでも、ヴィネックは退かなかった。
「ダメだ。お前らの出る幕じゃねぇ。――いいか、決闘なら俺が受ける。勝負の方法も決めさせてもらう。血生臭いのは性に合わねぇんでな、テーブルでケリ着けるってのでどうだ」
 意外な申し出に、ウルディノシスは首を傾げた。
「決闘を、テーブルで?」
「そうだ。カードで……つまり、キューズァロでだ。サシの勝負なら、これ以上のゲームはねぇからな」
 そう言うと、ヴィネックは指先でカードを弾く仕草をしてみせた。その後ろで、納得いかぬげに声を荒げるジードとカシアン。
「父上! 勝手に決めないでください、私は……」
「そうだ、勝手に話を進めるな! それもカードでだと? 腰抜けが! 決闘ならば剣を交えての死闘、それが常識というものだろう!」
「負けたらどうする。お前らがここでまんまとウルディノシスに乗せられて、ばか正直に玉砕しちまったら、ミハルはどうなると思ってんだ。誰があいつを助け出すんだよ、ええ?」
 踏んできた場数の違う、重みのあるせりふに、二人は反論を封じ込まれた。彼らが口を噤むのを見て、ヴィネックはここぞと言い放った。
「神を相手に、正面からやり合って勝てるとでも思ってんのか、お前らは」
 神対人間。まともに闘っても勝ち目がないことは、冷静になれば誰にでもわかることだ。
 ウルディノシスはそんな三人をじろじろと見回しながら、こう言った。
「ぼくは別にどんな方法だっていいけれど、どうせならやっぱり、君たち全員と勝負してみたいな。そう……特にそこの君。君にはどうも、心残りがあるみたいに見えるんだけど、違うかい」
 その白く細い指が示しているのは、ジードでもヴィネックでもなかった。
「心残りだと? この私にか。そんなものは――」
 答えたのはカシアンだった。彼は、薄い唇に侮蔑を湛えながら相手を見やった。しかし、対するウルディノシスの方は、どこか憐れみにも似た表情さえ浮かべ、カシアンを見つめている。
「ぼくは、君たちのことならなんでも知ってる。――君にはし残したことがある、そうだろう。ここに来る前、いや、もうずっと昔から、実行したくて仕方がなかったことがある。それを片づけないうちは、この世に執着が残ってしまって、決闘に踏み切れないんだ。君は、死ぬのが怖いんだよ」
 ウルディノシスの言葉に、カシアンの顔色が変わった。血の気の薄い、真っ白な肌が、みるみる赤く染まっていく。怒りのあまり、両眼が血走り、唇がわなわなと震え出した。
「貴様……この私が、死を恐れているだと。よくも……よくもそんな……!」
 ウルディノシスは、小さな子どもでも眺めるような眼差しをカシアンに向けた。
「怒ることはないさ。それが人間だもの。つまらないことに囚われ、思いを果たせずに一生を終える者だってごまんといるんだろう? ――だから、ぼくが、君の抱いている『心残り』を断つ手助けをしてあげる。そうすれば、そこの依り子の言葉なんかに惑わされることなく、晴れて決闘に臨めるだろうからね」
 ヴィネックの顔が険しくなった。神がカシアンを挑発しようとしているのはわかるが、いったい、「心残り」とはなにを指しているのか。ここに来る前から、未明に出逢うよりずっと昔から彼が抱いてきた望みなど――そこまで考え、脳裏に閃いたものがあった。
「カシアン、聞くんじゃねぇ、そいつの言うことをこれ以上聞くな!」
 怒鳴ると同時に、つむじ風が巻き起こった。突然の突風に、鳥たちは慌てて飛び立ち、木々からは葉っぱがはらはらと舞い落ちる。やがて静まり返った庭園に姿を現したのは――。
「ご苦労だったね、メル。絶妙のタイミングだよ」
 満足そうに微笑むウルディノシスの前で恭しく(こうべ)を垂れる、水色の髪の少年。風を操る神、メルメリウスだ。深々と一礼したあと、彼は空に溶けるようにして消えた。「神の館」という場所の持つ力なのか、ジードたちにもその幼さすら残る姿を認めることができた。
 けれども、彼らの目を釘付けにしたのは、メルメリウスではなかった。
「言っただろう? ぼくは、君たちのことならなんでも知っている。だから、メルに頼んで連れてきてもらったのさ。
 君はずっと昔から、この男を憎んできたんだね。だから、殺したくてたまらなかった。そう……それが君の『心残り』だ」
 カシアンは絶句した。神の声さえ耳には入っていなかった。
 地面に這いつくばり、うつろな目でウルディノシスを見上げているのは、テオルーグの庵で再会したあの男、ラルモ・オルヌその人だった。思いもよらぬ展開に、思考が追いつかないでいる。そんな不束の思いすら見透かしていると言わんばかりに、ウルディノシスの言葉は続く。
「殺せばいい。いまなら誰の邪魔も入らない。この男は君の母の敵だ。殺してしまえば、なにも思い残すことなく決闘に臨めるだろう。
 さあ。――この男を殺すんだ、カシアン」



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