ウェス・ハーシュ邸三階東端の奥まった一室が、代々の当主の部屋だ。オサイオン市での中央会議に出席していたはずの現当主が、なんの前触れもなく真夜中に帰還した日の夜遅く、その息子、オルグ・ジードは父親の部屋を訪ねていた。
父は鷹揚に椅子に腰掛け、葉巻を燻らせている。稀代のヘビースモーカーである彼のおかげで、自分が代を継ぐ頃には壁が変色し切っているだろう。ジードはため息をついた。
刹那主義の享楽家。オルグ・ヴィネックを一言で言い表すならそういうことになる。しかし、にもかかわらず、彼はきわめて優秀な政治手腕を同時に持ち合わせてもいた。その非凡さは昔から変わらず、大学府には首席で入学し、当然のごとく首席での卒業を果たしている。またその一方で、女遊びが激しかったという矛盾した噂が流れているのも事実だ。実年齢は四十六歳だが、見た目はせいぜい三十代半ばの鰥夫風色男。遊興用の通り名を使い分け、屋敷を空けるたびに愛人の数が増える、生粋のドンファン。
実の親ながらどうにも捉えどころのない食わせ者。正直、手を焼いている──という気持ちが否めないジードだった。
「お聞かせいただけますか。なぜ、ミハルと一緒に戻られたんです」
ジードは長椅子に腰を下ろし、手のひらを組み合わせてそう切り出した。
ファロダ──いや、ヴィネックは、気だるげに煙を吐き出し、息子をちらと見やった。
「偶然ってやつさ。『銀鼠』にあの娘が潜り込んでて、妙な連中に絡まれてた。女官服を着たいかにも擦れてない娘だ、無理もない。で、助けを呼んでたんだが、これがちょっと引っかかる奇妙な言葉だったんでな。出自を訊ねたくてそこから連れ出したのさ。ここには戻りたくないって言うんで、一晩知り合いの家に預けるつもりだったんだが、具合が悪くなっちまってな」
深夜十一刻半(午前三時)を回った頃、ウェス・ハーシュ邸の正門に一台の辻馬車が停まった。訪問者は誰あろう当主のオルグ・ヴィネック卿と、行方不明のメイドだ。連絡を受けたジードはすぐさま駆けつけ、パドマやレンドルスの進言も聞かず、彼女を自分の部屋へと運び入れた。未明は高熱に意識を失くしていた。侍医を呼びつけ、一晩寝ずに介護したおかげで、日が昇り切る頃にはずいぶん容態も落ち着き、彼はほっと胸を撫で下ろしたのだった。
静かに眠り続ける未明を見つめるうち、抑え切れない恋情がふたたび胸のうちに蘇るのをジードは自覚した。
いったいどこから来た娘なのか。なぜ恒久手形を持っていたのか。なにより、いずれは元いた場所へ帰ってしまうのか。未明に関してはわからないことだらけだ。
だが、それでも、気持ちは一向に萎えることはなかった。彼女に初めて会ってからというもの、心の奥底では、強力な種火が絶やされることなくいまも燃え続けている。
「坊主。今度は俺が訊く番だ。あの娘は何者だ? パドマは記憶喪失の放浪民とか言ってたが。お前がわざわざ引き取ったってことは、なにかがあるんだろう」
ヴィネックの目が鋭く光る。ジードは彼の眼差しを正面から受けた。
「坊主はやめてください。――ミハルは、十日ほど前、カルマ着の下りの定期便に乗ってこのヴィネックに来たんです。『天上の切符』を持って」
「……なんだと?」
当主の顔色が変わった。
「確かです。この目で確認しましたから。彼女は、私がこれまで見たこともないような風変わりな格好をしていました。そして聞いたこともない言葉を喋る。
詳細を訊き出すには時間が必要です。彼女は勉強熱心だ。じきに大陸共通語も覚えるだろうし、そうなればどこから来たのかも話してくれるでしょう」
ヴィネックは黙り込み、あごを撫でた。その仕草は彼の息子によく似ていた。
「坊主。お前、わかってるんだろうな。修道期間はまだ一年残ってるんだぞ。ミハルがそばにいても、自分を抑えられる自信がお前にあるのか」
「ええ。あります」
ジードは即答した。
一年だ。一年耐え抜けば、晴れて彼女を妻として迎えられる。年四回の休暇期間以外は大学府に戻らねばならないが、せめてこの屋敷にいる間は片時も自分のそばから離さないつもりだ。いずれ言葉を解するようになれば、もっときちんと気持ちを伝えることもできる。
そんな息子の様子に、ヴィネックは苦笑した。
――恋に狂ってる男の顔だな。まるでかつての自分のように。
父子の業とはかくも恐ろしいものか。皮肉な思いがその胸のうちを過ぎった。
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