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  センロノハテニ 作者:日比谷碌樹
第一部
第十四話 求婚
 
 いつまで経ってもジード様の腕が解かれる気配はなかった。あたしは身をよじり、どうにか片言を掻き集め、搾り出した。
「苦しい。離す、お願い」
 それでも彼はあたしから離れようとしない。なにか考え込んでいるのかもしれない。そのうち、静かに囁くのが聞こえてきた。
「離したくない。……お前が好きなんだ、ミハル」
 短いセンテンスだ。でも動詞にあたる「ライア」の意味がわからない。

 ただ、それは、ひどくやさしい響きだった。

 心臓が鳴った。なにを言われたのかもわからないのに。
 ていうか、あたしはこの人にされたことがショックのあまり、このお屋敷を出たんじゃなかったっけ。
 「使い捨て」のメイド。そういう扱いをされたんだと思った。……でも、本当にそうなんだろうか。
 それになぜ、あたしはそのことがそこまでショックだったんだろう。
「この間は……すまなかった」
 これはわかった。謝ってくれているんだ。不思議なほど素直にあたしはその言葉を受け入れていた。
「ただ、いきおいに流されてのことじゃない。遊びのつもりもない。……私は、心からお前を愛してる。そのことを知っておいて欲しい」
 彼はあたしから離れ、寝台の脇に片膝をついた。そして真っ直ぐにあたしを見つめた。
「私はイグノディアス神と契約を交わしている。だからあと一年は貞節を守らなければならない。その間はお前に触れることはできないが……」
 そこで言葉をいったん切ると息を吸い込み、さらに続けた。瞳と頬が熱を帯びていた。
「一年後にもあらためて言うつもりだが、いま告げておく。──結婚してくれ。私と」
 あたしは目を瞬かせた。
 知らない単語だ、と思った。「マリッサ・イデス・トア」。なにかをして欲しいという構文。でもマリッサってどういう意味だっけか。
 戸惑いが顔に出たらしい。ジード様は少し淋しげに微笑んだ。それからあたしの右手を取ると、まるで騎士かなにかみたいに──いや、事実、もしかしたらそういう身分なのかもしれないけど──手の甲に接吻をした。
 あたしは真っ赤になった。十八年生きてきたけど、こんなことをされたのは生まれて初めてだ。
 そこへノックが鳴った。
「ジード様。ミハルの食事を届けにまいりました」
 少し舌足らずな喋り方。ピアだ。そう言えば、あたし、彼女にもなにも告げずに出て行っちゃったんだった。
 扉が開き、脚のついた平たいお盆を持ったピアが入ってきた。寝台の上のあたしを見て、素早くウインクを飛ばしてきた。よかった。どうやら怒ってはいないみたいだ。
 ジード様は立ち上がり、ピアの手からお盆を受け取ると退出を促した。ピアは興味深々にあたしを眺め、ふたたび意味ありげにウインクをしたあとすまして出て行った。ごめん。あとでちゃんと彼女にも謝りにいかなきゃ。
 だいたい、あたしどうしてこの部屋にいるんだろう。いまさらだけど、元のメイド部屋に戻るべきなんじゃないだろうか。パドマさんだって……そうだ、パドマさんにまだ会ってないんだ。あんなに親切にしてもらっておきながら、あたしって相当な忘恩の輩だ。
 急いでベッドから降りようとしたあたしをジード様が制した。
「出て行く必要はない。ここにいなさい」
 ここにいろ。そう言われても、戸惑うばかりだ。一介の使用人が、跡継ぎの――長男ならそうなんだろう。多分――ご子息の部屋で、あまつさえそのベッドまで奪っているのって、やっぱりヘンなんじゃ……。
「パドマなら気にしなくていい。ちゃんと話はしてある。それより、食事をしなければな」
 彼は、ピアから受け取ったお盆を、あたしの前に置いた。短い脚がついているので、簡易テーブルみたいな感じだ。
「エズラ粥だ。くせは強いが精がつくし消化もいい。薬だと思って食べなさい」
 深めの壷みたいなお皿の蓋を取る。中には山吹色のスープと、なにかお米みたいなものが沈んでいるのが見えた。リゾットとか、スープ粥みたいなものらしい。ただ、とんでもない薬草臭がした。
 ジード様はスプーンをつかむと、一口分のお粥をすくい上げた。そしてそれをあたしの口元に運んだ。
 ──って、いや、自分で食べれますけど! あたしは真っ赤になり、慌てて彼の手からスプーンを奪い取ろうともがいた。でも彼はそれを許さない。赤ちゃんにでも聞かせるみたいな口調で、こんなことを言われてしまった。
「いいから、ほら、口を開けて。冷めてしまうぞ」
 あたしは抵抗をあきらめた。もうこうなったら自棄(やけ)だ。どうせここは日本じゃない。誰にも知られるわけじゃない、と開き直ることにした。
 おずおずと口を開ける。ぷん、と強い青臭さが漂う。それに薬の匂い。

 ……強烈な味だ。

 多分、病人食なんだろう。それとも薬膳とか。なんとなく美容にもよさそうだし、東京でなら意外とうけるかもしれない。なんとか飲み込み、無理に笑ってみせた。
「ロ……ロジー」
 ジード様は苦笑した。おいしい、という感想が嘘だとばれたらしい。
「私も子どもの頃はよく食べさせられたが、厭で仕方なかった。だが効き目はあるんだ。それに、これを全部食べたら、デザートはお前の好きなゾブリッカだ」
 十五分ほどかけてあたしはどうにか完食した。ゴブレットの水で後味を流す。ジード様は、もうひとつのお皿の蓋を取った。あたしは目を輝かせた。
「ゾ、ゾ……ブリッカ。好き(フィオ)甘い(ソモナ)
 彼の顔がほころんだ。そうして、デザート用のスプーンに持ち替え、食べさせてくれる。さっきの薬膳粥のあとだけにめちゃくちゃおいしく感じられた。
 あらかた食べ終える頃、ジード様はじっとあたしの口元を見た。ゾブリッカのソースでもついているのかもしれない。指で拭おうとするのを遮られ、囁かれた。その声はほんの少しかすれていた。
「……そのままでいろ。取ってやるから」
 なぜか身動きできなかった。彼は、甘いソースにまみれたあたしの唇に、そっと舌を這わせた。
 ものすごくやわらかくてやさしい、小さな生きものみたいな舌。唇や、その周辺を、時間をかけて念入りに舐め回していく。触れられた瞬間、電流が走り、それから……力が……抜けてしまう。
 いつの間にか、唇の中に――口の中に舌が入り込んできていた。あたしは抗わず、貪られるままに任せた。
 頭の芯が霞む。
 指先がしびれる。
 高校の時につきあっていた男の子と、キスくらいはしたことがある。でも、ジード様のこのキスは……そんなのとはもう、次元が違った。
 ものすごく気持ちいい。キスってこんなに、身体中がとろけそうになるほど、気持ちいいものだったの?
 苦しげな吐息が聞こえてきた。その一方で、キスはどんどん激しさを増していく。
 抵抗なんてできない。
 やめないでほしい。ずっとこうしていて。
 そんな顔を、あたしはしていたのかもしれない。どれほど時間が経ったのかわからないけれど、とにかくジード様は唇を離し、ひどく切なそうにあたしを見つめている。
「修道期間の意味がようやくわかった気がする。愛する(ひと)と添い遂げられないつらさが、まさかこれほどとは……」
 そう言うなり抱きしめられた。胸の鼓動がはっきりと伝わってきた。
 多分、あたしのドキドキも、同じぐらいはっきり伝わったに違いない。


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