第三部
◇番外編‐オルグ・ヴィネック卿の優雅な冒険 巻之七‐
それから会期が明けるまでの一週間を、ヴィネックは美沙紀とともに過ごした。夕刻を過ぎると決まって議事堂から姿を消す友人に、ゼスターなどは意味深に声を潜めて耳打ちしてきたものだ。――息抜きもほどほどにしとかないと、あとあと厄介だぞ、と。
忠告の真意はストレートに伝わってきた。だが、わかっていても、どうしようもないのだ。あの黒い瞳が、頼りなく揺れる眼差しが、心に絡みつき、離れてくれない。最終日を迎える頃には、決意を固めていた。すなわち、彼女を――美沙紀をロマドの都に連れて帰り、愛人として家を与え、生活の一切の面倒を看てやることを。
その美沙紀は、自分の置かれている状況をどう理解しているのか、宿を訪ねてくるヴィネックにすがるでもなく、むしろ常に距離を保とうとしているのがわかった。事実、あの夜からこっち、ヴィネックは一度も彼女に触れていない。あふれそうになる焦燥を堪え、彼は表面だけは紳士的に振舞った。そうしなければ、もしも無理強いしてしまったら、昼のうちに彼女は姿を消してしまうだろう。抱きたい気持ちは山々だったものの、美沙紀を失うかもしれない恐怖には変えられなかった。……初めての感情だった。
「ロマドは隣の大陸にあるでかい町だ。しけたオサイオンなんかとは違って、遊ぶとこには困らないぞ。落ち着いたら俺がいろいろ、案内してやる。ああ、まずは買い物だな。服も要るだろう? いつまでもその恰好じゃあな」
最後の夜、部屋に設えられた数少ない備品のひとつである椅子に跨り、背もたれの上にあごを乗せながら、ヴィネックは努めて明るい口調で喋り続けた。美沙紀はベッドの端に浅く腰を下ろし、どことなくぎこちない微笑を浮かべている。ほんの少し手を伸ばせば届くはずの距離だ。なのにそうは思えなかった。まるで、夜空に輝く名も知らぬ星を見上げているような、狂おしいほどの遠さをヴィネックは感じていた。
「ヴィニー、……」
美沙紀が、ジェスチャーを交えつつ、なにかを訴えている。ヴィネックの眉が歪む。ここから出る。でも、あなたと一緒には行けない。親切にしてくれてありがとう、感謝してる――そんな意思が伝わってきたからだ。ヴィネックは立ち上がっていた。強張った顔で美沙紀に近づき、その細い腕を乱暴につかんだ。こんなやり方では心を開いてはもらえないとわかっているのに。案の定、美沙紀は彼から目を逸らしてしまった。怯えているに違いない。
「出てくっていうのか? お前独りで? だめだ――絶対にだめだ。どこにも行かせるもんか、お前は……お前は俺のものだ、ミサキ、頼むから俺と一緒に来てくれ。悪いようにはしない、約束する。ミサキ、俺は――」
手首を握る手のひらに、ぐっと力が入った。ヴィネックは唾を飲み込んだ。そしてついに言っていた。
「……お前が好きだ」
恋。縁のないものと高をくくっていたはずの、未知の感情。イレイラという正妻を、ジードという嫡男を得たあとになって、彼は皮肉もその正体を知ってしまったのである。
ヴィネックと「誤って」結ばれてしまってから、美沙紀は昼夜、激しい自己嫌悪に襲われ続けた。
雅臣とは似ても似つかないはずの――笑顔だけは、ほんのわずかに彼の面影を彷彿とさせてくれるのだが――外国人と、いくら寝惚けていたからとはいえ、肉体の関係を持ってしまったのである。生涯、身体を赦す相手は、愛した叔父だけと心に誓っていたのに。
ヴィネックは宣言どおり美沙紀を地元に連れて帰ると、町外れの小さな家を与え、そこに住まわせた。自分のような、取り立てて美しくもない平凡な女のどこを彼はそこまで気に入ったのだろうと、美沙紀は不思議に思った。身なりの良さやそこはかとなく漂う気品からして、おそらく名家の跡取り息子かなにかなのだろうが、そういった身分の人間にありがちな気まぐれの寵愛とも考えにくい。なぜなら、折に触れヴィネックは、ひどく切なそうな眼差しを美沙紀に向けていたからだ。
――だからといって、受け入れるわけにはいかなかった。美沙紀はおのれに言い聞かせるようにして、腹をそっと撫でた。ここには、雅臣が授けてくれた大切な命が宿っている。たとえ独りでも、そしてどんな環境だろうと、必ず生んで育ててみせる。
だが、ロマドにやってきて数日が過ぎる頃だった。またも予期せぬ事態が彼女を襲ったのである。
明け方、美沙紀は、下腹部に鈍痛を覚えて目を覚ました。普段であればどうということもない、ありふれた、懐かしい痛みだった。不吉な予感に飛び起き、下着を見ると、ぽつりと赤い染みができていた。――彼女は我を忘れ、絶叫した。
隣のベッドで寝ていたヴィネックは、その悲鳴に眠りを破られ、なにごとかと美沙紀に駆け寄った。しかし、当の美沙紀の視界には、彼の姿は入っていなかった。彼女はひたすら腹を押さえ、叫び続けた。
「厭、厭ぁっ、行かないで、消えないで! お願い、お願い……」
号泣する彼女を、ヴィネックは動揺しつつも抱きしめ、その背をさすった。ふとシーツを見ると、鮮紅色の汚れが小さく浮き上がっている。彼はますます戸惑った。
「月のものが来たのか? どうしてそれくらいのことで、そんなに……」
生理が訪れたというただそれだけの現象に、なぜ美沙紀はここまで狼狽するのか。いまだに言葉もろくに交わせない関係を、この時ばかりは呪わしく思わずにいられなかった。
泣き喚いていた美沙紀は、やがて糸が切れたように気を失った。強張っていた身体が一気に弛緩する。血の気のないその顔を、ヴィネックはじっと見つめた。……彼女の心には、おそらく自分はいないのだろう。脈絡もないそんな想いが、なぜか胸のうちに苦く広がっていった。
出血はそれから一週間続き、やがて途絶えた。それはごく当たり前の月経となんら変わらないものだった。混乱と絶望が美沙紀をこっぴどく殴りつける。……まさか、あれは想像妊娠だったのだろうか? いや、そんなはずはない。産婦人科で確認もしている。それなのに、いったいどうして――。
いずれにせよ、雅臣の忘れ形見が消えてしまったという事実に変わりはないのだろう。なにをする気力も湧かず、カーテンを閉めた部屋の中で、美沙紀はただぼんやりと過ごす日々を送った。
その間、ヴィネックは屋敷に帰ることはせず、ずっと彼女のそばについていた。メイドが二人いるものの、言葉が通じない以上、美沙紀の気鬱を晴らす手助けにもあまりならないだろう。そうして十日が経った。
ある新月の真夜中のことだ。いつの間に出て行ったのか、美沙紀の姿が家から消えた。
「父上? お疲れ、ですか?」
心配そうな愛息子の声に、ヴィネックははっと顔を上げた。そして、自分がどこにいるのかを、あらためて思い出した。――帰ってきたのだ。ロマド市街の一等地に建つ自邸に――ウェス・ハーシュ邸に。
食堂には、母と妻、そして一人息子がそろって席に着いていた。中央での会議を終えて帰宅した当主は、だが夕食が始まってからというもの、一言たりと口を開かず、むっつりと押し黙ったままだった。その様子をいちばん気にしているのは、彼の帰りを心待ちにしていたジードのようで、愛くるしい大きな瞳をやや翳らせ、じっと父を見つめている。
「ああ……いや。そういうわけじゃない。坊主、ほら、来い」
ヴィネックはぎこちなくも笑顔を浮かべ、息子に向かって両手を広げてみせた。ジードは顔を輝かせて椅子から飛び降りると、無作法を咎める祖母の言葉も無視し、父の膝に飛び込んだ。絹にも似たやわらかな髪を梳いてやり、小突くように頬を撫でる。
――ジードも、イレイラも、俺の最愛の家族だ。こいつらのためなら、俺はなんだってできる。この気持ちは偽りでもなんでもない。……そうだ、血迷ってたんだな。俺ともあろう者が、あんな餓鬼みたいな小娘に――。
「ジード! 席に戻りなさい。お前はいずれ、このウェス・ハーシュ家を継ぐ身なのですよ。わがままは赦しません、席に着きなさい、ジード!」
厳格な声が飛んだ。女主人としての権限をいまだに手放そうとしないアウラ・エルリーネは、跡取りである孫息子の教育に異様なほどの執心ぶりを見せ、あれやこれやと口出しを欠かさない。
「いいじゃないですか、母上。こいつはまだほんの餓鬼なんだ。甘えたい盛りなんだろうし、少しくらい――」
ヴィネックの反論に、アウラの眉が釣り上がる。
「よくはありませんよ。子どもだろうと、けじめはきっちりしておかなければ。そういうところまでお前に似てしまったりしないようにね」
険のあるせりふに、食卓の空気が濁りを帯びたようだった。アウラはさらに声を張り上げた。
「そもそも、会期が明けてすぐに戻って来さえすれば、ジードだってここまで淋しがったりはしなかったでしょうに。どうせオサイオンで、感心しない遊びにでも耽っていたのでしょう、お前は。ウェス・ハーシュ家の家長であるという立場を、いったいどう考えているのやら」
「義母上――申し訳ありません。彼の素行については、私にも責任の一端があります。私が至らぬばかりに……」
そう言ったのはイレイラだ。菫色の瞳が曇り、磨き抜かれた美貌もどこかくすんで見える。だが、その謙虚なはずの態度は、なぜかヴィネックの気をこれ以上ないほど苛立たせた。
「余計なことを言うな、イレイラ! お前は俺の女房で、母親じゃあねぇだろ。俺がどこでなにをしようが、お前の知ったことじゃねぇ。母上、あなたもだ。この家の頭領が俺だというなら、いい加減、口を慎んでくれ。久しぶりに帰ってきて、なんだってこんな妙な雰囲気の中で飯を喰わなきゃならないんだ? もうたくさんだ、俺は――」
ヴィネックは口元を押さえた。そして乱暴にナプキンを外すと、テーブルの上に叩きつけた。先ほど想いを断ったばかりの美沙紀の顔が浮かんだ。彼はジードを膝から下ろすと、足音も荒々しく食堂を出て行った。
その夜、ヴィネックは、かつてないほどのいきおいでイレイラを抱いた。激情の底に潜んでいるものが純粋な愛情なのか、それとも単なる苛立ちに過ぎないのか、自分でもわからないまま、ただ言葉もなく相手を貪った。最初から最後までイレイラは従順で、いちどたりと夫に抗う素振りは見せなかった。――それがまた、彼の気に障った。
あいつは……ミサキはこうじゃなかった。俺に逆らうわけじゃないが、俺よりも貪欲なくらいで……いや、そうじゃない。そうじゃなくて、ひたすら熱っぽく気持ちをぶつけてくるみたいな――。
……けど、それなのに、呼んではくれなかったな。抱かれてる間は、俺の名前を、一遍だって。
気づけば美沙紀のことを考えていた。たった一晩愛し合っただけの彼女の顔が、瞼の裏にちらつき、自分を離してくれない。それはもはや呪いのようですらあった。
「……さっきは、悪かったな。言いがかりだった」
二度目を終え、軽い疲労とともにベッドに沈み込みながら、ぼそりとつぶやく。イレイラは髪をかき上げ、かすかに微苦笑した。
「疲れているんだろう。今日は早く就寝んだ方がいい。お休み、ヴィニー」
彼女はさっさとベッドを下り、浴室へ向かった。やがて聞こえてきた、湯を使う単調な音が、ヴィネックを眠りへと誘った。
ロマド郊外の別邸から消えた美沙紀の行方が知れたのは、この翌日のことだった。情報源はゼスターで、彼からの電話を受けるなり、ヴィネックはなにも考えずに屋敷を飛び出していた。
馬車を用意させて向かった先は、海沿いの鄙びた町、ソンクヒルだった。場所柄漁業が盛んなこの一帯には、なかば自治区めいた結束感が漂っており、従って余所者を受け入れたりなど滅多にしない。そのことは、ロドアという大陸全体を取り仕切る若き領主として、ヴィネックも聞き及んでいた。だからこそ、最初は得心がいかなかった。
――ソンクヒルに、ミサキが……あいつがいるだって? 本当なのか、そいつは。
ウェス・ハーシュ家の伝令室にかかってきた一本の電話に、ヴィネックは顔色を変えた。かけてきたのは、先日の会議の折にも同席していた旧友、ゼスターだ。彼はこう続けた。
『ブローデンスの街にいる間中、お前が変わった風体の小娘のもとに通いつめてたってのはちょっとした噂話になってるんだぞ。黒い髪で黒い瞳の、十五になるかならないかってくらいの女なんだろ? 時期も合うし、多分、間違いない。うちに出入りの商人から聞いたってだけだがな』
ヴィネックの唇が震えた。市街地を捜し尽くしたものの、結局彼女を見つけ出すことは叶わず、あきらめた――つもりだった。なのに、いまこうして美沙紀の居場所を聞かされ、興奮に叫び出したいほど胸が熱く疼いている自分を、彼はふたたび、厭というほど自覚した。
『ただな、ソンクヒルってのは港町だけあってガラの悪さで有名な場所なんだろ。人口の七割近くが男だっていうしな、もしかして……好からぬ境遇に置かれてるってことも考えられるかと思ってさ。お節介だったら、忘れてくれていいが』
お前には、あの「高貴なる百合」がちゃんといるんだしな。そう付け足すと、ゼスターは電話を切った。心の中で友人への謝意を短く告げたあと、ヴィネックは祖父の代から仕えてくれている老馬丁を直ちに呼びつけた。
港町に猫が多いっていうのは、どこの国も変わらないんだな。
美沙紀は微笑を浮かべながら、足元にじゃれつく数匹の仔猫たちに餌を投げてやった。カタクチイワシによく似た銀色の小魚で、不漁の日でもこれだけは一定量が揚がってくるらしい。
――あの美しい、気さくな青年のもとを離れようと思った理由は実のところなんだったのか。
ぼんやりと思いをめぐらしつつ、吹きつける潮風に乱された髪を、彼女は気だるげに押さえた。そういえば、この真っ黒な髪の毛――よほどめずらしいのかそれとも不吉の象徴なのか、辿り着いたこのソンクヒルの町で最初に出会った老人は、納屋で眠り込んでいた自分の姿に、初めは怯えたような表情すら見せたものだ。
彼は独り暮らしで、身内もいない。そうした気楽さもあってか、見るからに事情のありそうなこの異国の娘を敢えて追い出そうとはしなかった。いたいのなら好きなだけいればいい。むろん言葉はわからなかったが、気持ちは伝わってきた。美沙紀は好意に甘え、この小屋に居ついた。やがて簡単な家事を手伝うようになり、穏やかな日々が淡々と過ぎていった。
「ミサキ!」
しわがれた声が聞こえた。小屋の外に出ていた美沙紀に、老人は眉をしかめて近づいてきた。
「日のあるうちは外に出るなと言っただろう。お前のなりはそれでなくても人目を惹くんだ。この町には若い女が少ないからな、悪い連中に目をつけられたらどうする」
老人は、その小柄な身体で美沙紀を庇うようにし、彼女を連れて家の中へと引っ込んだ。美沙紀はおとなしく彼に従った。
だが、老人の抱く不安は、この数日後に現実のものとなったのである。
いつになく海の凪いだ、晴れた日の夕暮れだった。老人は、用足しのために午後から家を空けており、小屋にいるのは美沙紀ただ一人。その隙を、「彼ら」は見逃さなかった。
「へぇ……噂どおり、まるでイカ墨みてぇに真っ黒な目ん玉してやがる。黒い髪ってのはたまにいるが、こりゃあ相当めずらしいぞ。おい、お前、いったいどっから来やがったんだ」
押しかけてきたのは総勢五人。中にはまだ十四、五ぐらいの少年も交じっている。このソンクヒルを根城にする、地元の愚連隊の連中だ。
リーダー格らしい、ひときわ体格のいい二十歳前後の男が、怯えて納屋に逃れようとした美沙紀の髪を乱暴につかみ、じろじろと全身を見回した。その無遠慮で、執拗で、棘のある視線に、美沙紀はこれ以上ないほど身体を強張らせ、ありったけの勇気をふりしぼって相手を睨みつけた。
「ははっ、威嚇してやがる! おい、こいつ、唖なんだっけか? 口が利けねぇらしいな」
「喋れねぇんじゃなくて、大陸共通語を知らねぇとかって聞いたぜ。なんにしてもまともじゃねぇんだろ。この髪といい目の色といい、ひょっとして片端なのかもしれねぇな。どっから来たにしても、どうせ身内なんざいねぇさ。あのお人好しのジジィぐらいだろ」
男たちは下卑た笑い声を上げた。そのうちの一人が、美沙紀の胸元に手を伸ばし、服の上から小ぶりの乳房を荒々しく捏ね回す。嫌悪のあまり、美沙紀の口元からかすれた悲鳴が漏れた。
「い、厭ぁっ! 離して、やめてぇ……っ」
耳なじみのない言葉に、彼らの嗜虐性がいっそう刺激される。手の中の玩具。文字どおり、玩ぶだけ玩んで、飽きたら棄ててしまえばいい、女という名の人形。俺が先だ、そんな獣じみたせりふを吐きながら、数人がかりで美沙紀の身体を床の上に押し倒し、服を剥いでいく。じきに、生唾を飲み込むいくつもの露骨な音が聞こえてきた。
「早く済ませろよ、あとが支えてんだからな」
「手でも口でも使わせりゃいいだろ。……俺は十日ぶりなんだよ、悪いけどな、たっぷり味わわせてもらう――」
美沙紀を組み敷いたままズボンを脱ごうとしていた男の動きが、唐突に止まった。
小屋の入り口である粗末なドアが、恐ろしい音とともに突如、破られたからだった。
ソンクヒルに着くなり、ヴィネックは片っ端から村民を捕まえ、美沙紀らしき娘を知らないか訊ねて回った。身分を明かすまでもなく、問われた誰もが彼の質問にあっさりと答えてくれた。鬼気迫るその表情に気圧されたせいもあるだろう。おかげで、ほんの半刻(一時間)足らずのうちに、最近異国の娘が住みついたと噂の、独り暮らしの老人の家に辿り着くことができた。
教えられた小屋に赴くと、そこにはちょうど外出から戻ってきたらしい老人の姿があった。逸る心を押さえつけ、美沙紀について切り出そうとした時だった。家の中から、絹を裂くような女の悲鳴が聞こえてきたのである。
ヴィネックは我を忘れた。間違いない――あれは美沙紀だ。さらには、不穏な物音、若い男たちの声までがはっきりと聞き取れた。中でなにが行われようとしているか、考えなくともすぐにわかった。
彼はドアを蹴り飛ばし、室内になだれ込んだ。……そして、そこから、記憶がない。
気づくと、周囲には、顔面を血まみれにし、低く呻き続ける複数の男たちが倒れていた。かろうじて殺しはしなかったらしい。もっとも、そいつらが死のうが生きようが、そんなことはどうでもよかった。ヴィネックは、真っ青な顔で震えている美沙紀を引き寄せ、力の限り抱きしめた。ヴィニー――耳元で名を呼ぶ、小さな声。知らぬ間に、涙がこぼれていた。
「……無事か? すまなかったな、もう少し早く着いていれば……」
ヴィネックの眉間に深いしわが寄る。ことが起きる前だったとはいえ、こうして無残にも服を奪われたその恐怖がどれほどのものか、男である自分にも想像に難くない。が、美沙紀は健気に微笑を見せ、首を横に振っている。
「ヴィニー、あ、あり……がとう」
ヴィネックは瞠目した。いつの間に覚えたのか、それはまぎれもなく大陸共通語での謝辞だった。彼は絶句し、もういちど、美沙紀の身体を掻き抱いた。そしてつぶやいた――独り言のように。
「……礼を言うのは……俺の方だ」
離れることなどできない。彼はあらためてそう思った。反論する暇も与えず美沙紀を馬車に乗せ、その日のうちにソンクヒルを発った。そうしてロマド市内へと――少し前まで彼女と暮らしていた別邸へと戻った。
美沙紀は日に日にヴィネックに対し、心を開いていった。言葉はあまり上達しなかったものの、ヴィネックにしてみればそれは大した問題ではなかった。彼女がどこからやって来た娘だろうと、こうして自分のそばにいてくれるのなら、ほかにはなにも望まない。
身ごもったことがわかったのは、それから二ヵ月後のことだった。
その日、手早く朝食を済ませたあと、自室にイレイラが戻ってくるのを待って、ヴィネックは話を切り出した。
「所用があってな。しばらく家を空ける。その間、ジードを頼む」
美沙紀が臨月を迎え、いつ生まれてもおかしくない状態になっていたのだ。子どもは間違いなく自分の子だろう。イレイラという正妻を前にし、それでもヴィネックは、誤魔化しようのない喜びが胸に込み上げるのを、罪悪感とともにひしひしと感じていた。
「わかった。すぐに出かけるのか」
イレイラはライティングデスクにもたれかかり、いつもと変わらぬ理性的な眼差しをこちらに向けている。――と、少なくともヴィネックは思った。この時までは。
「ああ、すまん。急ぐんだ」
とくに手荷物も持たず部屋を出ようとするヴィネックの背に、イレイラの静かな一言が、鋭く投げつけられた。
「――要塞島で拾った仔犬に、ずいぶん懐かれたらしいな。所用というのは、その雌犬絡みなのか」
ヴィネックは足を止め、振り返った。口を開きかけたものの、相応しい言葉など出てくるはずもなく、彼はただ黙っておのれの妻を、「高貴なる百合」とも讃えられるイレイラという女性を見つめた。
彼女は眉ひとつ動かさず、書簡をめくり続けている。そして夫を見ようともせず、こう言い放った。
「そこに立っていられると気が散る。行くのならさっさと行ってくれ」
「…………」
絶句したまま、ヴィネックは部屋を出、扉を閉めた。
この数日後、美沙紀は黒髪の男児を産み落とした。女の子のようにも見える、繊細な顔立ちの、美しい赤ん坊。ヴィネックが与えた名は「アドリオ」――「橋」という意味を持つ古い大陸の言葉である。異国からやってきた母と、ヴィネックの生まれ育ったこの国を結ぶ絆になればいい。そんな願いを込めてつけた名前だった。
願いの成就を、ヴィネックは信じて疑わなかった。一年後、美沙紀が自分と息子を置いて、忽然と姿を消すまでは。
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