あたしはベッドの中でゆっくりと寝返りをうった。真夏だというのにひどく寒い。お母さんの呆れたような声が聞こえる。ほら、そんな恰好で寝たりするからよ。もう大学生なんだから、自己管理くらいきちんとしなさい。
風邪をひいてしまったんだ。せっかく三日間のお休みをもらって帰省したっていうのに。あーあ、がっかり。これじゃ友達と海にも行けやしない。
また元気になったら行けばいいじゃないの。そんな言葉にあたしは頬を膨らませた。だって、治る頃には休みも夏も終わってるよ。
休暇なんてあっという間だ。帰ったら授業とバイト三昧の日々が待っている。東京の夏はまだしばらくは怨嗟のように暑いだろう。
未明、おかゆ作ったから、起きて食べなさい。起きれるんでしょう。
はあい。言われるまま、あたしはのそのそと上体を起こした。
ぼやけた視界が少しずつ鮮明になっていく。
目の前に、まさにほんの数センチってところに、ジード様の顔があった。
唇が、触れそうになった。あたしははっきりと目を見開き、寸前で悲鳴を上げた。
「い……厭ぁぁぁっ」
我に返ったのか、彼は弾かれたように飛び退った。首筋まで真っ赤になってうろたえている――ていうか、ここどこ? なんで……なんでこの人がいるの?
顔が青ざめていく。いまのは夢だったんだ。お母さんの声がまだ耳に残っているっていうのに……こっちが現実だったんだ。
さらなる違和感に気づき、あたしはあたふたと周囲を見回した。ここは元いた使用人部屋じゃない。それより全然豪華で、しかもなんか見覚えが……もしかしてここって──。
「私の部屋だ」
イニ・ペルセス。そうだ、この部屋は、お茶を用意しになんどか訪れた、ジード様の自室だ。
ってことは、あたし、またこのお屋敷に戻ってきちゃったの? いったい、どうして……。
「気分はどうだ? 熱は多少は下がったようだが。すぐに食事を用意させよう。スープなら食べられるだろう」
「あ……え……」
気分は? と訊かれたことぐらいはわかったけれど、まともな返事なんてできるはずもない。それに、そうだ、あの親切な二人、ファロダさんとローニャさんは? どうしてあたしがここのメイドだってわかったんだろう。ここに連れてきたのも彼らなんだろうか。
考えをめぐらせていると、ノックの音が聞こえ、続いて誰かが入ってきた。
「よう、坊主。お姫様の具合はどうだ」
目が点になった。低くて渋くて、ほんのちょっとだけ甘ったるい、それはあまりに聞き覚えのある声だった。
灰色の長髪。緑がかった碧眼。引き締まったあご。立て襟のきちんとした室内着をまとい、不精ひげも剃ってはいるけれど、間違いない。あたしは唖然とし、日本語でつぶやいた。
「ファ……ファロダさん? なんでここに……その格好、どうして……」
さらにジード様の言葉が追い討ちをかけた。
「ファロダ? それが遊興用の仮名ですか、父上。羽目を外されるのもほどほどにしてくださいとあれほど申し上げているのに……だいたい、なぜ船なんかでこそこそと帰郷なさったんです。会議が終了すれば特別便で直帰できるというのに」
あたしは完全に言葉を失くした。「ユハウ」。意味は──お父さん。誰が? ファロダさんが? ……ジード様の? だって、いくらなんでも年齢が……若すぎなんじゃ?
「そうがなりたてるなって、坊主。特別便で直帰だ? それがぞっとしねえからわざわざ会期を切り上げて抜け出して来たんじゃねえか。まぁ、おかげで、色々とおもしろい思いもできたしな」
ファロダさんは言うなりあたしを抱き寄せた。ジード様の額に青筋が浮かぶ。
「父上! 戯れもいい加減になさってください。ミハルは病人なんです。その手をお離しなさい」
早口のために内容はまるでわからなかった。でも、ひどく険のある口調だ。
「お前に指図される覚えはねえな。ミハルはパドマが預かってるメイドなんだろう? お前のものってわけじゃなし。俺はこいつが気に入ったんだ。なにしろ新鮮だからな」
ファロダさんはなぜか挑発的な調子で返事をした。あたしの肩を抱く腕に力がこもる。
「俺にはこいつに教えてやれることがたくさんある、お前と違ってな。なあ、ミハル。いっそ俺付きの専属メイドにならないか。言葉なんてわからなくていい。ただそばにいてくれりゃいいんだ。──あいつみたいに」
言われたせりふのほとんどは聴き取れなかった。その上どういうつもりなのか、ファロダさんは、あたしの顔に自分の顔を素早く近づけてきた。あたしは固まった。混乱のあまり身動きができない。
寸でのところで、あたしはものすごい力で引っ張られ、ジード様に抱きすくめられていた。彼は恐ろしい剣幕で怒鳴った。
「ミハルに触れるな! これ以上は、たとえ実の父親でも赦さない」
ファロダさんは不敵な笑みを浮かべている。あたしはもう、なにがなんだか、パニックに近い状態だ。そもそもファロダさんが本気であたしに迫るはずがない。彼にはローニャさんっていうれっきとした恋人がいるんだから。
じゃあ、いまの行為はなんなんだろう。なんのためにあんなことを?
「……はぁん。なるほどなぁ……こりゃあ、厄介なことだな」
小さな声でつぶやくなり、彼は寝台から離れ、部屋を出て行った。ジード様は痛いくらいの力を込めてあたしを抱きしめている。……苦しい。あたしは思わずもがいた。若干、緩くはなったものの、それからしばらくの間は離してはもらえなかった。
オルグ・ジードの実父にしてウェス・ハーシュ家の現当主、オルグ・ヴィネック・シオン・ウェス・ハーシュ卿は、息子の部屋を出、自室に向かう廊下の道すがら、こう独りごちていた。
──初恋か。だが、あと一年の修道期間があることを決して忘れるなよ、坊主。
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