「ファロダ! こんなとこにいたのね、まったく、営業妨害もいいとこだわよ」
あたしたちは同時に振り返った。そこに立っていたのは、さっきのお店で見かけたオーナーらしきお姐さんだ。年齢不詳系の美人で、オレンジ色のふわふわした髪と紫色の派手なシャドウ、同じく紫色の、やたらと露出度の高いドレスがかなり印象的。見てるとなんだか目がチカチカしてきそうだ。
彼女はあたしに真っ直ぐ近づいてきた。
「やっぱり、そうよね。この臙脂のドレスって、あのウェス・ハーシュ家の女官服でしょ。ねぇ、あんたどうして『春の街』なんかにいたわけ? あそこん家って規律とか超煩いって聞いたけど」
そう言いながらも、あたしの全身をじろじろと眺め回している。そのうち彼女は妙に感心したような口調で付け足した。
「それほど餓鬼ってわけでもなさそうよね……年齢はいくつなの? 外国語喋ってたけどさ、どこの出身よ。よっぽど辺鄙なとこなの? 大陸共通語が喋れないなんて。ひょっとして、離島からの放浪民とか?」
「そう質問責めにするな、ローニャ。こいつはどうもごく最近この町に来たばかりらしいんだ。言葉はまだ片言程度しか理解できない。どういう経緯でウェス・ハーシュ家に引き取られたのかは謎だがな」
ファロダ。とりあえず、それがこの男の人の名前なのか。あたしは二人のやり取りにじっと聴き入っていた。
「ふうん……ま、いいわ。あたしには関係ない世界の話だし。それより、この子、あの屋敷に送ってかないと。大方、なんかのお使いの途中で道に迷ったんじゃない。ね、あんた、ウェス・ハーシュ家まで送り届けてあげるから、心配しなくてもいいわよ」
彼女はそう言いながらあたしの手をつかんだ。ウェス・ハーシュと聞いてあたしは硬直した。そこから逃げてきたっていうのに、戻るなんて冗談じゃない。それに明日になれば駅も開くかもしれないんだし。あたしはやみくもに首を振り、抵抗した。
「だめ、帰る、厭。家、出た。帰る、だめ」
「ええ?」
お姐さんは驚いたようにあたしを見つめた。それから怪訝そうにファロダさんを見上げる。
「ちょっと、どういうことなのよ。帰るのが厭って……この子、もしかして家出人ってやつなの?」
ファロダさんは両手を広げてみせた。
「さぁなぁ。ま、帰るのが厭って言ってる以上、無理に連れてっても仕方ねぇだろ。そういうわけだ、ローニャ、すまんが今夜一晩はこいつをお前さんの塒に泊めてやってくれないか。このまんま放っぽり出したら、夜が明ける頃にゃあ間違いなく孕み腹だぜ。そうなったら寝覚めも悪いだろ」
なにを言われたのか、彼女はなぜか顔をしかめた。あたしの今夜の身の振り方を相談してくれているような話しぶりに聞こえ、あたしはなんとなくすがるような眼差しでお姐さんを見つめていた。
彼女はしばらく黙り込んだあとで口を開いた。
「仕方ないわね。言っとくけど、ベッドはあたしが使うわよ。あんたは床、それでもいいのね」
ファロダさんは満面の笑みを浮かべ、あたしの頭を軽く撫でた。
飲み屋が林立している通りから十分ほど裏道を歩くと、石造りのアパートのような家々が姿を見せる。お姐さん──どうやらローニャさんというらしい──は、その中の一軒にあたしとファロダさんを連れて行き、ドアを開けた。鍵はかかっていないみたいだった。
「ほら、入って。寒いんだから早くね」
あたしは押し込まれるようにして室内に足を踏み入れた。中は真っ暗だ。
数日暮らしてわかったことだけど、汽車とか電話とかの一部の例外を除き、この世界では生活インフラはほとんど整っていないみたいで、当然、一般家庭に引かれているような水道も電気もない(ガス灯らしき設備はあったから、それだけは例外なのかもしれないけれど)。ローニャさんは、部屋に入るなり、月明かりを頼りにマッチを擦ってランプに火を入れた。
八畳くらいの広さの室内が浮かび上がる。唐草模様に似た意匠の描かれた絨毯の上に、ソファ、テーブル、椅子が二客。それにキッチンや食料庫。簡素な造りの暖炉。キョロキョロとものめずらしげに部屋中を見回しているあたしの腕を彼女は引っ張った。
「こっちよ。おいで」
連れて行かれた先はどうやら寝室らしい。木のベッドに箪笥、ドレッサー、衣装箱が所狭しと置かれている。ローニャさんは枕を持ち上げ、軽く振るってからあたしを促すように見た。
「ほら、ここで寝なさい。その服は脱いだほうが良さそうね、しわになるし、第一そんな格好で寝たら肩が凝っちまう」
彼女は噛んで含めるように言った。
「脱ぐの。服。わかる? 脱いで寝るのよ」
ジェスチャーのおかげで意図は通じた。あたしは肯いた。でも、これってローニャさんの使うはずのベッドなんじゃ? そう思っていると彼女はさらに付け足した。
「あたしは向こうで寝るから、あんたは遠慮なくここを使いなさい。もう十刻半(午前一時)よ、子どもは寝る時間なんだからね」
彼女はなんとなく意味深な表情を浮かべている。えーと、つまり……頬がうっすら赤く染まるのがわかった。言っていることの半分も理解できなかった。けど要するに、きっとファロダさんとこのローニャさんは恋人同士なんだろう。それならなおさらベッドを占領するのは申し訳ない気がしたけど、彼女は躊躇うあたしにはかまうことなく、さっさと部屋を出て行ってしまった。
あたしはおとなしく服を脱ぎ、ベッドに潜り込んだ。ボアのような独特の感触の分厚い毛布がとても暖かい。
……はずだったのに。
「くしゅん」
くしゃみが出た。頭が痛い。……寒い。
見る見るうちに、悪寒が全身に広がった。
ノーゼスとの電話を切るとすぐにジードは屋敷を出、「春の街」に向かった。この界隈には、公認とはいえ売春宿も何軒か存在している。のみならず、認められてもいない、いわゆるもぐりの店もなかにはあるとのもっぱらの噂だ。そんなところにもしもミハルが迷い込みでもしたらと思っただけで、気がおかしくなりそうだった。
──名誉あるウェス・ハーシュ家の次期当主ともあろうお方が、そんな穢れた場所へ自ら赴かれるなんて。お止めなさいませ、駅舎長や警吏官に任せておけばよろしいじゃありませんか。
パドマの必死の牽制を彼は振り切った。じっとなどしてはいられない。蛇を模った紋章のついたマントにケープという外出着姿で、片っ端から酒場のドアを叩き、ミハルらしき外国人の若い娘が来なかったかを訊ねて回る。空振りが十軒ほど続いた。それでも彼はあきらめなかった。
しかし、あらかたの店を調べ尽くしても、ミハルの行方に関する手がかりは得られなかった。ジードはいったん引き返し、駅舎近くに存在する警吏庁舎へと赴いた。通常の夜とは異なり、庁舎内はいやにざわついていた。理由はすぐにわかった。
「ごろつきどもが酒場で暴れてましてね。のびてるのも含めてしょっ引いて来たとこなんです。こんな派手なのは久方ぶりですがね」
警吏長のギズレは苦笑雑じりにそう答えた。拘置監舎では五、六名のならず者が縄につながれているらしい。ジードは手短に訊ねた。
「それよりも、外国人の若い娘を見なかったか? 十五、六歳くらいの、華奢で可憐な娘だ。髪は黒に近いこげ茶で、瞳は黒。おそらく当家の女官服を着ているんじゃないかと思うんだが」
ギズレは首をひねった。
「若い娘? ううん……おりませんでしたよ。ウェス・ハーシュ家の新しいメイドかなにかで?」
「ああ。事情があって預かっているんだが、誤解から屋敷を出て行ってしまってね。言葉が不自由なので、おかしな場所に迷い込みでもしたら厄介だ。すまないが手を貸してもらえないか」
警吏長の顔が曇る。いかにウェス・ハーシュ家の次期当主の頼みとはいえ、たかがメイドの捜索などに人手を割くというのはどうにもいただけない。しかし断るわけにもいかず、彼は露骨に渋りながらも結局肯いた。
ジードは、ギズレから借り受けた三名の警吏官に、ミハルの似顔絵や特徴を書き込んだ紙を渡すと、庁舎を出た。
一方その頃、ロナジア宅では、メインルームのソファに腰掛けた女主人が、数ヶ月ぶりに再会した彼女の情人の首にしなやかな腕を巻きつけ、キスをせがんでいるところだった。
「おい、あのなぁ、すぐ隣にはミハルが寝てるんだぞ。妙な物音がしたら起きちまうだろうが」
ファロダは呆れ気味に彼女を窘めた。しかしロナジアはあきらめない。
「いいじゃないの、物音を立てないようにすればいいのよ。こんなに寒い夜には、人肌であっため合うのがいちばんよ。そうでしょ」
彼女はファロダの頬や耳朶に唇を押し当て、しきりに身体をこすり付けている。
「会いたかった。……抱いてよ、お願い」
ロナジアは蠱惑的に囁いた。こうなるとファロダも男である。退けるわけにもいかず、なんとなくそのグラマラスな肢体に腕を回し、ソファの上に押し倒す。女の頬が歓喜に染まる。唇を合わせ、舌を絡め合わせる。
「ああ、ファロダ……好きよ、あたしの可愛い人」
彼女は切なげに眉を寄せて男を見つめた。ファロダのごつごつとした右手が、女の穿いている紫色のドレスの裾をたくし上げる。次第に二人の息遣いが荒くなる。
その時、ドアが乱暴に叩かれた。閂を下ろしてあるので外から侵入はできない。が、相手によっては扉ごと破られる可能性もある。それほど頑丈な造りではないのだ。ロナジアは露骨に舌打ちをした。──せっかく盛り上がってきたところだっていうのに!
彼女は不承不承起き上がり、ガウンを羽織って玄関へ向かった。覗き窓から窺うと、制服姿の若そうな警吏官が立っているのが見える。ロナジアはドアを開けずに応対した。
「なんなのよ、こんな夜中に! 迷惑だったらないわ。大した用事じゃなかったら水ぶっかけるわよ」
警吏官は咳払いをし、おもむろに口を開いた。
「訊ねたいことがある。当夜、この辺りに、外国人の若い娘が来なかったか? 或いはその姿をどこかで目にしなかったか」
ロナジアはぽかんと口を開けた。外国人の……若い娘? それってまるで──。
「ウェス・ハーシュ家のメイド嬢とのことだ。次期当主、オルグ・ジード卿の言によると、歳の頃は十五、六。こげ茶の髪に黒い瞳、小柄で痩身、外国語を話す可憐な娘らしい。心当たりはないかね」
彼女は思わず背後を振り返った。間違いない。奥の部屋で休ませているあの娘のことだ。
けれども、彼女は屋敷に戻るのを頑なに拒否していた。なにがあったのかは知らないが、心的苦痛を抱えていることに疑いはない。ロナジアは唾を飲み込み、そ知らぬふりを装って答えた。
「……知らないわねぇ。この界隈じゃ見た覚えがないわ。どっか、もっと遠くまで行っちゃったんじゃない。それにしてもご苦労なことね、お兄さん。たかが一人のメイドを捜すためにわざわざ駆り出されたってわけ、こんな夜中に」
警吏官は微苦笑した。
「なんにしろウェス・ハーシュ家が絡んでいるからな。ヴィネックの町は実質、あの一族の持ちもののようなものだ、その名が示すようにな。まあいい、知らぬのならこれ以上用はない。邪魔したな」
そう言い残すと彼は踵を返した。ロナジアは全身で息を吐き出した。ソファへ戻ろうとして振り向いた途端、彼女は短い悲鳴を上げた。すぐ後ろにファロダが立っていたのだ。
「ああ驚いた、なによ、黙ってそんなとこにいるなんて」
ファロダはにこりともせず切り出した。
「いまのは警吏官か? ミハルを捜しにきたっていうのか、こんなところまで」
「ええ、そうみたいよ。大した話よねぇ、名家っていうのはいちいちやることがオーバーだわ。この辺じゃあ失踪する人間なんてそれこそいくらでもいるっていうのにさ」
ロナジアは皮肉めいた笑みを浮かべた。ファロダはなにが引っかかるのか黙り込み、ぶつぶつと独りごとを繰り返している。
「あの世間体を重んじる説教魔のパドマが、メイド一人のことでここまでするとは考えにくいな。レンドルスにしても同様だ。……とすると仕切っているのはやはりあいつか。それにしても……」
彼はちらりと奥の間を見やった。
「あの娘、いったい何者なんだ?」
謎めいた出自もさることながら、ウェス・ハーシュ家の次期当主、オルグ・ジードにここまでさせるとは。ファロダは思案げにあごを撫でた。すっかり気が殺がれてしまったらしいロナジアの方は、ふと気になったのか寝室へ足を運んだ。じきに彼女は血相を変えて飛んできた。
「どうしよう、ねぇファロダ、あの子病気みたい。ひどい熱よ」
ファロダは眉を顰めた。
「なんだと?」
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