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  センロノハテニ 作者:日比谷碌樹
第三部
第三十二話 フラれたの?
 

 婚約は――なかったことにしてくれ。

 それだけを告げると、ジード様は、言葉もなくその場に立ち尽くすあたしを置き去りに、さっさと階段を降りていってしまった。……あたしは、ばかみたいに口を開けっぱなしにして、彼の後ろ姿を見送った。

 ――自分がものすごいショックを受けているということに、やっと気づいた。

「な……なんで?」
 無意識のうちに、そんなせりふが転がり出た。否応もなく、いまさっきのシーンが頭の中で再現される。
 沈痛な面持ちのジード様に、話があると切り出され……この踊り場みたいなところに連れてこられて……そうして言われたんだ。結婚を考え直したい。婚約は、なかったことにしてくれ、って。
 ……つまり、えーと、要するに、あたし――フラれたの?
「ミハル!」
 どこか遠いところから名前を呼ばれた。ぼんやり首をねじると、反対側の廊下の端っこから、アドリオ様が駆けてくるのが見えた。近寄ってきた彼の顔色がいきなり変わった。ひどく険のある、強張った表情をしている。なにかあったんだろうか。
「ミハル、どうした? 兄上と話してるのが見えたけど、なにか言われたのか」
 両肩をつかまれ、真剣な顔で迫られた。……ああ、そうか。あたしの様子がおかしいから、心配してくれているんだ。
「もしかして、断られたのか、例の話? なら心配するな。俺も一緒に頼んでみるつもりだ。それでもだめだったら、最悪――」
 アドリオ様の言葉が途切れた。彼はあたしの顔をまじまじと覗き込み、怪訝そうにこう問いかけてきた。
「ミハル? 兄上に、いったいなにを言われたんだ? ひどい顔色だぞ、真っ青じゃないか」
「い……いえ、別に……」
 婚約破棄された。その事実を、どうしてこの時口にできなかったのか。アドリオ様に伝えることに、なんで躊躇があったんだろう。
 ともかくあたしは、なにを答えることもできず、うつむいて黙り込んだ。アドリオ様は険しい顔つきのまま、でもそれ以上は訊ねてこなかった。あたしのためにいろんな協力をしてくれている彼にこんなことで心配をかけるなんて、と死ぬほど心苦しかったけれど――身動きが取れない。なにをどうしたらいいのかわからない。「見送りの儀」のことでジード様に話を……見送り人を引き受けてくれるよう頼まなきゃ。そのためにはるばるここまで来たんだから。それが頭にあるのに、それなのに思考が働かないってどういうことなんだ。
 アドリオ様に促され、階下へ向かいながらも、あたしはずっと考え続けていた。

 ……そもそもなんであたし、こんなに衝撃を感じてるんだろう、と。



 三刻半(午前十一時)になる頃ようやく、大広間では皆がそろっての食事が始まろうとしていた。朝食と昼食を兼ねたブランチのような軽食で、焼きたてのエッカ(※ロドア風の硬いパン)に黒獅子(ベヌール)の乳から作ったヨーグルトやチーズ、併設の果樹園で収穫された新鮮な果物など、心づくしのメニューが食卓には並んでいる。
 給仕役の小姓たちと、彼らを取りまとめるシグルが、各々のカップに熱いローハン茶を注いで回る。そのうち、ひとつの空席の前でシグルの手が止まった。
 そこは神官長イシュレーの隣席だった。つまりレノラの姿が見えないのだ。彼は戸惑い気味にジードを見やった。
「オルグ・ジード様、レノラ姫がおいでになっていないようですが……『白螺(はくら)の間』に声をおかけした方がよろしいでしょうか」
 昨夜遅く行われたらしい神事については、補佐に過ぎないシグルは詳細を知らされてはいなかった。ジードは憂鬱そうに答えた。
「……いや。多分まだ疲れが取れないんだろう。休ませておいた方がいい、無理に起こせばまた機嫌を損ねてしまうだろうし」
 それだけ言うと彼はむっつりと押し黙った。どこか気まずい空気が漂う中、食事の時間は黙々と過ぎた。
 一通りの給仕を終えて脇に下がったシグルは、解せない思いで食卓をぐるりと見回した。席に着いているのは総勢七人。神殿が一度に迎える客人の数としては、決して多いという人数ではない。が、問題はその面子だった。
 ノルド家の縁戚、ウェス・ハーシュ家の三人の男――現当主であるオルグ・ヴィネック、その息子で次期当主のオルグ・ジード、そして彼の異母弟アドリオはまだわかる。しかし、アドリオの隣に縮こまったようにうつむいて座っている黒髪の娘はどうだろう。シグルはふと眉をひそめた。
 車寄せに到着した馬車から降りてきた五人の訪問者の中に、忘れもしないあの異国の娘の姿を認めた時は、心臓が止まるかと思った。レノラの歓心を買いたいあまりに息の根を止めようと企てた当の相手に間違いない。彼女だってまさか忘れてしまったはずはないだろう。あの体験も、そして――自分を手にかけようとした男の顔も。
 だが、娘の方は、あらぬ方角を一心に見つめたまま、迎えに出た自分には一瞥すらくれなかったのである。それでシグルは声をかけそびれてしまったのだ。いつかきちんと謝りたいと思い続けていたにも関わらず。
 そして、彼女の存在以上に奇妙なのは、ヴィネックと向かい合って座るジードの二席隣の男と、そいつの連れらしい小柄な少女だ。男についての見識ぐらいはあった。だからこそ得心がいかなかったのだ。

 ――なぜここに、このイシオス神殿に、ウェス・ハーシュ家の筆頭の政敵とも言われるウェス・ゴート家の人間が? しかも……この男は確か、ウェス・ゴート家の次期頭領。あの家の跡取り息子じゃないか。

 円満と言い切るには難のある両家の関係者が、なぜ顔をつき合わせてキニッサくんだりまでやってきたのか。お下げ髪に麦藁帽子、赤いエプロンドレスという、およそこの場に似つかわしいとは思われない様子の年若い女の子まで連れて。
 長大なテーブルから少し離れた場所に控えつつ、彼はさらに観察を続けた。どうやら全員、食欲旺盛とは言いがたい状態なのか、カゴに盛ったパンもフルーツもほとんど減らない。例の娘にいたっては、ローハン茶の入ったカップの取っ手を弄るばかりで、口に運ぼうともしないのだ。出迎えた時に比べても、明らかに顔色が悪い。体調がすぐれないのだろうか、そう思っていると、隣席のアドリオが彼女に声をかけるのが聞こえてきた。
「ミハル、どうした? なにも食べてないじゃないか。どこか具合でも悪いのか」
 娘は弱々しげに微笑しつつ、首を横に振っている。アドリオは心配そうにそんな彼女の顔を覗き込み、続けた。
「果物なら入るだろう。俺が剥いてやるから、ちょっと待ってろ」
 銀色のフルーツ皿に手を伸ばそうとする彼を、娘は慌てたように押し止める仕草をした。ところが彼女がなにか言うより早く、椅子を蹴立てる派手な音が部屋中に響き渡った。
 プラチナブロンドの長髪に、整ってはいるが酷薄そうな顔立ちのあの男、次期ウェス・ゴート卿、カシアンだ。そして、もう一人。
「おい、ジード。どうしたんだよ、いきなり」
 咎めるような学友の声を振り払い、席を離れたのは誰あろうオルグ・ジードだった。彼は射抜くような眼差しで誰かを――いや、異母弟であるアドリオを睨みつけている。それはカシアンも同様で、その形の良い額には、怒りのあまりかくっきりと青筋が浮かび上がっていた。鬼気迫る表情に、見ているシグルも小姓たちも、いっせいに身を縮めた。
「小僧……それ以上ミハルに、私の妻に近づいたらどうなるかわかっているのだろうな? さっさと彼女から離れろ! ミハル、おいで。私のそばに来るんだ、さあ」
 迎え撃つアドリオの方も、爛々と燃える瞳で、負けじとカシアンをまっすぐに見据えた。
「お前の方こそ、今度ミハルを妻だなんて呼んでみろ。この俺が赦さないからな、よく憶えておけよ」
 そのせりふを聞くなり、カシアンは激昂も露わに大股に歩き出した。二人を仲裁しようとしてか、ジードの父であるオルグ・ヴィネックが、いかにも面倒そうに顔をしかめながらも立ち上がる。不穏な空気がその場を満たしていく。
 そんな中、なにを思ったのか、娘は椅子を降りると小走りに駆け出した。ひどく焦ったような表情がその小さな顔には浮かんでいる。彼女は近づいてくるカシアンを目がけて――ではなく、そのそばをするりとすり抜け、入り口の扉に向かって走った。いままさに部屋を退出しようとしているジードに向かって。
「ジード様っ」
 すがるような声が聞こえてきた。……だが、当のジードの方は、なぜか歩みを止めようとはしない。彼は両開きになっている扉の、片側の取っ手を軽くつかむと、そのまま大広間から出ていった。一度たりと娘を振り返ることもなく。
 娘はそれでもあきらめず、彼を追おうとして自分も取っ手をつかんだ。扉を押しやり、そして立ちすくんだ。

 開け放った扉の向こう側には、ジードの元許婚、レノラが立っていた。

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