わけもわからず、腕をつかまれたままあたしは走った。細い裏道をいくつも通り抜け、やがてまったく人通りのない街路まで来ると、彼はようやく立ち止まった。
いきなり全力疾走したせいで、あたしの息はかなり上がってしまっていた。体育の授業は一般教養で、週二回しかない。バドミントンじゃなく――選択種目のなかではいちばんお手軽そうだったから選んだんだっけ――陸上か水泳にでもしとけばよかった。
そんなことを考えていると、不意に声をかけられた。
「大丈夫か? 悪かったな、つき合わせちまって。あの連中につかまるとあとが厄介なんでな」
意外なほど人なつっこい喋り方だ。もっとも、なにを言ってるのかは例によってわからなかった。それでもあたしはつい微笑してしまった。
「り……リュテス、レーゾント」
通じることを祈りつつ、片言でお礼を言う。どういう人なのか、まったく知らない。でも助けてくれたのは事実だ。
それに──悪い人には見えない。この世界で簡単に他人を信用するのはどうかと思う。でも、直感が告げている。この人はきっと、信用できる。
あたしはあらためてまじまじと彼を見た。若いというほどではないけれど老けてもいない。多分、三十を少し過ぎたくらい。灰色の長い髪に、緑の混じった青い瞳。無精ひげが若干。よく見るとすごく整った、きれいな顔立ちだ。と言うより――どこかで見たような顔……?
「なあ。お前、いったい、どこから来たんだ? さっきおかしな言葉を喋ってただろう。ありゃどこの国の言葉なんだ」
言葉がどうとか訊かれているらしい。ここでは日本語なんて言ってもわかりはしないだろう。ていうか、そう説明できればの話だけど。あたしはたどたどしく答えた。
「言葉、外国。別の。あたし、来る……来た。そこから」
彼は瞠目した。ある程度は伝わったようだ。
「外国なのはわかってる。俺は商売柄、五大陸を旅して回るからな。だが──お前がさっき使っていた言葉は、そのどこの地方でも聞くことはなかった。問題は……その国がどこにあるか、ってことなんだ」
「どこ……場所? ……き、汽車……駅、カルマ……」
念仏でも唱えてるみたいな、意味不明の回答になってしまった。でも、この男の人は、真剣な眼差しであたしを見つめ、一言も聞き漏らすまじって感じで耳を傾けている。
「カルマに乗り入れる汽車に乗ってこの町に来たってことか? 下りの定期便は、確かにこの前着いてはいるはずだが……あれはオサイオンからのお決まりの便だ。お前みたいな、文字どおりの異邦人が紛れ込む隙なんてあるはずがないんだがな」
彼はあたしの髪を手に取った。指の間からさらさらと頼りなげにこぼれ落ちていくさまが目の端に映る。ふと、その顔が微笑んだ。
「……似てるな。この髪といい黒い目といい……なぁ。お前、名前はなんていうんだ」
名前。この質問ははっきり聴き取れた。
「未明。ミハル・クゼ」
「ミハルか。やっぱりそういう名か。響きもどことなく近いな」
あたしは逆に訊ねた。あたしもこの人の名前を知りたい。
「あなたは……」
彼は口を開きかけ、急に目を見開いた。
「お前、よく見るとその格好……もしかして……」
彼は慌てているようだ。でもその理由がまったくわからない。
「ちょっと待ってくれ。なんでお前がその服を着てるんだ? いやそもそも、お前、どうして『銀鼠』なんかにいたんだ。『春の街』には近づくことさえ禁じられてるはずだろう、あの屋敷じゃ」
あたしは両肩をつかまれ、揺すぶられた。え? なに? どうしたの?
その時、突然、思いがけない人が現れた。
一階西端の使用人部屋は果たしてもぬけの殻だった。心臓が早鐘を打ち始める。ジードは自らを叱咤し、パドマを呼びつけた。
即座に現れたメイド頭は、次期当主のただならぬ様子に眉を顰めた。
「どういたしましたの、ジード様。ミハルがなにか……」
ジードは唾を飲み込んでから口を開いた。口中はからからで、そうでもしなければうまく喋れそうになかったためだ。
「そのミハルが部屋にいないんだ。荷物も消えている。……出て行ったのかもしれない」
パドマの表情が険しくなった。彼女は未明の使っていた部屋に踏み入った。彼の言うとおり、室内には未明の持ち物はなにひとつ残されていなかった。ライティングデスクの上に広げられた一揃いの筆記具だけはなぜかそのままだったが。
「まあ……あの子、どうして……なぜ黙って出て行ったりしたのかしら。私にさえなにも言わずに……」
彼女は痛ましげに顔を曇らせたが、ふと思い出したことがあったようだ。
「もしかして、記憶が戻ったんじゃありませんの? あの子、カルマ向けの定期便に乗っていたんでしたよね。どこから来たのか、それを思い出して、帰る気になったのでは」
ジードは力なく首を横に振った。記憶喪失というのはその場しのぎの出まかせだ。未明は記憶を失っているわけではない。どこから来たのかは不明だが、おそらく帰る術を彼女自身が知らないのだ。はっきりとそう聞いてはいない。が、それはもはや確信に変わっていた。
彼女が出て行った理由は、間違いなく、自分の行いのせいだ。だがそのことはさすがにパドマには言えなかった。
「どちらにしても上りの汽車はまだ三ヶ月も先だ。その間は駅舎自体、閉鎖されている。……ノーゼスに連絡を取って、彼女が来なかったかどうか確認しなくては」
その時、執事のレンドルスが近づいて来、ジードに声をかけた。
「オルグ・ジード様。ノーゼス駅舎長より、お電話が来ておりますが」
生真面目な性格の彼は、次期当主の名には必ず始祖名である「オルグ」を忘れない。ジードは弾かれたように伝令室へと駆け出した。
一階中央に位置する小部屋に飛び込むなり、彼は受話器をもぎ取った。
「私だ、ジードだ。ノーゼスか? ミハルは……ミハルがそっちへ行かなかったか」
「ジード様! ええ、来ましたとも、そうなんです。ついさっきのことです、あの小娘、女官服姿で鞄を抱えて、このカルマ駅のすぐ足元までやってきたんですよ」
駅舎長の口調はあの日のように逼迫していた。
「便がない限りはここが閉鎖されていることを知らなかったようで。私が声をかけると、いやに怯えた顔をしましてね、逃げ出してしまったんです。もちろんすぐに追いかけたんですが……あい申し訳ありません、なにしろこの夜闇なもんですから」
「見失ったのか」
「申し訳も……。妙にすばしっこくて、まるでネコかなんかみたいに。どうも繁華街の方へ逃げ込んだようなんですが」
ジードの顔から血の気が引いた。
「──繁華街、だと? 市議会公認の『春の街』か? ……そこへミハルが逃げ込んだと……そう言うのか」
恐ろしいほど低く冷たい声になっていた。次期当主の変貌ぶりにノーゼスは震え上がった。
「ももも、申し訳ありません、ジード様。八方手を尽くして探しますんで、とにかくですね……」
よくよく考えれば彼が謝る筋合いなどはない。だが受話器の向こうからひしひしと発せられる怒りのオーラに気圧され、ノーゼスは見えもしない相手に向かってぺこぺこと頭を下げていた。
電話はこの直後に、叩きつけるがごときいきおいで切られた。
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