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  センロノハテニ 作者:日比谷碌樹
第一部
第十話 夜の出会い 2
 
 ヴィネック街区の一画には、市議会認定の酒場通りが古くから存在している。通称「春の街(ウェイ・モルド)」。わかりやすい名称ではある。
 その中でも老舗の一軒がこの「銀鼠」だ。コルテニッド(※オーケストリオンに似た自動演奏器)の気だるい調べが流れ、強い葉巻と香の煙が立ち込めるなか、女将(マダム)として店を取り仕切るロナジアは、化粧室から戻るなりフロアに古い馴染み客を見つけ、顔をほころばせた。
「ファロダ! ファロダじゃないのさ、久しぶりねぇ」
 駆け寄った相手は、ひとつにまとめた長い灰色の髪と、緑がかった碧眼を持つ、秀麗かつ精悍な顔立ちの男だ。年の頃は三十代半ばというところか。ただしすでに相当酒が回っているらしく、崩折れるようにして長椅子にもたれかかっている状態だが。
 彼は女の声に顔を上げた。ほんのり赤く濁った瞳がわずかに笑む。
「おお、こりゃ、ローニャじゃねえか。相変わらずいい女だな。どうだ、亭主とは仲良くやってるか」
 ロナジアは男の首に手を巻きつけ、嬉しそうにしな垂れかかった。
「止してよ、あんなの、もう半年も前に別れちゃったわよ。言ったでしょ? あたしにはやっぱりあんただけよ」
 言い終わるや否や、肉感的な唇を押しつける。男の方は適当に応じつつも彼女の髪を撫でた。
「神の下に永遠を誓ったはずだろうが。まったく、しょうがねえなあ」
 女は噴き出した。
「あんたの口から神だなんて、その方が驚きだわよ。今日戻ったの? 他所の大陸に行ってたんでしょ」
「ああ、船でな。ローニャ、もう一杯頼むわ、なるたけ強いやつをくれ」
 酔いは充分に見えたが、彼女は逆らわずにカウンターへ引っ込んだ。群青の液体が入った酒瓶を取り出し、ゴブレットに注ぐ。キニッサ地方に伝わる六十度の古酒だ。運ぼうとした時、フロアの隅で騒ぎが起こった。男たちの怒鳴り声、揶揄する声。それに、まだ少女なのだろうか、ひどくか細い娘の声。ロナジアは顔をしかめた。
「見ろ、こりゃ間違いなく生娘だぜ。しかも上玉だ! なんだってこんなとこに紛れ込んでんだ、ええ?」
 下卑た声がした。ロナジアの大きらいな類の酔っ払いだ。案の定、野卑を絵に描いたような荒くれ男が、裏口近くのフロアの端っこで暴れている。そいつの腕の中に捕われている娘を見てロナジアは瞠目した。

 ――ありゃあ、まだ十五かそこらの小娘じゃないのさ。しかも、あの服装、どこぞの有力貴族のお屋敷の端女(はしため)かなんかかしら。

 思い出した。あのハイネックの臙脂のドレスは、確かここいらじゃいちばんの名家の女官服だ。出自の確かな、そこそこ血筋のいい家の娘しか雇い入れないはず。あの男じゃないけど、なんでまたうちみたいな店に……彼女は思わず身を乗り出し、威勢良く啖呵を切った。
「ちょいと! うちの店でそういう騒ぎは止めてもらいたいね。女を買いたいならその手の店に行きなよ、さあ、その子を離してとっとと出ておいき」
 ロナジアはそう怒鳴るなり男の手から娘をもぎ取ろうとした。が、仲間らしき別の男がその腕を制し、逆に彼女を突き飛ばした。よろけてカウンターにもたれかかるロナジア。そこここから嘲笑が上がる。
「なにするんだい、このごろつき!」
「年増は引っ込んでろ。ああ――まあ確かに楽しむには場所を変えた方がよさそうだぜ。さあ行こうか、お嬢ちゃん」
 娘は青ざめた顔でなにか叫んでいる。聞き慣れない、不思議な響きの言葉だ。
 その時、長椅子に倒れ込んでいたファロダがむっくりと起き上がった。泥酔していたはずが、真顔になっていた。騒ぎの中心にいる見慣れぬ娘をじっと見つめていたかと思うと、彼は大股でフロアを横切り、当の娘の元へ向かう。そうして、取り巻いている連中には目もくれずに、唐突に話しかけた。
「おい、お前、何者だ? どこから来たんだ? その言葉は……」
 彼の問いかけは途中で遮られた。男たちの仲間の一人が殴りかかってきたからだ。娘は目を瞑った。
 が、次の瞬間、倒れたのは殴ろうとした男の方だった。ファロダは軽々とその男の拳を受け止め、腹に膝蹴りを喰らわしたのである。娘を捕らえていた男は怒りをあらわにした。
「この野郎、なにしやがる!」
 ファロダの耳には入っていないようだ。彼は相変わらず娘に執心を示し、あれこれ話しかけている。また別の仲間らしき男が背後から襲いかかってきたが、ファロダはスマートに肘を後ろへ突き出した。男は鳩尾を押さえて崩れ落ちた。
 一筋縄ではいかない相手とわかったのか、四、五人の相手がまとめて飛びかってきた。ファロダはさも(うるさ)そうに眉をしかめ、のらりくらりと攻撃をかわしながらも一人ずつ的確に仕留めていく。ロナジアの悲鳴──というより怒声が上がる。
「ちょいとちょいと、あんたたち! 喧嘩なら外でやってちょうだい、店がめちゃめちゃになっちゃうじゃないの」
 その声は呆気なく喧騒にかき消された。椅子やテーブルが倒れ、酒瓶やグラスが割れる。ついに堪忍袋の緒が切れた彼女は店を飛び出した。
 その間もファロダとならず者たちの大立ち回りは続いた。そのさなか、不意に娘の鋭い悲鳴が上がった。混乱の隙をついて店から連れ去られようとしているのだ。ファロダは彼女を捕らえている男に飛びかかると、その頬を(したた)かに殴りつけた。男は喜劇俳優さながらに一回転し、そのままのびてしまった。その時である。
「鎮まれ、鎮まらんか! 全員お縄にしてくれるぞ、このろくでなしどもが」
 ドアが荒々しく開き、濃緑のマントに身を包んだ数人の男たちがどかどかと踏み込んできた。町の治安を取り仕切る警吏官の連中だ。手にはそれぞれ警棒を握っている。彼らの出現にファロダの顔色が変わった。彼は短く舌打ちした。
「ローニャのやつだな。やべえ、こんなとこでつかまったのが知れたら、またあいつらになにを言われちまうか。……おい、来い! 逃げるぞ」
 ファロダは自由になった娘の手首をつかむと裏口へ向かった。娘は抵抗もできず、されるがままに彼に続いて店の外へと走り出た。


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