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フランス人形
作:松本 由樹彦



チャプター4


「まさかあんたが黒柳で、しかも隣のクラスだったなんてね」
 僕の前の席に横向きに腰を下ろしている吉川が言った。僕はメガネを外してケースにしまった。
「昨日手伝ってくれた男の子が美奈の二つ後ろの席で退屈そうにメガネかけてるなんて思いもしなかったわ」
「僕はかれこれ一年くらいここにいたんだけどね」
「私のこと、知ってたんでしょう?」
「知ってた」
「何で言わなかったのよ?」
「そんなことを言ったら、僕は殺されてたんじゃないかな」
 吉川は僕を非難する目を向けた。僕はそのむやみに透明感のある瞳を見返す。明るい場所で吉川と顔を突き合わせるのは初めてのことで、昨日は暗くてはっきり見えなかったが、やはりというか、よく出来た顔だと思う。 
「ねえ」
「なに?」
「ちょっと話したいんだけど、場所変えない?あんまり人に見られたくないの」
「いいよ」
 僕は立ち上がる。
「僕ももう少し知っておきたいことがある」
 吉川は目に感情を浮かべずに、唇の端を吊り上げた。
 

 キャメルブラウンのダッフルコートを着込んだ吉川と並んで、傘を差して校舎を出る。とっくに下校時間を過ぎていたので、昇降口に人影はなかった。吉川は何も言わずに、正門とは反対の方向に歩き出した。僕も黙って後に続く。フードをすっぽりと被り、鼻の先までマフラーに埋めて、水溜りをかわしながらスタスタと歩いていく吉川。よほど人に見られたくないのだろうが、それは僕にとっても同じことで、こんなところをクラスの誰かに見られたら明日何を言われるかわからないし、サッカー部のなんとか先輩とかに見られるのも面倒だ。吉川は一度も振り返らないまま、テニスコートを通り越し、石畳の裏道を抜けて、そこからさらに十分ほどよどみのないペースで歩き、やがて県道沿いの畑の間にぽつんとたたずんでいた喫茶店へと僕を連れて行った。
 『喫茶・軽食 ロレンス』と書かれた古い看板の文字は今にも消えてしまいそうに薄く、陳列ケースのメニューサンプルには埃がうっすらと積もっている。ひどくうらぶれた店で、事実、店内に客は一人もいなかった。店主と思われる白髪の老人が一人、カウンターの裏でお茶を飲みながら相撲中継を見ているような店だった。そこには畳が敷かれていて、老人はコタツに入っている。吉川も初めて来たようで、物珍しそうに店内を見回していた。確かにここなら誰にも見られる心配はなさそうだ。間違っても高校生のたまり場になるような店ではない。窓際にひび割れた鏡餅があり、カウンターの隅に黒い招き猫が置かれ、壁には販促品のカレンダーが掛けられていて、その左上で黒縁の丸時計がおよそ二十分遅れの時を刻んでいた。石油ストーブが過剰に設置された店内は暖かく、僕と吉川は上着を脱いで、奥の四角いテーブル席についた。吉川は年季の入った革のソファーに、僕は夏が似合いそうな藤椅子に腰を下ろした。
 老マスターの仕事は意外なくらい手際がよく、僕たちの注文したホットドリンクを驚くべき速さでこしらえてテーブルに運ぶと、また湯飲み片手の相撲観戦へと舞い戻った。
「あのおじいさんは相撲が好きなんだわ」
 吉川が見たままの感想を無意味に述べてホットココアをすすったので、僕もホットコーヒーを傾けた。いたってまともな味。
「おびただしく降るわね」
 吉川が曇った窓ガラスを手で拭いて外を眺める。
「リサーチ通りなんだろ?」
「まあね。でもちょっと降りすぎたかな」
 吉川はそう言って少し困った顔をした。ここまで来る間にもずいぶん濡れてしまった。吉川は空いている椅子の背もたれにコートをかけて乾かしている。僕もそれにならった。
「お父さんがいなくなって、誰も不審がってはいないの?」
 吉川はカップに口をつけたまま小さく首を振る。
「全然。あいつがいなくなるのはよくあることだし、いないほうがむしろ普通。お母さんもあいつが帰ってこないからって何も言わないわ。いないほうがいいんだから」
 吉川の話によると、吉川の父親は吉川が生まれる前に一度、蒸発したそうだ。ずっと母親と二人で暮らしていたのだが、吉川が中学に上がる頃になって突然帰ってきて、居座るようになったという。吉川が父親を見たのはそのときが初めてだったとのこと。
「それからは地獄の日々よ。お母さんは殴られるわ、私は犯されるわ」
「その話はいいよ」
 吉川はきょとんとして僕の目を覗き込み、面白そうに微笑んでから、背もたれに身を預けた。
「ま、とにかくあいつがいなくなっても誰も探したりはしないの。少なくとも今すぐにはね」
「ふうん」
 僕はコーヒーカップに口をつける。少しぬるくなってきた。客の来る気配は一向にない。老人は14型のテレビ画面から片時も目を離さない。
「それにしても」
 吉川は嘲笑うようで苦々しくもある顔を形作った。
「岡部みたいな変わり者が隣のクラスに潜んでいたなんてね」
「僕はいたって普通だし、潜んでいたつもりもない。吉川に気づかれないくらいに普通だよ」
「知らなかったものはしょうがないじゃない。それにメガネだとは思わないしさ。なんで学校でメガネかけてるの?」
「キャラ作り」
 吉川はとたんに吹き出して、「やっぱり変ってるわ、あんた」と言って、ケタケタと笑い続けた。僕は黙ってその奇妙な笑いがおさまるのを待った。
「なんの意味があるの?そのメガネキャラに。メガネをかけると人格が変わるの?」
「意味なんてないよ。学校での僕と、それ以外の僕を分けたいんだ」
 すると吉川は意外にも感心したような顔をして、
「へえ…。それは私も同感だな」
「吉川も学校じゃ父親を刺し殺すようには見えないよ」
 吉川は鼻で笑う。
「父親を刺し殺しそうな女子高生ってどんな見た目だろうね」
 なにやら思い浮かべているようだが、言うまでもなく、僕の目の前には父親を刺し殺して埋めた女子高生がいる。吉川はテーブルに無造作に置いていた携帯電話のディスプレイを光らせて、正確な時間を確認した。
「そろそろ行きましょうか。ちょっと用事があるの。今日はおごってあげるわ。約束したしね」
「悪いね」
 吉川は、「いいわよ」と言いながら立ち上がり、中腰の姿勢で静止して、なにやら逡巡してから、逆再生のようにソファーに戻った。
「私たち、時々会わない?」
 何を言い出す。
「岡部みたいな奴って貴重なのよ。あんたわかってないかもしれないけどさ。こういうのあんまり言いたくないんだけど、私ね、かなり疲れちゃってるのよ。岡部的に言うと学校キャラ?私って明るく楽しく素直で優しい、みたいなイメージあるでしょ?」
「それどころか神格化されてるよ」
 吉川は迷惑そうにうなずく。
「そうね。特に『黒柳の姫』とか言われだしてから余計そういうのが一人歩きしちゃって、もううんざり。大体、いまどき高校の文化祭でミスコンなんて、時代遅れもいいとこよ。ボランティアとか興味ないのにやらざるを得ない感じだし、今日もこれからクラスの子のバースデーパーティーなんだけど行きたくない。そういうの面倒くさいし、つまらないの。プレゼント代もかかるしさ。飽きたわ」
「僕といてもつまらないと思うけど」
「つまらないの種類が違うのよ。岡部は私がつまらない顔しててもどうせ何も気にしないでしょう?私の『お友達』はさ、私がちょっとでも笑ってなかったら、『世梨、どうしたの?どっか痛いの?』ってうるさいのよ」
 それは疲れるだろうな。
「だから、たまに岡部みたいな無感動少年のぼそぼそトークを聞いたら案外リラックスできる気がする。現に昨日も今日もなんか楽なのよ。あんた癒しのセンスあるわ」
「はあ」
「ねえ、いいでしょう?」
 吉川はテーブルに肘をついて、小さな顔を僕に寄せた。
「別に」
 吉川は学校で見せる五分の一くらいの笑顔で僕を見つめてから、立ち上がってコートを着て、伝票を持ってレジに向かった。
 吉川は老店主から受け取ったつり銭を怪しげに数えながら、
「あんた、メガネないほうがいいんじゃない?」
 と言った。
 僕は聞こえなかったことにした。
 僕と吉川の家は真逆の方角。
 傘を差して、その場で別れた。







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