チャプター3
翌日。
予報通りの大雨になって僕はいつもなら自転車で行く通学路をあまり役に立たない傘を差しながら時間をかけて登校した。教室はすでに濡れた制服特有の嫌な臭いが充満していたが、今日は一時間目から体育なので、この悪臭からはしばし解放される。
僕が通っているのは私立黒柳高校という高校で、一応、県内有数の進学校ということになっている。僕はその一年D組に属していて、昨日、父親を殺して埋めた吉川世梨は一年C組。
体育はC組との合同授業なので、僕は自分の意思とは無関係に吉川の姿を確認することができた。
体育館を半分に区切り、男子は剣道、女子はバスケットボール。突如始まったトーナメント戦で早々に敗退した僕は、剣道とバスケの観客になった。天井から吊るされたネットで仕切られた向こう側では、背中まである髪を後ろで束ねた吉川がビブスを付けてコートにいる。
バスケ経験者なのか、重心の低いドリブルで敵陣を切り裂き、意表を突くノールックパス。非の打ち所のないフォームでジャンプシュートを沈めて、チームメイトとハイタッチ。はしゃぐ吉川。満開の笑顔。普段と何も違った様子は見えない、いつも通りの吉川世梨。
そんな吉川を見ていると、昨日、あれだけ確かだったことが夢であったような気がしてくる。彼女が人を殺したなんて、考えるだけでも咎められそうなことなのだが、やはり事実。今朝、うちに土の付着したシャベルがあったから。
「だー、負けちまったぜ」
くぐもった声を上げて僕の隣に座る覆面男。面を外すと締まりのない顔が現れた。僕の友人、武田だ。
「中学のとき剣道部だったんじゃなかったの?」
「C組の葛西にやられた。あいつ、現役の剣道部だからな。汚ねえよ」
「別に汚くはないと思うけど」
「…てゆうかお前、さっきから誰見てんだよ?」
僕は武田を無視して吉川に注目し続ける。
「んあ?もしかして吉川か?いまさら吉川か?」
「いや、ちゃんと見たことなかったからさ」
「ちゃんと見たことないわけねーだろ。『黒柳スリートップ』の一角にして、最高峰だぞ」
残りのツートップのことは知らないが。
武田は僕の側頭部を両手で挟み込んで、ぐるぐる回してから振り向かせた。
「あきらめてくれ。無理だ。お前も知ってるだろ?吉川の称号」
「…『黒柳の姫』、だっけ?」
乱れた髪を直しながら、白々しくそう言って、ついでに馬鹿馬鹿しくなった。
去年の十一月の文化祭。吉川は『ミス・黒柳』といういささか時代遅れ感すら漂うタイトルを獲得していた。ちなみにこれは目立ちたがりのうぬぼれ屋がわざわざエントリーするタイプのものではなくて、全校生徒が対象の投票によって決められる。すでに在学中の三連覇は確実とまで言われていて、ついたあだ名が『黒柳の姫』。さすがにそれは誇張しすぎだと、僕は思っているのだが。
「そ。とにかくそこらの女とは格が違う。あんな可愛い人間見たことないし、あれだけ美しいって言葉がバチっとはまる十六歳はそうはいねえぞ。見ろよ。あのパウダースノーな白い肌、抱きしめたら確実にへし折れる華奢かつナイスなプロポーション、なにより完璧で可憐で芸術的な顔はとにかく凄え。あんな天使見たことねえよ。しかも性格もいいんだよな。いっつもニコニコしてて、誰にでも分け隔てなく優しい。大体、普通あれだけモテると少なからず同姓に妬まれそうなもんだろ?それがまったくないってのが吉川の素晴らしいところでさ、女子のファン層も厚いんだよな。何も男の票だけで『ミス・黒柳』獲ったわけじゃねえんだよ。生徒会がやってるボランティア活動にも参加してるんだぜ。マジ、リアル女神だよなぁ。だからみんな吉川のことが大好きなんだよ。俺の知ってるだけでも、サッカー部の八島さんとかラグビー部の初芝さんとか、同級だと特進の東とか、その辺。黒柳の中心人物は大体吉川だな。でももう誰も下手に手が出せない状態っていうかさ、特に文化祭以降はおこがましくて、ものにしようって奴はほとんどいないんじゃないかな。とにかく、みんなの姫で天使で女神な吉川がフリーっていうことだけで、黒柳の男たちはこの上なくハッピーなんだよ」
武田は忌々しいくらいに熱く語った。
僕が、「ちょっと崇めすぎじゃないか?」と言うと、武田は僕の肩にスピーディーなジャブを放った。
「すぎじゃねえよ!姫だぞ。だからな、ま、そんな度胸はないと思うけど、もしお前みたいな半端に頭が良いだけのノーマルメガネが言い寄ったとしても完全無視、無味無臭、……て、無視はしないか。吉川は優しいからな。すごく申し訳なさそうに、心を込めて、可愛く、ごめんなさいって言ってくれるだろうよ。だから、おとなしく隠し撮りでもして、額に入れて枕元に置くくらいで我慢してくれ。…あ、やっぱりやめろ。写真の吉川が可哀相すぎる」
僕は肩を殴られた辺りからうんざりして、剣道の準決勝を見ていた。
三時間目と四時間目の間の休み時間。
僕が自分の席に座ったまま、何もせずに世界史の授業を待っていると、吉川が一人でD組に入ってきて、僕の二つ前、遠山美奈の机の横で足を止めた。吉川の入室により、教室内の空気が少し変わった。
「美奈美奈!現国の教科書忘れちゃったんだー。貸してくれない?」
そう言って、遠山を拝むポーズ。やはりいつも通りの吉川だ。元気で明るい人気者。
遠山はニコニコとうなずいてから、席を立った。どうやらロッカーに教科書を入れているらしく、僕の真横を通り過ぎて、教室の後ろに設置されたロッカーへと向かった。
吉川は遠山を待つ間、窓の外を眺めていた。僕は吉川の見ているグレーの空に目をやった。予想通りの大雨で血が洗い流されていくさまを思い浮かべているのかもしれない。
僕が机の横にかけた鞄から世界史の教科書を出していると、前方からの強い視線を感じた。
吉川が体は窓に向けたまま、首を斜めに傾けて僕を見ていた。僕は気づかないふりをして、顔を伏せて教科書を開いた。吉川も声をかけてこない。確信が得られないのだろう。今の僕はメガネをかけているが、学校外ではかけていない。昨日もそう。
遠山が戻ってくるまでのわずかな時間、吉川は眉を寄せて、思わず顔を上げてしまいそうになるシリアスな目光線を僕に浴びせ続けていた。
その日の授業もすべて終了。
雨は絶え間なく降り続け、僕は一緒に帰ろうという武田他、友人の誘いを断り、教室にとどまった。
昼休みのことだ。遠山に教科書を返しに来た吉川が、帰り際に僕に紙切れを押し付けてきた。一瞬のことだったので誰の目にも止まらなかっただろう。そのノートの切れ端には、『残ってて』と、殴り書き。
最後まで帰らなかった女子の一団もいなくなり、教室には僕だけが取り残された。誰もいなくなった教室の気温は低く、僕は制服の上にダウンジャケットを重ねた。
雨雲に覆われた冬空は夜のように暗く、蛍光灯の明かりに照らされた僕の姿だけが窓に映る。僕は目を閉じて、大粒の雨がガラスを叩く音に身をゆだねた。
どれほどの時間が経過しただろう。やがてゴムがはがれるような靴音が雨音に混じり、それは次第に大きくなり、僕の直前で音は消え、代わりに人の気配がした。
「オカベ…、タカキ………」
僕はゆっくりとまぶたを開く。
吉川が僕を見下ろしていた。
昨日と同じ、無表情で。
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