それは、舞い上がる桜のように
病気ネタです。苦手な方はご遠慮願います。
風が春の色を乗せて静かに吹き荒れていた。
まるでダンスでもしているかのように、花びらたちは螺旋を描きながらじゃれ合うようにして舞い、遊び疲れるとゆっくりと地に落ちる。
それを永久に繰り返すのではないか、と思うほど同じ光景を飽きるほど見ていた。
この桜の木には言い伝えのようなものがあった。
桜が満開の花を咲かせたとき、それは命の開花と呼ばれて万病を癒してしまうという言い伝えだ。この桜がここ、国立病院の中庭にあるのもその言い伝えのせいである。
そこに九条晶子はいた。
彼女がこの病院にいるのにはわけがあった。娘の桜が悪性腫瘍があると判断され、入院中であった。
まだ出生したばかりの新生児だというのに、何故こんな試練がいきなり訪れなければならないのかと、天高くから見下ろしてくる神様とやらを何度呪おうとしたことか分からない。
出産した直後の溢れんばかりの喜びは、寸劇と消え去ってしまった。
晶子は桜の木に手を置いて、願うように強く目を瞑る。
こんなことをしたって無駄なのは分かっていた。言い伝えが迷信であることや、それが迷信で無いにしろこの桜が舞う風景を見れば一目瞭然、既に散り行く時期なのだ。しかも、既に木々の色は桜色から枝の茶色へと完全に変化しつつあった。
それにこんな無機質な白の空間だ。叶う願いも叶わなくなりそうで嫌気が差してくる。
晶子は木から手を離し、そのまま背をかけるようにして体育座りをする。
芝生がすこしくすぐったかったため、手を挟むように置いて座りなおす。やはり風も強く、桜が舞う方向と同じ方に黒く艶やかな長髪が靡いていた。
それを払う気力すら出ない。
細く流れる髪が、頬と心を痛めた。
―――花弁が、枝から身を離した。
今、こうしている間に娘は集中治療室にいる。
悪性腫瘍は発症し始めたらその完治は期待できず、人として最低限生活できる時間を延ばすという行為が続けられていたが、ついに山場を向かえ、緊急手術が現在行われている。
それにも関わらず、この場所は静かに風を吹かせて時の流れと共に桜をなびかせている。
桜の木が全ての花を散らせた時、娘の命も恐らく・・・。
晶子は頭を掻き毟る。頭に降りていた花弁が再び風に乗る。
そんなもの、認めたくは無かった。
生まれて間もない娘の顔をまだ覚えきっていないぐらいの時間しか過ごしていないというのに。なのに、命の限りは刻々と迫っている。
娘の桜は、胎児の頃にここに連れてくると胎盤を蹴って喜んでいたことが多々あった。本当に喜んでいたかの確信は無いが、母親としての勘という奴であろう。
夫もそれに気付いて、良く見舞いに来るときはこの桜の木の下で他愛の無い会話をしていたものだと感傷に浸ってみる。
その頃はまだ、桜の花は開花しておらずこの光景を娘に見せることは叶わなかった。
走馬灯は、数秒しか流れない。
―――花弁が、空で踊るように回る。
「晶子!!」
ふいに、誰かに呼ばれる。
耳の奥に鈍く響くような、男性の声。振り向かなくともそれが誰なのかは分かった。だから、あえて俯いたまま膝を抱え込む。
男性は傍まで来ると、ゆっくりと影を作るような位置に座って、晶子の頭を自分の胸に預けさせた。それは晶子自身を慰める行為でもあり、また自分の心を落ち着かせるための甘えでもあった。
「あなた・・・」
顔は埋めたまま、自分の愛する人物の代名詞を小声でつぶやく。夫の康晴が勤務を抜け出して駆けつけたのだ。
それは涙声では無かったが、康晴にしてみれば酷く弱弱しく感じて、一層彼女を強く抱きしめる。
その二人をさらに包み込むようにして、桜の木が揺れた。
―――花弁が、滑るように風と共に駆ける。
晶子の中に、その夫の行動が引き金となったのか抑えきれない感情が一気に渦を巻き始める。
怒りか・・・。
悲しみか・・・。
後悔か・・・。
苦しみか・・・。
それは突如頬に感じた熱い感触によって、耐え切れないものとなってしまった。
「ぁ・・・ぁなた・・・、桜、が、桜が・・・」
表情が崩れていくのが自分でもわかった。頬の筋肉がどうしようもなく引きつって、言う事を聞かなくなった。
伏せていた顔を上げ、初めて康晴の顔を見る。何故、泣き顔になってから顔を合わせてしまったのだろうと後から後悔したが康晴の表情も自分と何ら変わらないことに、少し安心感を得た。
だが逆にその安心感が最後の堤防を崩してしまった。
声も無く、ただ康晴に抱きついてうわ言のように実の娘の名前を叫ぶ。
彼女の乱れる髪を撫でながらも、彼も感ずいていた。
娘の命がもはや秒単位で迫ってきていることを。男だから、だなんて馬鹿なプライドは既に無く、彼も冷めようの無い瞳の熱さに手を目頭を覆うようにして置いていた。
いくら大丈夫だと自己暗示しても、現実は無情にも思考を支配する。
それが、悪魔の囁きなのか神様のお告げなのかは分からない。
だから憎むべき相手も分からず、ただやり場のない感情を溜め込んでいった。
風は、彼の涙を冷やすために身を振るわせた。
―――花弁が、芝生に音も立てずに、誰にも気付かれずに身を降ろした。
「九条様、担当医の方からお話が・・・」
いつのまに来たのか、薄い桃色がかかった白衣を着た看護婦が二人の前に立っていた。その表情は今にも泣きだしそうで、彼女の患者に対する優しさが滲み出ていた。
その後ろに、依然として固い表情を浮かべる担当医の姿。
康晴は、出産祝いに新着したばかりのスーツの袖で涙をぬぐい、晶子を抱きながら立ち上がる。晶子の足元は泣きつかれたのか、相当ふら付いており焦点もゆらゆらと明後日の方向を向いていた。
看護士が肩を貸そうとするが、康晴はそれを丁重にお断りして残された家族を支える。
担当医が一歩前に出て、康晴と真正面から向き合う形になる。その眼差しは真剣たるものそのもので、身体に嫌でも力が入った。
大きく息を吸い込むその口の動きが、酷くスローペースに見えて早く、早くというように急かす自分の中の自分と、結果を恐れる臆病な自分が無意味に葛藤し始める。
思考がぐるぐると回る。
妻がすすり泣く声。
看護士が赤い目で傍から見守る姿。
担当医が何故か頭を下げる。
そして・・・。
唇が、言葉を紡いだ。
「――――――」
え?
ふと、そんな見っとも無い声が康晴の中から発せられた。
聞こえなかった。いや、確かに担当医は言っただろう。その証拠に、妻が隣で突如泣き崩れ、それを自分ではなく、看護士が支える。
康晴は、自分が現実から遥か遠いところに今いるような気がした。これが自閉の空間内だというのならば、そうであろう。
だが、時間差があって担当医の発した言葉が自分の中で反芻されていく。
そうだ。確かに目の前の白い人はこう言った。
「ご臨終です」
ご臨終です。
ご臨終です・・・。
ゴリンジュウデス・・・。
まだ数えるほどしかこの腕の中に抱いたことが無い娘の命が、終わった?
まだ撫でてあげることも出来ないくらいしか髪の毛が生えていない娘の命が、終わった?
まだ自分の名前すら言葉にしたことがない娘の命が、終わった?
あの咲き誇る桜のような笑顔が、もう、無い。
がっくり膝を落とす。身体にかかる重力が今までに無いくらい重く感じた。
晶子が泣き叫ぶ。今で無かったらうるさいくらいに泣き叫ぶ。
手を顔に被せるが、すぐに掌に涙が満ちて零れ落ちる。
晶子が少し湿っぽくなった手を顔から離して、夫の元へと這おうとした、その時だった。
―――桜吹雪が、地から天に昇るように、舞った。
濡れた手に、それが張り付く。涙を染み込ませて桜の色が変わる。
晶子は舞い上がる桜吹雪を顔を上げて追っていった。ぼやけた視界が、今だけ不思議なほどクリアになっていた。
そして、その視界に写ったものに晶子は目を見開いた。涙はもう出ない。
ただ、たった一つの感情だけがそこに存在していた。
「あなた、見て。・・・桜が」
晶子の言葉に康晴は現実に引き戻される。意外にも言葉に震えが無かったことに驚きながら、妻のほうに目をやる。
彼女は、空を見ていた。それも、釘付けになったようにただ一点だけを。
康晴も涙で濡れた顔を上げ、同じ風景を焼き付ける。
刹那、彼の思考は晶子と同調しただろう。
そこにあった風景は、地から舞い上がった桜の花弁たちがちょうど樹木の周りを意思を持っているかのように舞っていた。
枝と枝の間に既に散った桜の花が滑り込み、段々と形を成していく。一度は散った木が再び色づく。
二人は見た。
風と戯れるそれは、今芽から顔を出したばかりの、咲き誇る桜のようだった。
しばらく二人の前でその姿を自慢するかのように見せていた桜の花は、ゆっくりとまた見えない風に乗って舞い上がっていく。
それは見えなくなるまで上がっていき、二度と降りてくることはなかった。
晶子が見えなくなるまで見送った後、愛する康晴の方を笑顔で見て、こう言った。
―――桜が最後に、笑顔を見せてくれた。