第五話 モルモット
レンティーノとお昼にしていると、ミンが来た。
「お帰りなさい、父さん」
「ただいま。ミンイェンも一緒だね」
ミンは嬉しそうに笑いながら、レンティーノに言った。僕はレンティーノが淹れてくれた紅茶を飲みながら、ミンに軽く会釈した。
ミンは僕に向かってにこりと笑みを投げかけると、自分も昼食にするようで着ていた白衣を脱いだ。脱いだ白衣をベッドの方に放り投げて、彼は僕とレンティーノを振り返る。
「レジュストゥルフェルナディアンティーノ、明日から学校へ行くことになっているよ。聞いていた?」
その言葉に、レンティーノが固まった。上品な仕草で握られていた彼のフォークが、からんと音を立てて皿の上に落ちる。
学校? レンティーノが、学校に行くの? 僕も勿論、少なからず驚いていた。
「……いえ、何も」
信じられないといった様子で答えるレンティーノ。僕だって信じられないよ。レンティーノと一緒にいられなくなったら、僕はとても退屈だ。
「明日は七時半にここを出なさい。いいね?」
ミンは最初からレンティーノがこうして驚くのを見越していたのか、説得するようにそういった。
僕はレンティーノをじっと見た。レンティーノは僕の顔を見て何か思ったのか、さっとミンの方を見た。
「ミンイェンを連れていってはいけませんか」
一瞬、全世界の時が止まってしまったかのように感じられた。
だって、レンティーノが一緒にいていいって言ってくれるなんて。僕に居場所をくれるなんて。そして、この願いが棄却されてしまう可能性も考えて。
きっとミンの返事が来たのはそれから一分もしなかった後なんだろうけど、僕にとってこの時間は数時間に感じられるほど長かった。
「おや、もう打ち解けたんだね? 良い事だ、許可しよう」
駄目だといわれるかもしれないと思ったのに、ミンは笑いながらそう答えてくれた。僕とレンティーノは顔を見合わせて、一緒に学校に行けることを喜び合った。
かくして、僕らは学校に行くことになった。僕らがいくのはこの研究所の近くにある学校で、そこはきちんと制服を着ていく学校らしい。
僕が行っていた学校は何ともアバウトというかいい加減な学校で、校則なんて殆ど誰も守っていないし、知っている人のほうが少なかった。だから制服なんて皆着てこないし、アクセサリーがじゃらじゃらしてても先生は誰も文句を言わなかった。
「明日の朝、中庭でいいかな」
レンティーノにそう訊ねてみると、彼はにっこりと笑って頷いてくれた。だが、彼のその笑顔が少し曇る。それから、心配そうにこう訊かれた。
「もしも僕がその時来ないようでしたら、すみませんが起こしにきてくれませんか?」
話によると、レンティーノは朝が弱いらしい。僕は勿論快く引き受けて、レンティーノに一旦別れを告げた。そして、隣のハビの部屋に行ってみる。
ハビは机に向かって凄く真剣な表情を向けて、一心に何か書いていた。部屋には紙にペンを走らせる音だけが響いている。怖いくらいに、ハビはその作業に没頭していた。
「……ハビ?」
声をかけても、反応は無い。後ろにそっと回ってみても、反応が無い。これはちょっとおかしいと思う。
そっと彼の後ろからその手元を覗き込んでみると、ハビが一心に書き綴っているのは研究資料の一部だってことが解った。でも、文字が難しくて読めないところがいっぱいある。
内容を頑張って解読してみることにして、僕は彼の文字を目で追う。
『蘇生した人間から生まれた子供の精神状況、ケース?』
意味は全然解らない。蘇生なんて言葉は、最近知った言葉だし。だけどこれが、レンティーノのことだって言うのは漠然と思った。ここの子供っていったら、僕とレンティーノしかいないような気がするから。続きを読む。
『集団生活に耐えられるかどうか』
集団生活なんて、いままさにしてるんじゃないの? というか、耐えられない場合なんてあるんだろうか。
そして僕はさらに続きを読み、信じられないものを見た。
『被験体一〇六八』
何、この被験体って。そして、何で数字なの? これがもしも本当にレンティーノの実験だったら、被験体とか番号とか、そんなもので呼んで欲しくない。
大体、実験なんてしてほしくないよ。レンティーノはちゃんとした人間であって、僕の数少ない友達だから。
さらに、僕はハビが続ける文章を読み続けた。
『なお、実験の同行者を作ることによって発狂した場合に備える』
発狂って、何のこと? どういう意味なのかよく解らない。だけど、とにかく良い意味じゃないっていうのは解る。
そして僕は、同行者の名前のところに小さく『一〇九六』と記されているのを見つけた。一〇九六。それって、僕の部屋番号だ。そうういえば、レンティーノの部屋番号も一〇六八だった。
僕もレンティーノも、知らないうちに番号で呼ばれていたんだ。学校に行くのだって、実験の一環だった。そんな、酷い。僕たち、これじゃあただの道具みたいだよ。
今まで普通に生きてたのに。レンティーノは生まれた時からここにいたらしいけど、僕は普通の人間だった。ここはウサギ小屋? 僕はモルモット?
「……いつからいたの」
声をかけられて飛び上がる。いつものハビの穏やかで深い声じゃない。何となくかすれた、抑揚の無い声。それに驚いたし、ちょっと怖かった。
いつのまにか、ハビは資料を書き終えていたみたいだった。僕は考え事をしていたから、気づく事ができなかった。
何故だろう、僕はハビがとても怖かった。一歩後じさり、彼を見る。
「いつだろう、五分前くらいかな。ハビ、声かけても返事しないから」
どうにか平静をよそおってそういえたけど、内心穏やかじゃない。
ハビは僕を見ようともせず、そっけなく
「そう」
と呟いた。
どうしてこんなに別人のような声で喋るんだろう、ハビ。僕が戸惑っていると、ハビは椅子に座ったままの姿勢で首を捻ってこっちを向いた。
鋭く細められた目。寄せられた眉。あの穏やかな笑顔の片鱗すらみあたらない表情で、ハビはこっちを見ていた。
「何の用?」
突き放されるような言い方で訊ねられて、僕はびくっとする。何だかこの人、ハビじゃなくてハビの双子のお兄さんとかそういう人なんじゃないかって思う。
だって呼んだのはハビなのに、それすら覚えてないなんて。僕は何となく居心地の悪さを感じて、ハビの部屋をあとにした。
どうしたんだろう、ハビ。僕、何か怒らすようなこと言っちゃったかなあ?
悶々と考えながら廊下を歩いていると、不意に誰かにぶつかって転んだ。起き上がると、不機嫌そうな少年が僕を睨みつけていた。
「チッ 気をつけな」
「……」
やけに高圧的な態度。僕は少しむっとして、目つきの悪い茶髪の少年を睨み上げた。
目の色が鮮やかすぎるくらいの空色で、変な奴だった。リィと同い年くらいだろうけど、リィみたいな優しそうな人じゃない。
「てめえ、年上に対する口の利き方をしらねえのか? 返事くらいしやがれ」
相当機嫌が悪いのか、その人は僕の胸倉を掴み上げてきた。僕はそれでも、黙ってその人をにらみつけていた。僕、偉そうな人が大嫌いだから。
年上だから何? 僕より長く生きてるから何? 八つ当たりの対象になるかならないかってことに、そんなの関係ないよね。年下だったら年上の不当な扱いも受けろって事? 笑わせないでよ。
「やめなさいマーティン。それから、襟元を正しなさい」
男の声に割り込まれ、僕は割り込んできた男によって少年から解放された。マーティンとか言う変な奴は、依然として僕を睨み降ろしている。だから僕も、マーティンを睨み返していた。
マーティンを止めた男は、この研究所内ではあまり見られない上質な黒のスーツに身を包んでいた。でも研究員なんだろう、きっと。襟元に、研究員の証であるピンバッジがつけられていた。
「君、部屋に戻ったらどうだ。それと、その鬱陶しい前髪はすぐに切れ」
……何なの、この人。この人もマーティンに負けず劣らず変な奴だ。前半はいいとして、後半の前髪のことなんてこの人には関係ないでしょ。むかついたから、僕はこれから前髪を伸ばし続けることに決めた。
「ライナス、だってこいつ」
「黙れマーティン、髪が乱れてるぞ」
「そんな事、どうだって良いだろ!」
喧嘩を始める二人を尻目に歩き出すと、マーティンに腕をつかまれた。振り返ると、マーティンはにやりと笑みを浮かべた。嫌な笑みだ。
「おい、一〇二〇号室に来な」
一体何の用があるんだろう? もしかして、今の仕返しでもされるのかな。僕は嫌だったから、即座に拒否した。
「やだ」
「絶対来な」
何なの、この強引な人。多分、というか絶対友達いないよ。ああ、行きたくないけど「絶対来な」って言われちゃったしなあ。行かないと後が怖そうだから、行こうか。仕方ない。
僕は部屋に戻ってしばらくレンティーノの薔薇を眺めていたけど、やることもないので一〇二〇号室に向かう。部屋のドアをくぐると、相変わらず不機嫌そうなマーティンがソファに座ってこっちを見ていた。
「よぉウサギ」
「ウサギじゃない」
大体、僕のどこがウサギなんだろう? 初めてウサギなんて言われた。
僕は早々にマーティンと会話する気をなくす。
「ウサギじゃなきゃモルモットか? 実験台がエラソーな口きくな」
不機嫌そうに言うマーティン。ウサギって、そういう意味で言ってたんだ。僕は納得すると同時に、哀しい現実を悟った。
そうだよ、僕は実験台。だけど……
「君だって実験台だろ」
だって、研究員でない人間がここにいるなんておかしいから。僕の発言を聞いたマーティンは、にやりと笑った。
何かおかしいこと言ったかな、僕。というか、言っちゃ悪いけどマーティンの笑みはとても下劣だと思う。
「よくわかったな? まぁ、ここにいりゃあ実験台だって解るだろうがなあ」
何なんだろう、この人。さっき廊下でぶつかった時と、まるで態度が違う。
何でかきいてみたら、マーティンは喉の奥でくつくつ笑った。話す度に思うんだけど、マーティンには悪役しか向いてない。
「まあな、放っておけねえんだ。てめぇ、弟に似てんだよ。生意気な所とか」
生意気って言われてむっとして、僕はマーティンを冷ややかに見た。そして、視線と同じく冷ややかな声で言った。
「君はリィになんて似ても似つかないけど」
「あんなヒョロヒョロで童顔のホルマリン漬けと同じにされたくないね」
この男、リィを馬鹿にした! 僕はかっとしてマーティンに掴みかかったけれど、いとも簡単に押さえ込まれてしまう。
暫くマーティンに押さえつけられて息を荒げていたけれど、僕はマーティンの腕を振り払って壁際まで後退した。そして、さっさとこの部屋から出て行くためにこういった。
「何の用?」
マーティンはゆらりとソファから立ち上がり、こっちに向かってくる。僕は殴られるんじゃないかと思って、ぎゅっと目をつぶった。
数秒目を閉じて固まっていても、何もされなかった。僕が目を開けると、マーティは僕の目の前にいた。何か言おうと思ったけど、思わず口を閉ざしてしまった。
マーティンが僕を見下ろして、やけに寂しそうな顔をしていたから。
「言ったろ、弟に似てるんだ。興味あったから呼んだだけだ」
僕は黙って、マーティンの横をすり抜けてソファに座った。これは僕なりの「もっと話したい」という意思表示のつもり。マーティンにはこれが伝わってくれたようで、彼はにこりと笑いながら僕の隣に座った。
彼は僕のことを何度も生意気だと言ったし、何度も弟に似ているといった。そして、何度か放っておけないともいった。
よく解らないな、この人のこと。
「ハビにはもう会ったか?」
軽い口調でそう訊ねられて、僕は頷いた。だけど、さっきのハビはやっぱり変だった。だから、そう言ってみた。
「でもさっきは何だか変だった」
もしかしたらマーティンは『ああ、だってあれハビじゃないからな』とか言ってくれるのかもしれない。そんな淡い期待をした。
できればそうであって欲しい。だってあんなハビ怖すぎて近寄れないから。
「ああ、あいつ仕事に熱中すると人が変わるからな。気にするな、我慢しな」
マーティンは気楽そうに笑いながら、ふと黙り込む。
辺りを覆う静寂に、僕は何をして良いかわからなくなる。マーティンの声がないだけで、こんなにもこの空間が怖く感じる。
白で統一されたこの空間。レンティーノと中庭にいたりしたから、束の間だけどこの白を嫌悪する気持ちを忘れていた。
初めてここに来たときの、言いようもない恐怖がよみがえってくる。漠然と怖くなって、マーティンの横顔を見上げる。するとマーティンは僕を見下ろして軽く微笑んで、静寂を破って話をし始めた。
ごく普通の家に生まれたマーティンは、ごく普通に生活していたらしい。だけどある日、マーティンは鍛冶屋の息子に弟を殺された。鍛冶屋の息子はイノセントという奇抜な名前の少年で、事件当時の年齢は僕と同じ位の十歳前後だったらしい。
事件のことをきいて現場に駆けつけると、イノセントは血塗れの服で手を拭いていた。マーティンは激昂してイノセントを殴ろうとした。でも、警察に取り押さえられたからそれもできなかった。
イノセントはマーティンと目が合うと、謝りもせずに警察の車に乗せられていった。イノセントは最後まで無表情だった。まるで、自分が悪いことをしたなんて思っていない風に。
「俺、あいつを殺す。止めるな」
静かな声でマーティンは言った。それきり、また静寂が訪れる。僕は静寂が怖かったのもあって、早急に答えた。
「止めないよ、僕も父さん殺しちゃったから」
そう答えるとマーティンは意外そうな顔をして、それから安心したような笑みを漏らした。童話でも語るように、マーティンは柔らかな声で僕に弟の話を聞かせてくれた。僕はマーティンの話をじっと聞いていた。
マーティンが喋っていれば静寂に怯えることなんかないし、何よりマーティンが弟のことを話すときってとても幸せそうに見えたから、僕は彼のそんな意外な一面をもっと見たかった。もしかすると僕もリィのことを喋る時には、こんな風に幸せそうに笑っているんだろうか?
だけど僕は、リィとは半分しか血のつながりがない。いいなあ、マーティンは。マーティンと弟はちゃんと、同じ親から生まれたから。僕もリィのお父さんの子として生まれてきたかった。
だって今、この身体には忌々しい殺人鬼の血が流れてる。この身体には、リィを殺した憎くて憎くてたまらない男の血が流れてる。
もう嫌だ。僕さえ生まれていなければ、リィはきっと母さんと本当のお父さんと一緒に何不自由なく暮らせていただろう。
リィ、ごめんなさい。リィの幸せを壊しちゃったのは、他でもない僕だ。そう考えてると、涙で目の前が滲んでくる。
すると、マーティンの大きな手が僕の髪の毛をわしゃわしゃと撫でた。同じことを、リィもよくしてくれた。リィの方が優しく撫でてくれたし手も華奢だったけど、僕は一瞬リィが戻ってきてくれたのかと錯覚してしまう。
誰かの前で泣くなんて癪だったし、その『誰か』がマーティンだなんてもっと嫌だけど。だけど僕は、静かに俯いて泣いた。
マーティンはただ黙って、僕の頭をわしゃわしゃと撫で続けていた。
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