きっと幾ら離れていても、僕らは同じ月を見ているはずだから――。
そういった彼のことを、何度でも思い出す。否、最初から忘れてなんていない。
何歳になっても消えない胸の痛み。僕を蝕んでいく、妖魔のような鈍い痛み。この手を血に染めた遠い記憶が、夜毎僕を襲い来る。
床にうつぶせになった彼の腹部から、抑える手を無視して流れ続けている出血。真っ白な肌に絡みついた鮮血の赤が、酷く毒々しい。彼が虚ろに見開いているのは、濁りかけた漆黒の瞳。僕を安心させようとして、彼は無理に笑っている。そんな彼が、僕の目の前でどんどん冷たくなっていく……。
ここでいつも、息を荒げてベッドに上半身を起こす。こんな痛いだけの夢を見るのなんて、もう最後にしたい。だって夢の中で彼は、いつも苦しそうに笑ってるんだ。――生きたいよって目をしながら、血の海に沈んでいくんだ。
もう、赦してください。僕を自由にしてください。お願い、僕を逃がして。誰か、この呪縛から僕を救い出して。僕は、彼を救えればそれでいいんだ。だからもう、二度とこんな夢を見せないで。
毎朝、ひどい目覚めだ。
皮肉なことだけど、僕は自分の名が大嫌い。だから、呼ばれるたびに嫌悪感が体中を這い回る。それでもこの名は大切な人に好きだって言ってもらえた名だから、捨てるわけにもいかない。
これは、僕がまだ八歳だった時の出来事。八歳の僕は、まだ大切な人を失うことがどういうことなのか、全く解っていなかった。
「
明焔、買出し行こう」
明るい声が聞こえてくる。ここはとある海辺の町。僕の生まれ故郷だ。当時の僕は、同年代の子供達と比べると幾分か華奢で小柄な子供だった。
僕を呼んでいる、その人の名前は
麗水。僕の、一番大事な人。普段はもっぱら略してリィって呼んでることが多いんだけど、本名のリィシュイも綺麗な響きだから好きなんだ。彼は僕の種違いの兄で、当時十五歳だった。
その日、僕はリィと一緒にでかけた。行き先は一軒の酒屋。僕の実の父親は酒乱だった。父親はしょっちゅう僕らを脅して、酒を買いに行くように怒鳴った。だから僕は、その日リィと一緒にいつもどおりに酒屋に行った。
酒屋の店主は良識ある人で、俗に言う虐待を受けていた僕らをいつでも優しく保護してくれた。その日も、店主は僕らの頬や腕に残った切り傷を処置してくれたりした。
もう家に帰らなくてはならない。家に帰れば、父親が酒を飲む。父親は酒を飲むと暴れる。僕らは、父親から暴力を受けることになるのだ。それが嫌で、僕はずっとここにいたかった。
けれど、酒が遅いと父親の暴力も倍になる。それはもっと嫌だから、僕はさよならの代わりに酒屋の店主にお礼を言った。
いつもどおりなら、このまま酒を持って何事も無く帰れるはずだった。だけど、今日に限って平穏は続かなかった。
「父さんのことは嫌いだけど、明焔は僕の大事な弟だよ。だから、そんな悲しそうな顔しないで。父さんがこれから何しても、僕が明焔を守るから」
唐突にそんなことを言われた。知らぬ間に感情が顔や仕草に出るのは僕の嫌な癖で、いつもこうやってリィには心配ばかりかけていた。でも今回は、リィのそんな言葉すらいつもと何かが違うような気がしていた。そう、何となく悪い予感のようなものを感じていたんだ。
「リィ、何かおかしくない?」
「そうでもないよ。早く帰ろう」
リィのぎこちない笑いが気になったけれど、僕は素直にリィの隣に並んだ。酒瓶を入れた袋は重かったけれど、頑張ってこらえた。
酒屋から出ようとしてカウンターに背を向けると、急に酒屋に飛び込んできた男がいた。小柄な中年で、大きな酒瓶を手にぶら下げている男だ。……認めたくないけれど、僕の父親。
「いつまで待たせるんだ、てめえら? そんなに死にたいか」
「やめなさい、親父さん。明焔も麗水も傷だらけじゃあないか」
いきなり怒鳴り始めた父親を、店主は宥めてくれようとした。だけど次の瞬間くぐもったうめき声を上げてカウンターに突っ伏した。
何が起こったのか、初めは理解できなかった。だけど僕は、カウンターの上に流れる赤い液体を見て唐突に悟った。
――刺された!
優しかった店主は、僕の父親の手によって殺されたんだ。しばらく店主はもがいていたけれど、やがて動かなくなった。虚ろに見開かれた店主の双眸は、もう何も見ていない。
店主は、胸を刺し貫かれてカウンターの上に事切れたのだった。
「父さん!」
リィの叫び声が聞こえて父親のほうを見れば、彼はアルコール度数の高い清酒を床に撒き散らして狂ったように笑っていた。
そして次の瞬間、僕は見てはいけないものを見た気がした。
火のついたマッチが一本、彼の手によって床に落とされた。とたんに物凄い勢いで炎が燃え広がりだし、酒屋はあっという間に火の海になった。頭の中は真っ白になり、僕は何を考えて良いのかもわからず立ち尽くした。頭の中を占めるのは、恐怖の感情のみ。僕は怖くて、恐ろしくて、壊れそうだった。
リィの次に好きだった酒屋の店主は殺されて、そのなきがらはたった今から僕の前で火に包まれようとしている。そして、酒屋の店主の命を奪った張本人は火の海に周りを囲まれながら平然と酒を飲んでいた。
人を殺して放火した分際で、良く酒なんて飲んでいられる。自分にもこんな殺人鬼とおなじ血が流れているのかと思うと、ぞっとした。
「明焔、逃げよう! こっち!」
リィの声が聞こえた。僕は必死で火の中をかいくぐり、リィのもとにたどり着いた。やっとリィの細腕にしがみついた時には、息も荒くなっていたし目の前も涙で霞んでいた。泣きそうになりながら、リィの手を強く握り締める。
「リィ、早く逃げよう、逃げようよ」
「にがさねえよ」
焼かれた木がはじける乾いた音に混じって、父親の声が聞こえた。いつも僕たちを脅す時に出す、冷たい声だ。僕はびくりと身を震わせ、リィにぎゅっと抱きついた。リィはそんな僕の頭を、優しくなでてくれた。
「明焔は、ここから逃げて。言ったでしょ、僕は君を護るから」
リィの落ち着いた声が聞こえる。僕は足がすくんで動けなかった。それでも動こうとしたら、しりもちをついて無様に転んでしまった。幸い僕の背後にまではまだ火が回っていなかったので、僕は焼死しないですんだのだけれど。
逃げなきゃ。そう思うのに、足は弱弱しく床を擦るだけで少しも役に立ってくれない。
リィが僕を見下ろした。そしてにっこりと、儚げな笑みを浮かべた。恐ろしさを感じる。リィがこの手を離れていくことを、はっきりと感じ取った。嫌だ、やめて! 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!
僕には何となく解っていた。これがリィの最期の笑みなんだと。だけど受け入れたくなんてなかった。リィがいなくなったら僕はどう生きれば良いの?
今まで、父親の虐待にだって二人で耐えてきた。学校から帰る時も絶対一緒に下校するようにした。じゃなきゃ、先に帰った片方が酷い虐待を受けるから。リィは『十五にもなって弟と一緒に帰っている』とか陰口を叩かれていたみたいだけど、いつも何も言わずに笑ってくれていた。
リィの隣だけが、僕の居場所だった。その居場所を奪われてしまったら、僕には生存できる空間がなくなってしまう。
「ねえ、明焔? きっと、幾ら離れていても僕らは同じ月を見ているはずだから。だから、寂しくなったら月を」
ぐしゃっ。
酷く耳障りな音がして、リィの言葉が途中で途切れた。そしてリィは、僕のすぐ目の前に倒れこんだ。
腹部に開いた傷口を押さえるために添えられたリィの白い手には、幾筋もの真っ赤な血の筋が絡みついている。頭の中が真っ白になった。自分の目の前で何が起きたのか、僕には理解できなかった。
リィは重々しい動作で頭を少しだけ上げた。だんだん虚ろになりかけてきた目を僕に向けて、精一杯笑いながら、それでも死にたくないよって顔して。
――僕は、叫んだ。
叫びながら父親の身体を火の海に突き飛ばして、白髪になりかけた黒髪を鷲掴みにした。そして彼の手から凶器を奪う。
酔いが回ってきたせいか、父親はいとも簡単に八歳児に倒された。酔っ払って動きに切れがなくなってきた父親の喉を、僕は奪った凶器で一突きにする。両手に握った刃物に全体重をかけて、刃を父親の喉に深く食い込ませた。
生温い返り血が顔に飛んできて気持ち悪い。血を浴びるということ自体が嫌だったし、なおかつこんな
下衆野郎の血なんて見るのすら嫌だった。きっと刃物を抜いたらもっと血が出てくるだろうから、僕は父親の体を火の中に転がしたまま駆け出した。勿論、凶器も死体の喉に刺したままだ。
ふと思いとどまり、父親の手を軽く凶器に添えさせておく。自殺にみせかけてごまかしてしまえば、罪人としてしょっ引かれずにすむかもしれないから。
このままこんな所にいたら酒屋が崩れた時に下敷きになってしまうから、僕はリィの腕を掴んで、半ば引きずるようにして逃げ出した。
窓を叩き割って、リィの身体をそっと放り出す。そして、僕もすぐに窓を乗り越えてリィを背負うようにして逃げる。
どうしようもなく怖かった。怖くて、怖くて、もう壊れてしまいそうだった。リィの身体の冷たさが怖い。自分が犯してしまった殺人がばれるのが怖い。そして何より、人を殺してしまった自分自身が怖い。いつ、誰を殺すか解らない。もう、僕は普通の人間じゃないんだ。
気を抜けば誰かが追いかけてきそうで、僕は死に物狂いで逃げた。なきながら、どこまでも走り続けた。よく気を払えば自分の体が傷だらけでなおかつ火傷だらけなのにも気づいただろうけど、僕はもう自分になんて気を留めていられなかった。リィをどうしよう? 病院は何処?
リィが十五歳にしては小柄で軽かったのが幸いして、僕はリィを運んでこれた。緊急事態だったから、『火事場の馬鹿力』とかいうものを発揮できたのかもしれない。
しばらく走った僕は、川原で立ち止まった。随分と逃げて来ることができたようで、町の光や火事があった酒場が遥か遠くに見えた。
リィは息をしていない。嘘みたいに冷たくなって、見るからに血の気の失せた顔をしてる。実際にリィの出血は物凄かったし、長距離を背負ったり引きずるようにしたりして運んできていたから血の気が失せるのも当然だと思う。
早く医者に見せなきゃ、リィが死んじゃう。リィにもう二度と話しかけてもらえなくなっちゃう。
「リィ、起きてよ」
声をかけても返事は無い。最後になんて言いかけたか、それだけでも構わないからもう一度僕の目を見て話して欲しい。そして、もう一度明るい声で名前を呼んで欲しい。リィがこのまま息絶えてしまうなんて、絶対嫌だ。
「おい、坊主」
いきなり声をかけられて振り返ると、白衣を着たおじさんが僕を見下ろしていた。白衣だけど、ひ弱なインテリって感じの人じゃない。全然知的そうに見えないし、白衣なんか全然似合っていない人だった。その風体は、研究員や医者みたいな知力はないのに、体力勝負のプロレスラーが格好だけ医者を真似てみた感じに似ている。
僕はリィの腕を自分の肩に回して、リィの身体を一生懸命支えながら逃げた。ああいう男には、何をされるかわかったものじゃない。今の僕には、リィと僕しか信じられる人がいないから。
「リィ、リィ。リィ、起きてってば」
走りながら声をかける。涙で前がぼやけた。そして、ぼやけた視界のせいで足元がよく見えなくて、何かに
躓いて足元が泳ぐ。
「おい! 大丈夫か」
後ろであの男の声が聞こえる。僕はまた立ち上がって逃げようとした。足元がふらついた。それでも、歩みを止めるわけにはいかなかった。
捕まったら大変なことになる。僕がリィを殺したと思われるかもしれない。警察が僕を取り囲んで、いっせいに捕まえようとするんだ。そして僕は、頑丈な手錠で拘束されて牢屋に入れられる。警察が僕を捕らえようと躍起になっていたせいで、リィは怪我の治療が遅れて死んでしまう……
「ああっ」
背中が軽くなった。リィを取られたんだ。
「リィ!」
さっと振り返ってリィを取り返そうとしたけれど、鳩尾に重たい一撃を食らって意識が暗転した。意識が落ちる寸前に、おじさんが何か言った気がしたけどそんなことはどうでもよかった。
――ねえ麗水? 僕らはどんなに離れていても同じ月を見てるって言ったのは麗水だよね? 嘘言わないで。そんなこと言い置いて、離れていかないで。
もう僕を、置いていかないで……