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弥生記

作者:久保奈々
 どこまでも突き抜けるかのような青空の日であった。弥生の月も終わろうとしている、湿った空気の漂う少々汗ばむほどの陽気に包まれた日だった。
 朝露がまたひとしずく、青い葉の上をすべり、音もなく地面に落ちては染みをつくっていく。この時刻ではまだ陽のひかりはそれほど強くなく、空の上で淡く輝いているのみだ。
 ここ数日、雨が降り続いていたため、太陽を見るのは久々である。
 昨晩の雨のにおいが残る風に吹かれると、心が清く洗われるような心地だった。雨は天がくれる恵みである。その恵みをめいいっぱい吸い込むと、彼は手をせっせと動かしていく。
 早朝から庭の手入れに余念のない依彦のもとに、ひとりの女性が歩み寄った。歳は十代半ばといったところであろうか、大きな瞳に艶やかな髪、穏やかで優しげな雰囲気を纏う少女だった。
「依彦さん」
 その鈴の音のような可憐な声に呼ばれ、依彦が顔を上げると、そこには見慣れた顔があった。彼女は柔らかな微笑をたたえて彼を見つめている。
「あれ、呼都。こんな早くに来るなんて、なにかあったの?」
 無邪気で陽気な笑顔で問いかければ、彼女はおかしそうに笑う。
「紫多羅さんが、依彦さんに用があるそうで、わたくしの屋敷にいらしたのですよ。あの方はこちらには入れませんから」
「紫多が?」
「はい。わたくしの屋敷にいらっしゃるので、お仕事がひと段落しましたらお越しくださいませ」
 その丁寧な言葉遣いからは、言われようのない気品が漂っている。所作のひとつひとつを見ても、優雅で洗練された、身分のよさが表れていた。
「わかったよ。あと少したら、庭の手入れも終わるから、そしたら行くって伝えておいてよ」
「わかりました。このような朝早くから、お疲れさまです」
 恭しく一礼すると、彼女は踵を返し、去っていった。いつ見ても、姫らしい女性だと、依彦はなかば感心したように思うのだった。
 依彦は、この国の女王の屋敷で下人として働く男である。歳は十八。とある事情により女ばかりの屋敷のなかで、男は彼のみであった。
 彼の仕事は、おもに雑用であった。庭の手入れから炊事、掃除や洗濯、屋敷内のことならばなんでもこなさなければならず、とりわけちから仕事に関しては侍女たちから絶大な期待と信頼を寄せられている。
 彼自身、そんな仕事を心から好んでいる。やりがいのある仕事であるし、仕事が大変であればあるほど、自らの存在意義が確かめられるような気がした。
 あと少しで向かう、と告げたものの、今日の庭の手入れは思ったよりも強敵で、気がつけば昼の時刻が近づいていた。
 陽のひかりを浴びながら、長い時間ずっと作業を続けていた彼の額には、じっとりと汗が浮かんでいた。
 あの飄々とした親友は、いまだ待ってくれているだろうかと少々不安に駆られながらも、彼は呼都媛の屋敷に向かっていた。
 紫多羅は依彦の親友であり、だいぶ長いつきあいになるのだが、それでも時折、彼がなにを考えているのか依彦にすらわかりかねることがある。その腹が見えないところこそ、彼が彼たる証でもあるのだが、いつもこうやって唐突に呼び出されるときは、たいていろくな目に遭わないということは経験から熟知している。
 少し歩いていくうちに、水田が見えてきた。
 稲作は昔、海の向こうの異国からやってきた人間により伝えられたと聞く。誰がなんのために稲作を伝えてきたのか、といったことは依彦たちにとってはどうでもいいことであったが、倭国とは異なる海のかなたにある国といったものにはいささか興味があった。
 水田で仕事に勤しむ人々を見ながら、依彦は歩を進めてゆく。こうして見る景色は、まるでのどかで平和そのものだった。国の外では、いまも倭国中で戦が行われているということが、すべて嘘なのではないかと思えてしまうほどだ。
 深い思考の海に浸っているうちに、いつの間にか呼都媛の屋敷が見えてきていた。
 呼都媛の屋敷はこの国でもそこそこ大きいほうだ。彼女は身分が高い生まれであり、生まれとしてはかの卑弥呼よりも上とされる。特例として女王の屋敷に仕える依彦でも、呼都媛の屋敷の大きさには少々驚いてしまう。
「おう、凄腕庭師さんではないか。こんなところに、なんの用だ?」
 面白そうに弾む声音。男にしては高く、女にしては低いその中性的な声は、紛れもなく紫多羅その人である。
「庭師じゃないって。雑用係と言ってくれよ」
「普通、そちらのほうが嫌だと思うが」
 不敵な笑みを浮かべる紫多羅に、依彦はふっと微笑む。普段女ばかりの屋敷で働いていると、この憎たらしくも愛嬌のある顔を見るだけでもどこか安心できる。
「そもそも、おれのどこが”凄腕”なんだよ。庭師になった覚えもなければ、凄腕なんて呼ばれる覚えだってないんだけど」
 それを聞くや、紫多羅はさも意外だと言わんばかりに目を見開き、依彦の肩に手を置くと、にやりと笑いながら言う。
「知らないのか。おまえ、あの屋敷の女中の方々にかなり評判がいいらしいぞ。なんでも、おまえが手入れした庭がとてもきれいだとか」
 依彦が、思わず目を見開く。
「まさか、そんなことはないって。だっておれ、庭の手入れを学んだことなんてないよ」
「そこがいいのだろう。学んだ者がやると、どうしても型にはめたようになってしまうからな。学んだことのない者がやったほうが、面白味が出るんだよ」
 そんなものなのか、と頭を抱える依彦のもとに、呼都媛が静かな足音を立てながらやってきた。ふたりの顔を見ると、彼女はまるで女神が降り立ったかのような微笑みを浮かべた。
「紫多羅さん、依彦さん。お水をお持ちいたしました」
 彼女の手には、土でできた湯呑みがふたつほど乗った盆が乗っていた。品のよい所作で湯呑みをふたりの前に置き、自らは依彦と紫多羅が向かい合う横に座した。湯呑みの中は、とても澄んでいるきれいな水であった。
 彼女は目を細めて紫多羅に問いかけた。
「それで、わたくしと依彦さんに話されたい大事なこと、とはいったいなんなのですか?」
 その問いに、紫多羅はぽん、と手を打ち鳴らした。
「おお、そうだった。実はな、国のはずれにさびれた空き屋があるのだが、そこに出るらしいのだ。それはそれは美しい、女の霊が」
 湯呑みに手を伸ばした格好のまま、まるで凍り付いたかのように、依彦の動きがぴたりと止まった。
 呼都媛は驚いたふうもなく、ただ穏やかな微笑を浮かべているのみ。依彦はどう返答をしたらいいのか、悩んだ。
 霊、それは死んでからもなお、強い思いや未練を残した人間の、いわば思念のようなものだ。実体こそないものの、それらは善くも悪くも、生身の人間にも影響を与える。
 高尚な存在として考えられている彼らだが、しかしそれがどういったものなのか、たいていの人間は知ることができなかった。
 依彦もまた実際にそういった類のものには出くわしたことはなかったが、あまり考えたくないものであった。自分の考えすらも及ばない存在というものは、それだけで恐ろしさを抱いてしまう。
「おいおい。霊ってなんだよ。おれはいやだよ、そんなところに行くのは」
 少々うんざりしたような様子の依彦に、紫多羅はにやりと口の端をつり上げた。依彦から盛大なため息が漏れた。
 紫多羅がこの笑みを浮かべるときは、たいていなにかを企んでいるときなのだ。そして、この笑みが出たが最後、嫌が応でもつきあわされることになるのだ。
「察しがよいな、依彦。おれは決めた。今夜、おれたちはその霊に会いに行くぞ」
「おれたち、ってことはおれや呼都も入っているのか。冗談はよしてくれ」
「冗談なんかじゃないさ。おれは本気だぞ。だいじょうぶだ、呼都媛を危険な目に遭わせたりはしないさ」
 こういうことを恥ずかしげもなく言ってのけるあたり、女に対しては優しい紫多羅だった。
「おれはどうなるんだよ」
「知らん。自分の身は自分で守れ」
 依彦は今日になってから二回目となる、大きなため息をついた。
 親友のその子供のように無邪気な笑みを見ていると、もはや反論する気も削がれる。
 しかし、彼の巻き起こす厄介ごとにつきあうことを、いつしか楽しんでいる自分がいることにも、彼は気がついていた。
 彼は、自分では思いつかないようなことを考えては、自分を非日常の楽しい経験へと導いてくれる。口では文句を言いながら、次はどんなことをしてくれるのかと、心がわくわくしている自分がいるのだ。
「わかったよ、おまえのことだ、もうなにを言っても聞かないんだろ」
「そのとおり。わかっているじゃないか」
 紫多羅は満足そうにふふんと鼻を鳴らすと、床に石や団栗などを家や川などに見立てるように並べてゆく。団栗が呼都媛の屋敷、粟を並べた箇所が川、麻布の部分が林で、その端に置かれた石が目的の小屋らしい。
 指で経路を追いながら説明してゆく。
「この屋敷からずっと南に下っていくと、川がある。これを渡ってすぐ右の林の奥に、小さな小屋がある。そこが目的の小屋だ。月が出る頃になったら、ここ、呼都媛さまの屋敷前にて集合だ。わかったか?」
 南にある川も、そのすぐそばの林も、ふたりはすでに見知っている。そう遠い距離ではない。
 依彦と呼都媛がほぼ同時に頷くと、紫多羅はさも満足そうに頭を縦に振った。

 夜までにまだ時間があるため、依彦は再び仕事場である屋敷に向かった。紫多羅たちと色々と話し込んでしまったために、空はすでに日が暮れ始めていた。
 西の方角の空は、茜色に染まっていた。燃え盛る炎のようにも見えるし、誰かの流す血の色のようにも見える。
 ふと、依彦が仕える主が、夕暮れの空を「悲しみと優しさの色」と言っていたのを思い出す。彼にはその感覚があまりよくわからず、思わず首を傾げてしまった。
 炎と、血。それはつまり、彼の過去を表しているようで、彼は一度もきれいだと思ったことはなかった。
 風のなかにも、凛とした夜の空気が混じりつつあった。太陽と月がその役割を交換し、太陽が眠りにつこうとしているのだ。
 春を迎えたとはいえ、夜になればまだ冷える。昼の陽気と夜の冷気が混在するこの時間帯は、なんとも言えぬ不思議な雰囲気が漂っていた。
「依。どこへ行っていた?さしずめ、また姫のところでうまい茶でも飲んでいた、といったところか」
 凛とした声音。鈴の音のようなすずやかな美しい響きのなかに、どこか鋭さを思わせる、少々強気な挑発的な色を含んだ声だった。
「当たらずも遠からず、ってところだよ」
 不敵な笑みを浮かべて姿を現したのは、この大国、邪馬台国を統べる女王、卑弥呼であった。依彦の勤める屋敷とは彼女の屋敷であり、彼の主というのは、なにを隠そう、彼女であるのだ。
 “鬼道”と呼ばれるちからを駆使するという女王、卑弥呼。そのちからが具体的にどういったものなのか、理解している人間はごくごくわずかであり、彼女のちからはそれを扱う一族のなかでも極端に秀でていると聞く。
 非常に高圧的な物言いで、人を寄せ付けない雰囲気を漂わせてはいるが、その陰に潜む彼女の心は誰より優しいものだということを、依彦は知っていた。
 そして、その物言いやふるまいが、自分を守るための苦渋の策だということも。
 しかしながら、かの女王、卑弥呼に対してさも対等かのような口を利くというのは、国中探しても彼以外にはいないであろう。
「なんだ。つまらんな。愛する女のところに通っていたとかなら、根堀り葉掘り聞いてやったものを」
「そんなわけないよ。おれが、女をつくるだなんて」
苦笑してみせるが、実際、笑えない冗談であった。
「まあいい。で?何の用だったのだ、紫多羅の用とは」
「ああ、それがね、聴いてくれよ。あいつってばまたとんでもないことを言い出してさ」
 依彦の一連の話を聴いた卑弥呼は、口の端をぐいとつり上げた。
「面白そうだな。行けることならば、わたし自ら赴きたいくらいだ」
「じゃあ、代わりに行ってくれよ。おれは、いやだ」
 眉間に皺を寄せて頬を膨らませる依彦の顔に、卑弥呼は声を上げて、腹を抱えて笑いだした。目の端にはうっすら涙まで浮かんでいる。
「おまえ、この期に及んで霊が怖いか?」
 卑弥呼は、不満そうに唇を尖らせる依彦の顎を、そのすらりと細く長い指で上に向けさせると、艶の含んだ瞳で彼を真っ直ぐに見つめた。
 ふたりの間に、恋愛感情は存在しない。だからこそ、このふたりの見つめあう姿は、夜に似つかわしい、色気の漂うものだった。
「怖い」
 否定するかと思いきや、真っ向からきっぱりと肯定してみせた依彦に、卑弥呼はふっとほほえんだ。姉が弟を愛でるようなやさしさの色に染まった笑みである。
 指を依彦から離すと、卑弥呼は縁側に腰掛けた。その仕草はとても女王のものではなく、むしろ一介の村娘のような、雑で素朴なものであった。
「そうか。そうだな、ひとつだけ、いいことを教えてやろう」
 一呼吸置くと、卑弥呼はごく真剣なまなざしを、依彦へ注いだ。
「優しく甘い言葉を用意しておけ、ということだ」
「はい?」
 その言葉の真意がわからず、目を丸くする依彦に、卑弥呼は唇をほころばせ、彼の頭に優しく手を置いた。
「まじないだ。おまえが、霊とやらにたぶらかされぬようにな」
 卑弥呼の手は思いのほか温かく、それだけで心が静まっていくような感覚をおぼえた。
 肉親のいない彼には、この姉のような女王が、とてもいとおしく思えてならなかった。
 この国の出身ではなく、あのような過去を持つ自分のことを認め、受け入れ、笑い飛ばしてくれた人だ。いつしか、彼女を守りたいという想いが、彼のなかにも芽生えていた。
 紫多羅との約束の時刻を迎えた。あたりはしんと静まりかえり、なにも見えない夜闇のなかを、灯りを手に、ひとり歩いていく。
 夜の静寂が、心地よかった。夜の風には、しっとりとしたにおいが含まれており、さらにしんとした冷気を纏って頬をなでるそれは、なんともいえない解放感がある。
 その夜は、満月だった。古くから、満月は不吉の前兆と言われている。依彦の脳裏に、さきほどの女王の言葉がよみがえる。
「霊なんて実体がないのに、人をたぶらかすようなことがあるのかな」
 そんなひとり言をつぶやいてみる。そのひとり言に、返答があった。
「だいじょうぶだ。もしおまえになにかあったなら、そのときはおれが責任を持って、葬ってやろう」
 笑えない冗談を口にしながら、紫多羅が笑う。隣には呼都媛の小柄な姿も見える。
「うん、けどそのときはおまえも連れていくから、それは無理だな」
「あいにくだがおれは、男と心中する趣味なぞ持ち合わせておらぬ。悪いが、ほかを当たってくれ」
「あ、ご心配なさらないでくださいね、依彦さん。さきほど、紫多羅さんはあなたのことをとても好きだとおっしゃってましたから」
 くすくすと笑い声を漏らしながら、呼都媛はそう付け足した。その途端、紫多羅が軽く噴き出した。
 いつも冷静沈着で、感情を滅多に表に出さない紫多羅があわてている、というのがとても珍しく、妙におかしかった。
「違うぞ、依彦。それはだからな、おれは人間としてのおまえを尊敬しているのであって、友達としても申しぶんのないやつだということであってだな。別におまえのことを愛しているとか、そういうことではまったくないからな」
「あ、あたりまえだろ。なにを言っているのさ、少し落ち着け」
 あまりに動揺したのか、とうとう咳き込んでしまう紫多羅の背中をさすってやりながら、依彦はこの素直なのかそうでないのかよくわからない友との出会いを、思い返すのだった。

 予定通り、三人は南へ向かった。この広大な国は、自然に富んでいた。山はそびえ、川は流れ、森は茂り、雨は降る。
 古来より、自然は神だと信じられてきた。各地に言い伝えられている神々は、そのどれもが、自然を神格化したものたちだ。すなわち、自然こそが神であり、人間はいついかなるときであっても、神とともに在り、神に見守られているということなのである。
 いつだったか、自然を畏れることを知らず、それらを手中に収めようとした王がいた。自然を制することができれば、倭国の民はおののき、自らについてくるだろうとの考えだったようだが、その末路はとてもあっけないものだった。
 それは、もはや自然の怒りを買ったのだとしか言えないような、あわれな死に方であった。
 卑弥呼の鬼道は自然をも操る、と依彦は以前、耳にしたことがあった。そんなことが人間にできるのかと、なかば面白がって彼女の屋敷へ潜入することを実行したのだが、いまだに彼女の口からそのような事実は聴いたことがない。
 鬼道とは一体どのようなものなのか、把握こそできていないものの、邪馬台国の民が言うような神のちからなどではないことくらいは、依彦にもわかっている。
 彼女に、依彦や国の民たちと違うところがあるとすれば、大きな優しさと包容力、そして明晰な頭脳くらいであろう。
「さて、問題の小屋は、どうやらこの林の奥のようだな」
 紫多羅のその声で、依彦ははっと我にかえった。気づけば三人は川を越えた林の前におり、目的の小屋はこの林の最奥部である。
「だいじょうぶか、依彦。おまえ、ここまでずっとなにか考えごとをしていただろう。具合でも悪いのか」
「いいや、そんなことはないよ。行こう、なにかいるかもしれない」
 心配顔のふたりを安心させるように笑いかけ、依彦は率先して森のなかへ踏み入った。
 夜闇のせいで、前の様子がまったく目に見えない。足下はぬかるんでおり、時折、木の根が隆起している箇所もあり、思いがけないところで転びそうになる。
 手で周囲を探りながら進む道のりは、思っていたよりもはるかに厳しく、体力が奪われ、すぐに息が上がってしまった。
 それでも、後を歩く呼都媛が少しでも歩きやすいよう、できるだけ地面を踏みならしながら進んでいかなければならない。
 呼都媛は男である自分や紫多羅とは違い、歩くのには適さない服装なのである。男であるふたりが、彼女の歩む道をつくるのは、当然でもあった。
 垂れ下がる枝や生い茂る草などを押し分けながら進むと、一軒の小屋が、世間から身を隠すようにひっそりと佇んでいた。小屋と言うにはあまりにも簡素なつくりのようだ。
 人々から忘れ去られ、風化が激しく、小屋自体がやや傾いている。小屋のすぐ横に、水を運ぶときに使うのだろう桶が転がっていたが、それはもはや形をほぼ留めておらず、目を凝らしてやっとそれとわかるような状態である。
 外壁には無数の蔦が覆うように這い、所々に崩れたような跡があり、そこには大きな石が乱雑に積まれ、ここからではなかを見ることはできない。
 蜘蛛があちらこちらに立派な巣をつくっている。
 依彦は、これほどに古い、そしてさびれた小屋はいまだ見たことがなかった。
「これはこれは、いかにもといった感じだな、依彦」
「なぜそこで、おれに同意を求めるのさ」
「いや、なんとなく」
 緊張感のかけらもないような会話を繰り広げていると、ふたりは隣にいた呼都媛の様子があきらかに変化したことにやっと気づいた。
 彼女の表情からは血の気が失せており、手にした灯りに照らしてみても、そこに生気が感じられなかった。体は小刻みにふるえ、目を見開き、声すらも出せないようで、彼女の様子からは確かな恐怖の色が見て取れた。
「呼都、どうした、気分でも悪いのか」
 紫多羅が声をかけるが、それすらも彼女には届いていないようで、眼前の小屋を見つめながらただふるえるのみだった。
 尋常ではない雰囲気を感じ取ったふたりは、呼都媛を少し離れたところに退避させ、ふたりのみでの突入を決意した。
「呼都、少し離れていてくれるか。中へは、おれたちだけで行ってくるから」
 呼都の視線に合わせるように身を屈め、ほほえみかける。ずっと小屋を見つめていた呼都の視線が依彦に移り、その手が彼の腕にすがるように伸ばされた。
「だめです、行ってはなりません。あそこにあるのは、霊などではなく――」
「わかってるよ」
 呼都媛の言葉を遮り、依彦は目を細めて柔らかくほほえんだ。
「わかってるんだ、さっきから。おれの心の奥がね、鈍い痛みを叫んでるんだ。よくわからないけど、きっと、おれに関係してるんだ。きっと、おれが行かなければならないんだよ。そんな気がするんだ」
 呼都媛の目の端に、涙が浮かんだ。
 理由などわからないのだが、依彦の心はその言葉通り、鈍い痛みを感じていた。行かなければならないのではなく、呼都媛の言葉通り、行ってはならないのかもしれない。依彦はうすうすそう感じていたが、口には出さなかった。
「依彦」
 親友の鋭い声が聞こえた。いつものんきに飄々としている紫多羅が、彼らしからぬ敵意むき出しのまなざしで、まさに小屋へ突入せんとしていた。
 依彦もそれに続き、小屋へ向かった。呼都媛の大きな瞳が、そのふたりの背中をしっかりと映していた。
 小屋のなかは、腐臭と血のにおいでむせかえっていた。あまりの気持ち悪さに吐き気がこみ上げてきたが、無理やり飲み込んだ。
 手にしている灯りで部屋のなかを照らしてみるが、特になんの気配も感じられない。ふたりは、奥へ奥へと歩を進めていった。
「依彦、なんだ、これは」
 紫多羅が声を上げた。そこには、驚きと、戸惑いと、そしてどこか冷ややかな色が含まれていた。
 紫多羅の足下を照らしてみれば、そこには目も当てられないほどの無惨な死体が無造作に転がっていたのだ。
 それは、ほんとうに人だったのかと疑いたくなるほどに、惨たらしいものだった。どこが頭で、どこが足なのかすらも判別がつかず、焼け爛れ、体は獣に喰い散らかされたように肉が裂け、骨まで見えている。内臓らしきものは見あたらず、おそらくなにかに喰われたのだろうとふたりは思った。
「これは、呼都を連れてこなくて正解だったな」
 口元を押さえながら依彦がつぶやいたとき、辺りに背筋が凍てつくような冷気が立ちこめた。それはふたりの体を包み、冷たい手で心臓をわし掴みにされたように体が動かない。
 異常なまでに研ぎ澄まされた、そしてあまりに強大な殺意のようだった。あるいは、それ以上の敵意だとも言えようか。
 つい先ほどまではそんな気配すら感じられなかったのにもかかわらず、その冷気の先にはひとりの女が立っていた。依彦たちの額に、嫌な汗が伝う。
 それは、正確には女だった、と言うべきだろうか。もはやこの世のものではないようだった。髪を振り乱し、その表情はまるで鬼か、もしくは妖のものか。
「おまえは、健羽の者であろう」
 聴くだけで、心が冷たい敵意に浸食されるような声であった。
 その名を聴くのは、依彦自身、久方ぶりのことであり、そのうえ見も知らぬ霊に問われるとは、思ってもみなかった。
「そうだとしたら、なんだというのさ」
 背中に嫌な汗が伝うのがわかった。
「わたしは、健羽の伊里彦に殺された。奴の前を通った子供をかばっただけでな」
 伊里彦という名は聴いたことがないが、ありうる話ではある。依彦の父親は、十にも満たない頃に、実の父母を殺している。血も涙もない生ける鬼だ、と国の民からも囁かれ、その死にざまも、無惨なものであった。
 そして、その血が自分にも流れていることを、彼は身をもって知っていた。
「だからわたしは、健羽を末の代まで呪ってやるのよ。おまえも知っているであろう、おまえの先祖のそれはそれはすばらしい死にざまを」
「そうなのか、依彦」
 神妙な面持ちで尋ねる紫多羅に、依彦は一度、うなづいてみせた。
「たしかに、おれの先祖も、肉親も、とても他人には言えないような死にかたをしているよ。でも」
 それでも、眼前の女を恨むことはおそらくできないだろうと、依彦はさとっていた。この女も、被害者であるのだ。他にも、健羽によって泣き寝入り、あるいは恨み憎んでいる者は、それこそごまんとあるであろう。
「――その伊里彦という者は、健羽の名を一代で築き上げた豪傑と聞く」
 紫多羅からの、思いがけない言葉に、依彦は耳を疑った。なぜ、この男がその名を知っているのか。当の依彦でさえ、知らなかった名だというのに。
 驚きを隠せない依彦を尻目に、紫多羅はいつになく低い声で淡々と言葉を続ける。
「しかし、名を上げるために手段を選ぶような男ではなかった。自らに反する者は、女子供であろうが容赦なくその手にかけたのだろう」
「おまえは、何者だ。そこの健羽の小僧でさえも知らぬようだが」
 親友は、依彦の肩に手を乗せ、ほほえんだ。この状況で、このような笑みが浮かべられるものなのかと疑ってしまうほどの、愉快そうな笑みだった。
「決まっている。おれは、こいつの友だ。先祖が何者だろうと、それがどんな悪行をなしていようと、おれはこいつについていくと決めているのだ。だから、おまえなどにこいつはやらせぬよ」
 ちからのこもった声に、魂のこもった言葉に、肩に乗せられた温かな手に、依彦の心のなかで凝り固まっていたしこりがすうっと消えていくのがわかった。この霊により凍えきった心臓が、熱を取り戻していく。
 依彦の表情に、穏やかさがもどった。
「――あなたの名は、なんと言うの」
 落ち着いた静かな凪のような響き。そのなかにはやさしさや慈愛といったようなものが含まれているような声音だった。
 女が、その動きを止め、緩やかな所作で依彦へ視線を向ける。
「何十年、何百年も、ここでずっとおれたちを憎んでいたんでしょう――辛かっただろうに」
 女が、泣いていた。涙を頬に伝わせ、瞼を閉じ、ただひたすらに、泣いていた。
「人を憎む、というのは、その想いに魂ごと縛られる、ということだよ。それが何百年もそのままだったあなたの苦しみは、きっとおれには考えられないくらいだったのでしょうね」
 依彦は、静かに、女に歩み寄った。紫多羅が制しようとしたが、その手をやわらかく退けた。
 女の背丈は、依彦の肩ほどであった。依彦もそれほど体格に恵まれたほうではないのだが、よく見れば、女は痩せ細っており、女らしいふくよかさは感じられなかった。
「きっと、おれたちを呪い続けても、あなたは楽にはなれなかったんでしょう。それでも、どうしたら楽になれるのか、わからなかった。違うかな」
 依彦の言葉に、女は静かに頷いた。依彦はやさしくやわらかな微笑をたたえている。
 やがて、女の身体が透け始めた。先ほどまでは強く禍々しい気を放っていたのが、今ではその存在すらも希薄になっている。
 あの世に逝こうとしているのが、ふたりにもわかった。
「きっと、あっちでももてると思うよ。あなたは美人のようだから」
 先ほどの微笑に少しいたずらっ気の混じった笑みで依彦が言うと、女が初めて笑った。そして、言った。
「ずいぶん、口がお上手ね」
 笑うと、思わず息を飲むほどに美人であった。
 ふたりが見守るなか、女は逝った。苛烈な鬼の顔ではなく、美しい女のほほえみを浮かべながらであった。
「おまえ、よくあのようなやさしい台詞が言えるものだな。仮にも、あの女はおまえを殺さんとしていたというのに」
 女が天に召されたのを確認してから、紫多羅が呆れたように言う。
「ああ、それのこと。ここへ来る前、卑弥呼に、甘く優しい台詞を用意しておくように言われてたんだ。そのときは意味がよくわからなかったけど、こういうことだったんだ」
「ははあ。卑弥呼さまというのは、どんなことも見通しておられるのだな。おれも、ますます会いたくなってきたぞ、依彦」
「頼むからそれだけはやめて。卑弥呼とおまえが手を組んだら、おれが心労で倒れるから」
 ふたりは、笑いあった。つい先ほどまで命さえ危うい状況であったというのに、実に楽しそうに笑いあうその姿からは、その緊迫感など微塵も感じられなかった。
 その後、洞窟を出たふたりは、洞窟のすぐ横に立っている木の幹に寄りかかって寝息を立てている呼都媛を見つけた。
 よほど怖かったのだろう、頬には涙が伝った跡が見受けられる。衣服の裾を強く握ったまま眠るその姿は、なんともほほえましいものであった。
「起こすのもかわいそうだ、おれが背負ってゆくさ」
 そう言って、紫多羅は眠る呼都媛を背中に背負い、ふたりして帰路に就いた。
 少女とはいえ、人ひとり背負えばだいぶ重い。しかし依彦が代わると言ったところで、紫多羅は首を縦に振ることはなかった。
 乾いた、涼やかな夜気を鼻から深く吸い込み、腹の底から吐き出す。頭上には、月が青い光をまとい、群青の空におぼろに浮かんでいるだけで、なにやら寂しそうに見える。
 夏になると、遠くの空に見えるあの小さな点のような光が無数に集まり、光の川のようにかたち作る現象が起きる。それはまだ先の話であるが、依彦には少し待ち遠しく感じられた。
 ふたりの足音以外には、物音ひとつさえ耳に入ってはこない。ただ、静寂が、地上を支配しているのみであった。










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