「ようやくふたりお揃いでお見えになった」
魔導師とも呼ばれる「薬屋」は上機嫌でふたりを迎え入れた。変装した王太子マリウスと、黒衣の護衛騎士トニオ。「護衛騎士」と肩書きは変わっても、別に騎士の身なりではない。
トニオは不安だった。ザカリアスのところではトニオという名を使っていたが、テオドシウスと名乗ったこともないではない。誰にも言えない本心をぶちまけたことだってある。明晰すぎるほど明晰なうえに、魔術の心得さえあるザカリアス師だ。テオの秘密は全て承知かもしれない。本当の素性も、なぜそれを剥奪されたかも。アブニールの実子でないことは知りすぎるほどに知っているのに、なぜマリウスにそう話したか。王太子殿下は「全部」と言われたが、それは何を意味するのか。トニオは不安でならない。
マリウスのほうは無邪気に微笑み、ザカリアスを「師」として紹介した。そして、直ちに講義開始を要求した。師弟の顔つきが真剣になり、トニオを無視して講義が始まる。最初のうちこそ一緒に拝聴していたが、トニオにはまるで理解できない。土地の言葉である湖仙語でもわからなかった講義は、やがてラテン語に変わっていた。もともと外国人であるザカリアスはもちろん、マリウスもラテン語でのほうがはるかに滑らかに話している。湖仙語では寡黙ともいえる少年が、頬を染めてさかんに質問している。トニオはイタリア語ならわかる。聖歌はほとんどラテン語だから、ラテン語も知らないわけじゃない。だがこの講義はお手上げだ。講義に参加するのは諦めて譜帳をとりだし、書きかけの曲に手を入れ始めた。曲に没頭してしまうと、もうほかは聞こえない。
「トニオ、そろそろ帰るぞ」
王太子の声に、トニオはわれに帰った。書きかけの楽譜を手にしているのを見て、魔導師がにっこりとする。
「楽師殿。あなたの呪いはもう解けてるはずだ」
「呪い? ですか?」
「歌ってごらん」
「え?」
「もう歌えるはずだ」
マリウスが好奇心をそそられたような顔をした。トニオが王子付きになったのは歌えなくなったあとのことで、だから「歌」は聞いてない。天使の声を持つ奏楽の天使。少年時代そう呼ばれていたことは知っていても、その歌は聞いてない。トニオはとまどった。もう二年間歌ってない。二度と歌えないものと、完全に諦めてもいた。
「ここではだめだ」
魔導師がまたにっこりとした。
「あなたの声量でここで歌えば、このあたり一帯みんな起きてしまう」
そう言って片目を瞑ってみせる。そして、ふたりは魔導師の陋屋を辞した。夜明けが近くて、ふたりは足を急がせている。トニオの不安は消えうせている。もう歌えると言われたことで、ほかはどうでも良くなっている。抜け道を通り抜ける間も、もうそのことしか考えてない。歌える? 本当に?
身分と名を剥奪された十六歳のトニオは、唐突に歌えなくなった。今日からお前は騎士カルロ・カバリエの子ではなく、ただの卑しい密偵だ。楽師として王の宮廷に潜入せよ。ナイーダの父、リューカス・エセルクスの言葉は、たしかに「テオ」には呪いだった。テオドシウス・カバリエの名と身分だけでなく、自尊心の全ても叩き潰した。そのあと始めて、生まれて初めて客の前で音を外し、それから歌えなくなってしまった。声変わりの時期でもあったのだが、それが終わって普通に喋れるようになっても、どうしても歌は歌えなかった。歌おうとすると喉が詰まって、どうしても声が出なくなった。
王太子の間に戻ってすぐ、マリウスが促した。恐る恐る歌ってみる。かつて美声をもてはやされていた楽師には、音をはずすのが何より怖い。失望させたくない。眼を輝かせるマリウス殿下を、がっかりなんかさせたくない。
「いと麗しき君の姿よ
忘れ得ぬ君の姿よ」
王太子が軽く歌った。読み人知らずの恋の詩に、トニオが曲をつけた歌。今一番流行りの歌だ。トニオは小さく歌ってみた。眼の前にいるマリウスを見つめながら、歌ってみた。確かに歌える。外さないで、ちゃんと歌える! ハレルヤ! 主を褒め称えよ。聖歌が思わず口をつく。ユダヤ教の聖歌ではなく、キリスト教の聖歌。吟唱のようなユダヤのそれでなく古めかしいグレゴリア聖歌でもなく、当世風の華やかなハレルヤ。聖歌ではあるけれど、生きる喜び、この世に生きる喜びを感謝する歌。声がいくらでも伸びる。ソプラノの頃より、もっと強く。
王太子が見つめている。驚きと賞賛の表情で、マリウス殿下が見つめている。トニオはますます高揚した。嬉しくてたまらない。こんな日が来るなんて、また歌える日が来るなんて、トニオは思ってもみなかった。聞いて頂ける日がくるなんて、考えてもみなかった! ハレルヤ! 神に栄光を。ハレルヤ! ひとの喜びよ! トニオはマリウスの手をとって、歌い続けた。忘れ得ぬナイーダの面影でなく眼の前にいるマリウスを見つめ、トニオは声高く歌い続けた。ハレルヤ、ひとの命の喜びよ。生きる力の喜びよ。
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