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第一部 王太子の楽師
第一章 立太の儀 その2
 三 流行の楽師
 
 呼び戻されて大広間に向かう楽師は、どこか不安げな顔をしている。使いにやられた小姓が同行しているが、この少年も黙りこくってしまっている。いつもなら誰とでも気軽に話すトニオだが、今日は会話が続かない。

「あの」
 慣れない沈黙に不安になって、小姓がおそるおそる声をかけた。この楽師と懇意なわけではないが、初対面というわけでもない。とにかく「いつもと違う」。
「王太子殿下は、お怒りなんですか?」
「え?」
 楽師は目を丸くした。
「あの?」
 小姓のほうが驚く。
「だって、トニオさんは『マリウス殿下の楽師』で……」
「ああ」
 トニオがにっこりとする。
「まあ、それはそうですけどね。でも、どうせすぐ呼び戻されると殿下も言われたところだった。だから、気にしなくていいんですよ」
 小姓はまた戸惑った。どう見ても、「トニオ」は何か気にしている。
「あの……」
「あなたは、大公殿下のお小姓なんですね?」
「そうですけど?」
 少年はきょとんとした。王太子殿下の処でもそう名乗ったし、そもそも大公家のお仕着せを着ている。国王陛下を除けば、王太子殿下から楽師を横取りしてこれる者は大公殿下くらいしかありえない。大公殿下でさえ、姫君を「ダシ」に使ったのだ。
「大公殿下は、ナイーダ姫さまのご機嫌が取りたくて、それで……」
 トニオがぴくりとするが、小姓は気づかない。
「何がどうなったんだかぼくもわからないんですけど、ギドさまが何か失礼なコト言われたみたいで」
「ギドが?」
 平民の楽師が少し声を高くした。ギドさまを呼び捨て? 大公家の小姓の目が険しくなるが、楽師は気づきもしない。
「わかった」
 楽師はすたすたと歩調を早め、小姓が慌てて後を追った。ずっと年下とは言え、小姓はれっきとした貴族の子で、しかも大公家に属している。「お迎え」に来たのではなく、勝手に抜け出した楽師を「召還」に来たのだ。平民の楽師の後を歩くなど、とんでもない。大広間に入るときは、何が何でも自分が先でなくてはならない。焦る少年を顧みず、楽師の足はさらに速くなった。

「トニオだわ!」
 扉が開くなり、貴婦人たちがざわめいた。高貴のご婦人方だけに嬌声こそあげないが、視線だけはしっかり楽師に集まっている。トニオは優雅にお辞儀をし、そして顔をあげてにっこりとする。楽長も叱責の台詞を飲み込み、じろりと睨むだけに止めた。トニオのほうも頭だけ下げ、楽団席には向かわない。まっすぐに大公のもとへ足を運ぶ。
「大公殿下」
 小姓のほうもなんとかその横に追いついている。
「お呼びの楽師、連れて参りました」
「ご苦労」
 鷹揚に応え、下がるように合図する。
「トニオ。王太子殿下はもうお休みか?」
「いえ」
 トニオは顔をあげ、にっこりとした。不安そうな表情はもうすっかり消えている。
「殿下には御用がたくさんおありです。皆さまにはごゆるりとお楽しみ下さいますようにとのお言葉。私の楽で興を添えて来いとの仰せ」
「来なさい」
 大公がいざない、楽師はまた面を伏せて後に続いた。広間の奥にしつらえられた壇上の席、華やかな垂れ幕で飾られた席。その前に床几がひとつ。

「姫さま」
 垂れ幕の奥の人影に、大公が恭しく声をかけた。
「例の楽師です」
 楽師は恭しく膝をつき、手を胸にあてて低頭する。

「奏楽の天使、トニオ。イタリアの出身とか」
 垂れ幕の奥から姫君が声をかける。
「物心ついたころには、放浪しておりました」
 楽師が答える。ささやくような小声だが、はっきりとよく通る。
「生国はイタリアではないのか?」
 楽師がびくんとする。
「トニオという名ですから、イタリアのどこかだと思います」
 声が少し震えていて、周囲の貴婦人たちは眉を顰めた。楽師の出自が卑しいのは当然のことだし、トニオが旅芸人として幼少期を過ごしたことも知らぬ者はない。出自すら定かでない馬の骨。周知のことを改めて確認する姫君は、少々意地悪に見える。
「そう」
 姫君はおざなりのように答え、傍らの大公に何かささやいた。
「姫さまは恋の歌を御所望だ。お前の最新の曲、なんと言ったか」
 大公の問いに、楽師はぎこちない笑顔を作った。

「『いと麗しき君の姿よ』」

 楽師は床几に腰を据え、リュートを抱えた。ちらりと垂れ幕の中を見上げ、そして真剣な顔に変わる。童顔に似合わぬ大きな手がすいと動き、楽器の上にぴたりと止まった。しんとする。皆の期待が空気を変える。
 その指が弦を弾いた。流麗な音、哀切な旋律。聞く気のなかったものたちまでが、黙り込んだ。たった一台の楽器の音が、大広間を支配していく。嫋嫋とした旋律はそれでいて力強く、繊細な高音部がそれを飾る。一台の弦楽器は三つの声部を同時に奏で、まるで合奏しているが如きハーモニーを紡いでいる。

「いと麗しき君の姿よ
 忘れ得ぬ君の姿よ」

 艶やかなソプラノが静かに加わる。顔をあげた楽師に、国王が合図して見せる。現れた歌手は国王の愛人。王妃亡きあとの王の寵姫。リュートは主旋律を歌手に譲り、さらに精緻な副旋律を紡ぎ始めた。女歌手は情感をこめて歌い、そのふくよかな手を若い楽師に差し伸べる。楽師は顔をあげず、演奏に没頭している。唇が、少し濡れて光っている。

「むごきものは君の面影
 許されぬ恋、叶わぬ想い
 我を鞭打つ君の記憶
 忘れ得ぬ君の微笑み」

 楽師の顔が蒼白になっている。柔らかい金茶色の巻き毛が細かく揺れて、憑かれたような表情が垣間見える。間奏に入り、弦楽器が主旋律を繰り返す。哀切な弦の叫びに、誰もが苦しい恋を思い出す。忘れることのできぬ想い。かなわぬと知ってなお、焦がれる想い。弦の音が、封じていた記憶を呼び起こす。

「いと麗しき君の姿よ
 忘れえぬ君の姿よ」

 女歌手の声が戻る。
 聴衆もどこか我に帰った。艶やかな肉声。眼に前で歌うのは王の寵姫。リュートは再び伴奏に退き、高ぶった心をなだめていく。これは歌だ。ただの歌だ。高貴の美姫に捧げる叶わぬ恋。宮廷楽師の定型課題。楽師の頬にも普段の赤みが戻っている。複雑な旋律をこともなく弾き終えて、楽師はようやく顔をあげた。

「トニオ。また腕を上げたな」
 国王が機嫌よく声をかけた。
「姫君はお気に召さなかったようです」
 楽師はにっこりと答え、皆が垂れ幕の中を見た。確かに姫の姿はない。
「古風な姫には、イタリア風が過ぎたのかもしれぬな」
 楽師は目を伏せ、答えなかった。イタリア風というよりは、最新流行のフランドルの様式。旋律が幾重にも絡み合う、複雑なポリフォニー。この国の伝統的な歌曲とは、確かに違う。由緒ある貴族たちを差し置いて革新を進める国王陛下は、全てにおいて新しいものを好む。由緒と正統の象徴たる「神聖な姫君」は、確かに「古風」かもしれなかった。
「マリウスは部屋か?」
「はい」
 面を伏せたまま、楽師が答える。王太子は社交を好まず、宴席はもっと好まない。
「今夜はもう御用はないと、私には仰せでした」
「もう休んでいるわけだな」
 国王が囁き、楽師がうなづく。マリウスが虚弱で疲れやすいのも事実だが、あまり強調はしたくない。そして、国王自身、脆弱なひとり息子を苦々しくも思っている。
「まあ良い。お陰で今夜はお前を存分に使える」
 朗らかに王は言って、次の曲を命じた。

 四 密会

 黒いフードつきのマントの男が、城下の小道に足を急がせている。普段ならとっくに閉まっている王城の門はまだ開いていて、お振る舞いの酒に酔った市民たちがまだあちこちで管を巻いている。時はすでに夜中の二時過ぎ。約束の時間を一時間も過ぎている。
「Cの鍵」
 一定のリズムで小さな扉を叩き、符牒をつぶやく。覗き窓が開き、男の顔を確認する。
「お待ちかねです」
 扉が音もなく開き、黒衣の男は中に滑り込んだ。豪商ダリウスの邸の裏口だが、迎え入れたのは主人ダリウス。小さな灯火を手に、奥の部屋に案内をする。扉を開けて中に入れると、主人は声もなく姿を消した。通された部屋で待つひとを見て、「トニオ」は思わず後ずさった。

「ナイーダ! 何故貴女が……」
「城では話せなかったから」

 トニオとほとんど同じ黒衣、いや、もっと完全なる黒装束で黒髪の姫君が親しげに微笑む。中身は確かに「姫君」なのだが、その黒衣は完全に男性のものだ。黒のチュニックに黒のホーズ。黒革のベルトにバックルまで黒。長い髪も黒のリボンでキリリと結わえている。トニオのほうはマントこそ漆黒だが、中のチュニックは良く見ると濃緑で、脚にぴったりしたホーズも真っ黒ではない。
「じゃあ、この呼び出しも貴女?」
 トニオの手に小さな紙片。<いつものところで、一時に>とだけある。一見女文字に見えるが、どう見ても父カルロの変え手跡だ。ここ数年、トニオとの通信には父はこの女性的な書体を使っている。

「完璧だろう?」
 「神聖な姫君」がニヤっとする。
「貴女が偽造したんですか?」
「フロリスの仕業」
 双子の兄の名前を聞いて、「トニオ」がまた息を呑み込む。
「父上は?」
「カルロはぐっすりとお休みだな」
「クスリでも盛ったんですか?」
「そう。それもフロリスの手配」
「そんな、キケンな……」
「他からクスリを入手されるよりはマシ、とかフロリスは言っていた」
 トニオがまた溜息をつく。
「相変わらずですね」
「うん」
 ナイーダはこぼれるような笑みを浮かべた。嬉しくてしょうがないという顔。王城での取り澄ました顔とはまるで別人。おてんばだった幼い頃と同じ顔だ。

「さっきの恋歌、お前の歌で聞きたかったな。あんなおばさんの歌じゃなくて」
「リリアは一流の歌手です。国王が寵愛しているのも、彼女の声ですし」
「でもあれは、恋焦がれる男の歌だ」
 トニオがわずかに頬を染め、うつむいた。
「……私はもう歌えません」
「まだ、歌えないのか?」
「多分、もう永遠に歌えないと思う」
 薬を使って変声を遅らせていた少年楽師は、十六歳になったある日突然歌えなくなった。声が出なくなったのだ。少年の美声を失っただけでなく、話すことすら難しくなった。少しずつ回復はしていったが、普通に話ができるようになるまでにも一年を要し、十八になった今も歌えない。今彼が話す声には十分に張りがあり、歌えないとは到底思えない。歌わないだけとよく言われるが、歌おうとすると声が掠れる。

「テオ」
 「トニオ」に呼びかけて、姫の顔が真剣になる。
「会いたかった。お前に会って、詫びたかった。城内でチャンスがあればと思っていたが、お前は私を避けていただろう?」
「今の私は卑しい楽師です。生国さえハッキリしない、馬の骨です」
 震える声で「トニオ」が言い返す。今の彼には姓すらなく、「王太子づきの楽師」という使用人にすぎない。
「そうじゃない」
 ナイーダの声も震える。
「お前はカルロの息子、テオだ。私と同じく神聖なる湖仙城に生を受けた……」
「そうじゃない。そうじゃないから、私は追放された。そうでしょう? フロリスと私は全然似てない。本当の双子であるわけがない」
「テオ」
 ナイーダがさえぎる。
「確かに父上はそう言われた。フロリスばかり評価して、お前のことは全然理解して下さらなかった。だけど、お前たちは似ている。そっくりじゃないかもしれないけれど、でも似ている」
「どこが?」
 「テオ」の緑灰色の眼が震えた。いつも冷静で理知的な兄フロリス。音曲には天才的だが、学問はからっきしなテオ。外見だって対照的だ。濃い鳶色のさらさらとした髪を持つフロリス。聡明さがそのまま形を成したような端正な容貌。しっかりと筋肉がつき、それでいてすらりとした長身。テオのほうは明るい金茶色の巻き毛をしていて、整ったというよりは愛嬌のある顔立ち。体つきもどことなく子供っぽく、短躯とまではいかなくとも長身とは言いがたい。少なくとも、最後に会った二年前には頭ひとつくらいも差があったのだ。

「眼」
 ナイーダの手がすいと伸び、テオの頬にそっと触れた。
「眼が同じだ。こんな色の眼をしているのは、お前たちふたりだけだ」
 その緑灰色の眼が潤んだ。
「お前に戻ってきて欲しい。私は心の底からそう望んでいる」
「それはできない」
 「トニオ」がゆっくりと首を振った。
「私は『卑しきもの』で、神聖な姫の城に足を踏み入れて良いものではない。それに、今の私は……」

「人気者だな」
 少し哀しげに、ナイーダが微笑む。
「王太子殿下の退出には誰も不満を漏らさなかったが、お前が消えたことにはみんなが文句を言っていた。『トニオ』のリュートなしの宴会なんて、考えられないって」
「宴に興を添えることこそ、世俗楽師の務め」
「なら、なぜ逃げ出した?」
 トニオはすっと眼を逸らした。
「私は姫の『間諜』です。でも、私は芝居がヘタだ。衆人環視の状態で姫とお会いするのは避けたかった。自分の身分はわきまえています。だから、こうやってご報告にあがりました」

 ナイーダは口を開こうとして、そしてつぐんだ。戻って来いと言えない以上、どう言いつくろってもムダだ。ナイーダも、自分の立場はわきまえている。王位に繋がる身ではあるが、権力基盤は極めて弱い。だからこそ、マリウスの立太を許し、その儀と祝宴に列席させられているのだ。間諜をもぐりこませていると知れれば、しかもそれが国王とマリウスの寵愛深い楽師だと知れれば、どう考えてもただではすむまい。黒夜叉姫などと勇ましい異名をとってはいても、武力でもって王権を奪えると思うほどには、ナイーダは夢想家ではない。

「ご報告します。国王陛下のところに、姫への求婚話がかなり来ています。イングランドの公子、ポルトガルの王子、そしてブルゴーニュ公のお世継ぎシャルル様からも」
「外国からの求婚は絶対に受けない」
 硬い声で姫が答える。
「国王陛下も同じお考えです」
 緑灰色の眼が光った。
「ギドは何をしたのですか?」
「ギド?」
 唐突な問いに、ナイーダはどぎまぎとした。
「みなの見ている前で、平手を張ったのでしょう? 姫に無礼な振る舞いでもしたのですか!」
 姫の顔が紅くなった。
「平手はやりすぎたと思う。一緒に踊っていれば、その……」
「必要以上に触ったんですね?」
 恨みがましい声に、ナイーダはくすりとした。
「もしお前だったら、怒らない」
 「テオ」のほうが真っ赤になった。二年前のあの日。姫を押し倒したあの時。それは半分事故で、半分は故意だった。草の上に押し倒して姫を見つめ、そして額に口付けた。「テオ」は首まで朱に染まった。
「テオ」
 ナイーダの声がまた震える。
「結婚なんかしたくない」
 テオは黙って姫を見つめた。結婚なんかさせたくない。誰の手にも渡したくない。そう考えているのが明らかにわかる。確かに芝居などできない直情型だ。
「何か良い手はないか?」
「ありません」
 機械的にテオが答える。
「イングランドとポルトガルはともかく、わが国とつながりの深いブルゴーニュの求婚は無視できません。それなりの理由を提示しなければ、キナ臭いことにもなりかねない。下心は明白です」
「つまり、侵攻の口実を探している?」
「ホラント、ゼーランドを手中にした今、次はこの地を狙うのは確実。間に海がなければとうの昔に侵攻してきていたはずです。リスクの大きい海戦に出るよりは婚姻でと考えているはずですが、姫が嫌がっているという理由で断るならそれは『侮辱』でもあります。ブルゴーニュのシャルル様は御年二十二歳。姫とは釣りあう年齢ですし、容貌も魅力的だ。情熱的で好もしいお人柄でもあります。国力の差を考えればむしろ玉の輿とさえ言えます」
「ずいぶんと好意的だな」
「存じ上げていますから」
「大陸で?」
「放浪の楽師だった頃に」
 「トニオ」が答える。イタリアを振り出しに、美声を売りに各地の豪商のサロン、貴顕の宮廷を渡り歩いた過去があるのはウソではない。湖仙国の先王の城に騎士カルロ・カバリエの子テオとして生まれたのは事実だ。だがそこを出たのはまだ十にもならぬ頃の話で、今の彼はあきらかに「楽師」だ。
「十分すぎるくらいに魅力的な方ですが、同時に危険でもある。野心に満ち、力にも溢れている」
「なるほど」
「フロリスはなんと言っていますか?」
「外国人は論外。今は時間を稼げ」
 ナイーダはじっとテオを見つめる。
「時間を稼げ? フロリスがそう言ったんですか?」
「フロリスは……」
 ナイーダは言い淀んだ。姫と兄弟同然に育ったフロリスはよく承知している。彼女の本心が誰を望んでいるのか。二年前の再会の日に何があったか。「平民の楽師トニオ」では絶対にムリでも、騎士カバリエの子テオであるなら、姫の配偶者として絶対に不可能とは言い切れない。それはフロリスの野心かもしれなかった。本質的に楽人であるテオと違い、フロリスには政治的才能がある。双子の弟を女王の夫とし、自らは摂政として政権を握る。フロリスの父カルロは事実先王の摂政だった。つまりナイーダの父が王位にあったころ、その摂政を務めていた人物がフロリスとテオの父カルロ・カバリエである。そう考えれば十分に現実味のある野心と言える。
「フロリスには、何か策でもあるんですか?」
「あるのかもしれない」
 ナイーダは呟いた。何か良い索……

 その時、鶏が鳴いた。「トニオ」がびくりとする。夜が明けるまでに王子のところに戻っていなくてはならない。国王から特別な勅許を得ている「トニオ」は、閉門時間でも王城に出入りできる。ただ、主であるマリウスが不承知となると話は別だ。真夜中に呼び出されることはまずないが、朝一番でのお召しはままある。遅くとも六時には戻っていたい。
「姫。貴女はどうやって抜け出したんですか? 護衛は……」
「護衛なんか連れて抜け出せるはずないだろう?」
「でも、どうやって?」
 ナイーダはまたにやっとした。
「『カルロ』に化けた」
「父上に?」
「カルロには『仲間』がいるからな。『仲間』のいる門なら黙って通してくれる。だが、明るくなるとさすがにマズイな」
 窓から外を覗く。まだ真っ暗ではあるが、星の位置からして夜明けは近い。
「テオ」
 男装の姫君はそう呼びかけて、口ごもった。「テオ」のほうも彼女を見つめ、何か言いたそうにしている。抱きしめて唇を奪っても、姫は怒ったりしないだろう。

「姫」
 しばらくの沈黙の後、彼はようやく口を開いた。
「お会いできて、私も本当に嬉しかった。ですが、こんなマネはこれきりにして下さい。今の私は卑しい身です。間諜の任を負った卑しい楽師。姫さまとふたりきりで会って良いものではない」
 ナイーダは男をじっと見つめ、哀しげな顔をした。そしてもう何も言わず、ひとりで部屋を出て行った。

 五 意外な邂逅

 カルロの黒馬に飛び乗り、拍車を使った。徒歩で来た「テオ」には道草を食っている時間はないはずだが、馬ならばまだ多少余裕がある。心乱れたナイーダはまだ部屋になど戻りたくない。今から戻ったところで、どうせ眠れるはずもなかった。まだ人通りのない街路を駆け抜け、一巡りして戻るつもりで下町のほうに迷い込んだ。穏やかならぬ気配を感じて、手綱を引き絞る。

「放せ!」
 
 悲鳴のような声が聞こえ、ナイーダは馬首をそちらに向けた。声変わり前の子供の声。男の子だ。狭苦しい小汚い街路にむさ苦しい男が五人ほどいて、暴れる子供を押さえつけている。

「ベッピンだな」
 赤ら顔の男がニヤついた声を出した。猿轡を噛まされた小さな顔が、月光を浴びる。月の光を集めたような髪が乱れて輝く。すんなりとした鼻筋に、長い睫。苦しげに歪む細い眉まで、確かに色香が匂いたつ。
「こいつはいい金になる。とびッキリの上玉ってやつだな」
 華奢な身体が抵抗を試みるが、すでに縛りあげられどうにもならない。子供が無駄にあがくさまを、男たちがニヤニヤと眺める。

「その子供、私が貰おう」
 馬上の声に悪漢たちが振り返る。駒音に気づかなかったらしく、揃って眼を丸くしている。
「縄を解いてやれ」
 厳然と命じる高い声に、男たちが笑い出す。騎手は確かに「屈強な男」ではない。
「これはこれは。カモがもうひとりお出ましだぜ」
 手綱に手をかけようとした男が、もんどりうって地べたに転げた。馬のひずめがその胸の上に止まっている。一瞬にして、空気が張り詰める。
「その子供の縄を解き、こちらに渡せ」
 高い声が静かに命じた。一瞬の後、男たちが襲い掛かる。同時に剣が煌いた。細い剣は鮮やかに二人を薙ぎ、血飛沫が上がる。馬は鮮やかに動き、ふたりを蹴散らす。後ろ手に縛り上げられた少年が息を弾ませ、上体を起こした。足首も縛られていて、動けない。

「マ……」
 はっきりとその顔を見て、ナイーダは焦った。剣を持ち替え、最後のひとりの喉を貫く。馬に蹴られて気絶しているふたりにもどめをさし、五人とも確実に死んだことを確認してから、馬を下りた。猿轡を切り裂いてその顔を検める。マリウスだ。間違いない。

「かたじけない」
 少年の声がはっきりと言った。
「助けて下さった方の玉顔、見せていただけぬか?」
 覆面から覗く深く青い眼が微笑む。
「礼はまだ早すぎる。貴方の身柄、この私が奪っただけやも知れぬぞ」
「確かに」
 少年がにこりとした。花がほころぶような笑顔。切り揃えられた癖のない髪がさらりと揺れる。乱れの痕はもうない。
「ためらいもせず、五人を瞬殺される方だ。無条件に信頼してはならぬな」
 扉が開く音がして、足音がした。誰か目を覚ましたらしい。ナイーダが舌打ちをした。、縛られたままの少年をすくい上げ、馬に飛び乗る。そのまま拍車を当てて馬を飛ばし、市外を目指す。

「次の角を左」
 少年が指図した。言われるままに馬首を向ける。半壊した納骨堂が眼に入る。
「とりあえず、あそこで休む」
 両手両足縛られたままの少年が言い、ナイーダは苦笑しながら言うとおりにした。馬を入れ、少年を抱き下ろす。十三歳の少年とはとても思えないくらい、軽い。
「ところで、神聖なる姫君がそんな姿で、一体何をしておられたのかな?」
 穏やかに少年の方が問い、ナイーダは眼を丸くした。
「ナイーダ姫。貴女の麗しい瞳、このマリウスが見違えるとでも?」
「これはお見逸れいたしました」
 ナイーダは覆面をはずし、そのかんばせを顕にした。朝日はようやく柔らかな光を投げ始めていて、なかはまだ薄暗い。
「だが同じ問い、私もさせていただこう。王太子殿下ともあろうお方が、あんなところで……」
 マリウスがにっこりとする。
「私も聞かないことにする。だから、貴女も聞かないで下さい」

 ナイーダはまた溜息をつく。黒衣をまとったナイーダが何をしていたか。考えられることはあまりない。密かに想う男と密会していたというよりは、政治的な密会をしていたと考えるのが普通だろう。そもそもこの黒外套はカルロのもので、覆面の装束は「結社」の制服でもある。「テオ」の黒衣はただの黒っぽい服だが、ナイーダの黒衣には良く見ると徽章がある。秘密結社「純血と名誉の兄弟団」の徽章。正統の王統を守り、祖国を守ることを信条とする結社。正統でない現王とその王子、不当にも王太子を名乗るマリウスはその攻撃対象でもある。この分だと、マリウスはおそらく承知だ。
「私の口を塞ぎますか? もしそうお望みなら、売り飛ばすよりはここでとどめをさして欲しいな」
 まるでチェスの手でも語るように、マリウスは淡々としている。
「ご安心めされよ。可愛い従弟殿を殺めるつもりも、無論売り飛ばすつもりもない」
「可愛い従弟、ですか? 私はそれほど可愛くはないと思いますが?」
 マリウスはまたにっこりとした。確かに、可愛いというよりは美しい。そして色香。匂い立つような色香を感じて、ナイーダもギクリとする。男の色香ではけしてない。中性的な、あるいは人外の色香。生身のひとのものではなく、妖しい色気。
「そろそろ、戒めを解いては下さいませんか? それとも、神聖なる姫君には倒錯的な趣味でもおありか?」
 荒縄の食い込んだ華奢な手足。確かにある種扇情的な眺め。こんな子供に何を。そう思うとますますうろたえる。ナイーダは慌てて縄を切った。少年は吐息を漏らし、手首をさすった。皮膚が擦れて白い肌に血が滲んでいる。
「ありがとう、ナイーダ」
 マリウスの微笑みに、自分が田舎娘に思えてくる。とんでもない状況なのに、この少年は落ち着いている。ただ美しいだけではなく、王者の気品。改めて眺めると着衣は粗末だ。使い走りに出された町の少年といった服装。にもかかわらず、変装した王子さまにしか見えない。
「この恩は忘れません。貴女が何を企んでおられたのかは知らぬが、このマリウスを、マリウスと知った上で貴女は助けて下さった」
「貴方と知って助けたわけではない。子供を誘拐して売り飛ばすような輩、見逃すわけにはいかない」
「なお良い」
 マリウスはまたにっこりとした。
「貴女には力があり、そして良き心がある。けして迷信の傀儡ではない」
「迷信の傀儡?」
 薄青い瞳が謎めいた笑みを浮かべた。
「手を結びませんか? 私と」
「マリウス。それはどういう……」
「正式に王太子となったのは私だ。貴女ではない」
「それは承知です」
「だが納得はしていない。貴女だけではなく、貴女と同じその黒衣を纏う全ての者たちが反撃を企てている」
「もしや今の誘拐騒ぎ、彼らの仕組んだものだとでも?」
 企てそうな顔がひとつふたつ、ナイーダの脳裏に浮かび上がった。マリウスの立太に激昂し、物騒なことを言い出したものは確かにいた。
「ふふ」
 マリウスがまた笑みを浮かべる。
「貴女は正直な方だ。だが、それはない」
「何故そう言い切れる?」
「私の責任だから」
「責任?」
「あんな時間にあんなところにいたのは全面的に私の責任、あるいは考え無しによるもので、誰かに誘き出されたからではない。彼らは私の正体を知らなかったし、そもそもの狙いは私の服だ。安もののチンピラだな」
「服?」
 確かに、マリウスが今着ているものは「王太子殿下の衣装」では在り得ない。
「あの者たちは、殿下の衣を剥いだのか?」
「え?」
 少年が初めて驚いた声を出し、そしてくすくすと笑い出した。
「姫。子供の誘拐を企む輩が、服を剥いだ獲物に代わりの服をやるとでもお思いですか?」
 ナイーダは唖然とした。王城でのマリウスはまるで人形のようで、なんの苦労も知らない王子さまにしか見えなかった。「聡明な方」という報告は受けていたが、想像とはまるで違う。

「姫。どうやって城に戻るおつもりですか? もう開門しています。その格好で王城の門はくぐれないし、私としてもおおっぴらに通すわけにはいかない」
「マリウス。王城に戻れぬとなれば、私にもとる道はひとつしかない。つまり、このまま貴方を我が城、湖仙城まで拉致する」
 剣の柄に手をかけて見せた。マリウスは丸腰だし、たとえ武装していたところでナイーダの敵ではない。それは確実だ。
「城に残された貴女の家臣、カルロ・カバリエはどうなりますか?」
「カルロの身に何かあれば、貴方の身にも害が……」
 マリウスは朗らかに笑った。
「姫。貴女に宣戦布告をする気はない。ただ、昼までつきあってください」
「昼?」
「私が、貴女を拉致します」
「え?」
「ミカル」
 マリウスが小声で呼びかけた。がさりと足音がする。
「入るな。私は無事だ。万が一姫が考えなしなことをされたら、その時は手を貸してくれ」
 ミカル。マリウスの横に常に控える、巨漢の衛士。その忠心は「トニオ」から報告を受けているし、有名な手練れでもある。マリウスが「ここ」を指定したのは、ここに護衛がいたからなのか?
「貴女の安全は保障するし、『結社』のことも沈黙しよう。ただ、目隠しだけはさせて欲しい。信用して下さいますか?」
 ごくりと唾を呑み込む。 
「できぬと言ったら?」
「内乱になります」
 マリウスはまた笑みを浮かべ、ナイーダはうなづくしかなかった。


   


  


    



 

     
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