猫なべ人なべ
猫なべ人なべ
時は今、ある片田舎に鬼猫の旅籠がありました。
女将さんの銀千代はしゃかりきはたらき、毎日を忙しく暮らしていました。
それというのは銀千代のふたりの子どもを養うためでした。
兄の金司と妹の玉城は母を慕い、よく働きますが何分ちいさい。
ある日、銀千代は働きすぎて病に伏せてしまいます。
ふたりは看病をしてやりますが、治る兆しもなく、医者は先が長くないと告げました。
「なにかできることはない?」
そう銀千代に尋ねると、はじめは何もないと遠慮して、最後にようやく願いをいいます。
「そいじゃあ、人間が食べたいよ」
こうして、兄と妹は人間を狩って母へ食べさせるために人里へと出かけてゆきました。
道すがら、車の通りの少ない山の国道をふたりは行く。
とぼとぼ、とぼとぼ。車に引かれてぺしゃんこにならないよう気をつけて道脇を歩く。
金司は赤茶に白っぱら、玉城は黒に白っぱら、腹黒さに欠ける二匹のこと。ましてや、鬼猫という野良猫とは一線画する種であっても、その甘さときたらお子様のまま。
近所の農家はしっかり戸締りをしてたり、鬼猫のことを知ってて魔除けを張ってたり。忍び込むこともできず、仕方なくもうすこし町へと降りることになった。
「にーにゃ、にーにゃ」
「なんだい、たまき」
「にーにゃ、人間っておいしいの?」
「僕は食べたことないよ。けど、ごちそうなんだってさ。年寄りはちょっぴりしぶいけど、若いのや小さいのはおいしいらしいよ。首の“カマ”と耳のたぶが通好みなんだって」
とことこ歩く兄猫、妹猫。
時おりヘッドライトに照らされて、闇の中に四つの目が爛々とかがやく。
「にーにゃ、人間を食べるたってどうやって食べるの?」
「すきやきだよ。人の油を引いた鍋に甘い醤油と砂糖と出汁で、野菜もキノコも入れる」
「ネギはー?」
「それは母さん死んじゃう」
「にへっ、じょーだんじょーだん」
ころころと玉城は笑う。金司は尻尾をしなだれさせた。
「三日だけだよ、今日はダメだった。三日目の朝には元きた道を辿って、母さんのところへ帰る。明日が勝負だ。適当なところで宿を探そう」
「宿屋さんなのに、余所の宿には泊まったことなかったもんね。たのしみ、たのしみ」
「僕ら鬼猫は野良猫とは違うからね、しっかり宿で寝泊りしなきゃ。文化的にさ」
「野宿はなんでいけないの?」
「うーん、それはねえ」
金司はちらりとヘッドライトに映し出された死骸を見やった。
ぺったりと平たくのされた野良猫だ。
「僕らはああいうのと一緒じゃないよ、てことさ」
言うや否や、そいつはより“ぺちゃねこ”になった。
猫の旅籠に泊まった二匹は、ずいぶん主人によくしてもらった。
「銀千代の女将さんには昔、世話んなったからねぇ。親孝行の良い子らじゃないか。そいや、人間っていやぁ最近ちょれえのが居てね。ちょいとまちな、地図と弁当を持たせたげるよ」
主人の地図とメモを頼りに、金司と玉城は人里の町へとまぎれこんだ。
猫の子一匹やってこようと、片田舎だというのに人里はだだっ広い。
この町は漁港で、潮の薫り、海の眺め、船の白、港の灰、色々様になっていた。
「にーにゃ、にーにゃ」
「なんだい、たまき」
「お魚いっぱいあるのかな」
「やだよ生臭い。昔は貧乏臭くて魚ばっか釣れて肉は無かったもんだから、しょうがなく人も猫も魚を食べてたんじゃないか。骨だってめんどーだ」
「にーにゃは現代っこでやせんぼだってかーちゃ言ってた」
金司は耳をへにゃりとさせた。
「よく考えれば分かるだろう? 僕やたまきに水かきはあるかい? およぎは得意かい? 断然、僕らは肉を食べる生き物であるべきさ」
「にーにゃは好き嫌いが多いけど、たまきはなんでも食べるよ」
「よろこんでネギを食うのはたまきくらいさ」
「にへっ」
ころころと玉城は笑う。
「さて、このボロ屋か」
やってきたのは古ぼけた一軒家。なんでも、ここの家は両親がいつも働きに出ていて、ちっこいのが一人で過ごしてるらしい。しかも家がボロっちい。するてーと、人間狩りをするにはうってつけというわけだ。
金司と玉城はひょいと身軽にベランダに跳び昇って、中を伺う。
「ああ、いたいた」
「ちっこいね、にーにゃ」
「そうかい? こどもにしては大きいし、おとなにしては小さい。中くらいだ」
「かわいい服してる。たまきと同じ女の子だね」
「知ってるぞ、こういう服を着てるのは学生っていうんだ。中くらいの学生だね」
「がくせーちゅうだー」
「なにかちがうよ、たまき」
たまきはけろけろと笑う。
「ね、この子でどうかな。かわいいってことはおいしいってことだよね」
「それに元気で美味しいそうだ」
「わかるの?」
「言ってみただけ。たまきは?」
「わからないことがわかるよ」
ベランダの窓を開けてみようとするが、残念なことに鍵が掛かって開かない。鬼猫というのは器用で、箸でごはんを食べるなんて朝飯前。というより朝飯くらい人間の道具を使いこなして、まだ子どもで小さいながらも綺麗にちゃんと焼き魚とごはん(ぬるい)と味噌汁も作れる。ただ、閉じてる窓を開けるのは困りものだ。
「どうする? ぶち割る?」
「音を立てちゃまずい。あいつに開けさせよう」
「にーにゃ、どうやって?」
「簡単さ。それっ」
ヒゲをひと撫でする。金司が不思議な鬼術を使う時のお決まりだ。
すると風が拭き、ぴゅいと洗濯物が飛んでった。ひらひらして、二つのお山がある白い服だ。
「あーっ! 私のブラがっ!」
飛び出してきたがくせーちゅうを、二匹は足を引っ張ってつっこけさせた。
ガンッ。
見事、がくせーちゅうはベランダに頭を打ちつけ、勝手に気を失ってしまった。
「やったね、にーにゃ! 人間狩り大成功!」
「こんなに取り乱すなんて。アレはそんなに大事なものだったのかな」
「たまき知ってるよ。かーちゃ言ってた。だってアレ、おっぱいを隠すものだもん」
金司は妹の意外な言葉に、全身の毛がぞわりと逆立った。
玉城は二本足で立つと、もこもこ白い毛に覆われたおなかを隠すように手と尾で抱きしめた。
「いやん、にーにゃのえっちぃ」
しゅぱっ。
金司のねこパンチは今日も冴えていた。
思うよりも早く帰路につくことができ、人間狩りは首尾よく終わることができた。
二日目の夕方には峠を超え、夜も更けきる前には家に帰りつくだろう。
「にーにゃ、ひどい。たまきのことぶったぁ~!」
「まだ言うか。からかうお前が悪い」
「だってだって、たまきはにーにゃのこと大好きだもん」
「どのくらい?」
「そーだねー」
ぶおんと轟音を鳴らして、大きな鉄の箱車が二匹のそばを横切ってゆく。
「あれくらい大好き」
「わぁ、愛が重い。そりゃ尻に敷かれたくないね」
あんな大きな玉城の“大好き”がぶつかってきたら、金司はぺしゃ猫だ。
「とにかく僕は実の妹のたまきとは結婚したりしないよ」
「じゃあ、たまきはにーにゃの妹やーめた」
「そ。じゃあ僕らは他人だね」
てくてくと金司は冷たげに先を行く。あっと声をあげ、たまきは慌てて後を追った。
「やぁ~! やっぱりたまき、にーにゃの妹がいい!」
「こいつめ~」
すりすりと愛しげに頬ヒゲをすり合わせてくる玉城に、金司はまんざらでもなさげだ。
「あのー……、美しき背徳の兄妹愛の最中に申し訳ないんですけど」
声に振り返ると、そこには白縄を手首、足首に巻かれてるがくせーちゅうの人間が後ろをついてきている。鬼術で手足を操り、無理やり歩かせてるのだ。
「なぁに、がくせーちゅうさん」
「いや、私はそーゆー虫みたいな名前じゃなくて、玉緒って名乗ったでしょ」
「だってたまきとダブってて、まぎらわしいもん」
「そーだそーだ、僕も呼びづらい。めーわくだ」
猫の子二匹、声を揃えてにゃんにゃんけんけん非難する。
「じゃ、じゃあ苗字でいいです。水野って呼んでください」
「みずののー」
「ああ、だから水玉模様なんだ」
金司はどうでもよさげに、スカートの中を見上げた感想を述べた。
「このバカねこぉっ!」
「やっ! にーにゃ、見ちゃダメ!」
かしまし、かしまし。
「うるっさいよふたりとも。で、僕らに何の質問、みずののさん」
「みずののー」
がくせーちゅうの名は二匹の間ではみずのので定着することになった。
みずののは諦観の表情で、本題に入った。
「おはなしは捕虜になった時に聞きました。私を食べるつもりなんですよね」
「うん、かーちゃのお願いだから」
「命乞いは無駄だよ。前にね、僕は逃げ惑うネズミの一家を女子供まで根絶やしにしたんだ。鳴き叫ぶ子を親の前で無理やりにね。僕は狩りについては非情で冷酷だ、恐れいったか」
「いや、それあんまり怖くないです。むしろありがたいです」
気まずい沈黙。
「違うの! にーにゃはクール宅急便なの!」
「くふっ」みずのの一笑。
「爪とぎの刑!」ふくらはぎに一撃。
「いたっ! 今の反則っ!」
金司は睨みを効かせ、爪を見せびらかす。
「その大根足をすりおろしてやる」
「うー……。とにかく抵抗も交渉も命乞いも無駄だってわかりました。だから」
「だから?」と二人揃って。
一呼吸を置いて、みずののは重たげに言葉する。
「私を食べてもいいですよ」
その表情は足元をうろつく二匹にはよく見えなかった。
二匹は道づて、みずののの話しを聞いた。
要約すると、みずののはひきこもり。家の中に閉じこもって、外に出ない人間らしい。
友達付き合いがうまくいかず、両親とも折り合いがつかず、自分のことをダメな人間だといっていた。どういう人間がダメで、どういう人間がヨシなのか金司と玉城にはよく分からない。ただまぁ、働かず、親孝行もせず、友達もいないみずののは鬼猫であってもダメなやつなんだろうなぁという感覚に落ち着いた。
あくびを噛むほどみずのののあれこれを二匹は聞いてやった。ひたすら眠かった。
時どき泣いたり、怒ったりするみずののに二匹は大弱りだった。
なんとなくみずののの話しは理解できた気になっても、なにか違うらしくて、どうにも噛み合わない。ともかく、みずののはめんどーな人間だった。
「死にたいわけじゃないけど、生きたいわけじゃない」
そんな感じ。
金司は段々と腹が立ってきて、山奥に入り、家が見えてきた頃、とうとう怒った。
「母さんは死んじゃいそうだってのに、お前ときたら贅沢なことばっかり!」
「ふたりのことは偉いなぁと思うよ、だって、私は親孝行なんてしようとも思わないもん。だったら、親想いの君らのために、死んであげてもいい」
「死んであげてもいいってなんだよ! 生きようとしろよ! お前なんて死んじゃえ!」
そんな支離滅裂なやりとりをしていると、玉城は今にも泣き出しそうになった。
「やめたげてよ、にーにゃ。みずののの気持ち、たまき分かるよ。たまきだって、にーにゃに嫌われたり、喧嘩したりすると、もういいやってなっちゃう。生きてるの、つらくなる」
「それは……そんなの甘えだよ。喧嘩したら、仲直りすればいいのに、こいつときたら」
「にーにゃ、みずのの食べちゃったら仲直りなんて、できっこないよ」
そのまま気まずい空気を漂わせ、二匹と捕虜一人は帰宅した。
銀千代は待ちかねていたように布団から身を起こした。幸い、まだ元気そうだ。
銀千代は老いた鬼猫で、口は裂けて身は大きく、額に角があり、虎や獅子のようであった。
「お前たち、無事に帰ってきたんだね」
「僕がしっかり見てたから、大丈夫。ちゃんと人間狩り、できたよ」
「かーちゃ、にんげん! みずののだよ!」
戸惑い、少々おびえた様子のみずののを銀千代は値踏みする。上から下へ、じっくりと。
「この人間は生きてるじゃないか」
「うん。新鮮でしょ、かーちゃ」
「どうして殺してこなかったんだい?」
びくり、とみずののは銀千代の目の鋭さに驚いた。老獪で、本当に人の味を知っていそうだったからだ。今はかわいい金司も玉城も、いずれはこの鬼猫のようになるのだろうか。
「んーとね、なんでなの、にーにゃ」
「僕らは小さいからね、自分に歩かせた方が楽チンだった。合理的でしょ、母さん」
「ははぁ、なるほどそーかい。ふたりとも、賢いもんだねぇ」
「にへへー、たまきかしこい」
「僕がだ、僕が」
なんとなく家族団らんとしていて、猫の旅籠はあったかい。
もうひとつ、あったかいものがある。
油を引いたおっきなおっきな鉄鍋だ。鬼火のように蒼い火が、囲炉裏には灯っている。
「それじゃあ早速、人なべすき焼きといこうかい」
「わぁい!」
みずののを無視して淡々と進む調理準備、喜々として玉城はネギを刻みはじめる。
「あの、本当に私を食べてしまうんですか?」
「食材は黙っておき」
「……じゃあ、最後にひとつだけ。どうしてこの子たちに人間狩りなんてさせたんですか。そりゃ私は苦もせず捕まりましたけど、もし危ない目に合っていたら。人間だって無力じゃないです。鉄砲や刃物で抵抗します。そんな危険なことさせてまで人間が食べたいんですか?」
「生きるってことぁ危険がつきもの。小娘一匹、ちゃんと捕まれてこれないようじゃあ、私ゃ死んでも死にきれない。この子たちだって分かってる。私にね、私がいなくたって立派にやれるんだと見せたげたかったのさ」
みずののは銀千代の話しに聞き入った。なにか、思うところがあったのか。
「こん老いぼれは我が子の成長を見届けたかった、そんだけさね」
じうじうと鉄鍋の焦れる音がした。
「さぁ金司、玉城、最後にこの子をバラしちまいな。肉にしなきゃ食えやしない」
そういわれて料理の手を休め、二匹はお互いの顔を見合わせた。
そして当惑したように玉城は銀千代へ聞き返す。
「ぜんぶ? 足だけ、とかじゃダメなの?」
「そうさね、踊り食いも乙なもんさ。生きたまま天井に吊るして、少しずつ包丁で肉をこそいで焼いてくんだ。まず尻やふともも、血の通ってないところをね。こん娘は若い人間だからね、良い声で啼いてくれようよ。もう見たくないと言ったら、目を抉って食べてやる。もう聞きたくないと言ったら、耳を削いでやる。腹が減ったといったら、おすそわけ。最後には自分から死にたがる。それがいいかい、たまき」
銀千代の語りの恐ろしさに、みなして首を横に振る。銀千代ははぁと溜息をついた。
「情けなや。お前たちはてんで鬼猫の鬼たるところが欠けてる。いいかい、私達ゃ肉を食って生きる獣だ。それを忘れちゃあおしまいさ。お前たちは優しい。けどね、優しいだけじゃダメだ。厳しさがない。惨酷さが足りない。いいさ、それなら考えがある」
銀千代は歯牙に刀を噛み加えて、のっそりと床を這い出した。
「お手本を見せたげるよ」
じりじりと銀千代は鉄鍋の滾る音に合わせ、歩み寄る。
悠然と、老猫は妖しく刃を濡らす。
その双眸、その口牙は鬼火に照らされて蒼く染まっていた。
二匹はただ、あ然とその様を見つめていた。玉城と金司は今、迷っていた。
(殺される――!)
水野は確信した。銀千代の心と言葉に嘘偽りはない。
きっと本心より、我が子らの行く末を案じている。二匹にとっては、最良の母に違いない。
だからこそ、怖い。我が子を思う母の愛ほどに、強い思いもそうありはしないだろう。
そう思うのに、どうして自分は両親ともうまくやってけないのか。水野は悔やむ。我が身を案じてくれているからこそ、折り合いがつかないとは分かってる。学校の連中はいざ知らず、両親は真剣だったはずだ。それがたとえ空回りしていても、実を結ばなくても。
今更ながらに水野は後悔する。
もうすこし、がんばってみたかった。
もっと、生きたかった。
生きてて欲しいと、願ってくれる人が私にまだ居るのであれば。
「やめたげてよぉ!」
玉城が、かばうように割って入った。精一杯、手を広げてる。
この子は本当に優しい。兄想いの良い子だ。水野は嬉しくなった。そして自分を恥じた。母想いの玉城の同情を誘い、どうにか逃れてやろうと心のどこかで思ってた自分を。
「おどき! たまき!」
「みずののは生きなきゃいけないの! 生きて、みずのののお母さんとお父さんと仲直りするの! こんなの、ダメだよ」
修羅めく銀千代の前に、玉城を守るように金司も立ちはだかった。
「僕も……母さん、これじゃダメだ。みずののを、母さんには殺させない」
「おどきったら! くぁ!」
天井を仰ぎ、ぶんと豪快に獅子舞のように首を振る。
そうして鬼母は水野へ横一文字に刃を――。
金司が、その下顎へ体当たりをぶちかました。ひるみ、銀千代はよろめく。
吐き出された妖光の刀を、金司はその両手で担ぎ、受け止めた。
ぐうう、と銀千代は口惜しげにうなる。余命幾許の実母に手を挙げたことを、金司は苦々しげに歯噛みした。
「にーにゃ!」
天真爛漫に玉城は喜び、べそを拭った。金司はポンと玉城の額を撫でさすってやる。
水野はついつい、安堵した。金司の背中は、とても大きく見えた。
「玉城、母さんを。乱暴をしてしまった」
「うん!」
観念したように諦めの眼差しを向ける銀千代の元へ、玉城は四つ足で勇み駆け寄った。
優しくも頼りのない我が子を、それでも立派に成長して、元気ならばいいや、とそう温かく思い抱いているかのように水野には思えた。
と。
銀千代の瞳が驚愕に染まる。縦に細い瞳が、弦を引き絞るように広がった。
その理由が、水野にはすぐには分からなかった。
なにせ――。
水野の視界はすぐに天を仰ぐ。突然、足場が無くなってしまった。足の感覚がない。
急速に視界は暗く、閉じてゆく。
黒く、染まってゆく。
そこに一匹、爛々と瞳を輝かせる鬼が映った。
闇の中、鬼の瞳に一条の涙が零れる。
刀が大きく天井に煌き、そして――振り下ろされる。
水野が最後に見たのは鬼なのか、猫なのか。
金司は慟哭した。
刀を振るい、叫ぶに任せて斬りつけ、滅多斬りにした。
みずののを屠殺した。
人間というものを、血と骨と肉に分解する。それははじめ激情に任せたものであった。が、次第に冷静さを得た。狩りであるということ、食するということ。金司は何かを理解した。そうして作業的に切り分けたみずののを、金司は人なべで焼いた。
じゅうじゅうと肉の焼ける音がして、甘辛い醤油、油の引かれた鉄板、野菜や具材などと共に焼いた。すき焼きにした。そうしてしまうと、もうそれはみずののには見えなかった。
一部始終を、銀千代と玉城は黙って見守る他になかった。
銀千代にとっても、玉城にとっても、金司の選んだ決断は信じがたいものだった。
赤茶色の毛についた返り血を、ぶるぶると身震いして弾く。
やがて出来上がった人なべを皿に盛りつけ、金司は母と妹へ、それを差し出した。
金司はもう泣いてはいなかった。
「母さん、望み通りに用意したよ。人なべを」
銀千代は何も言わず、黙って箸を置く。
そうして、皿ではなく、煮え滾る鍋に頭を突っ込んだ。
必死になって、金司の手料理と決意を味わう。喰らい、溺れる。
それは銀千代の思いの壮絶さを物語っていた。
「みずのの、ごめん。僕は兄だ。鬼猫だ。僕は君が生きたいと願っても、それを踏み越えて生きる勇気を示さなきゃいけない。母さんに安心して旅立ってもらえるように
君はダメな人間だったけど、ちょっと好きだった。だからこそ、僕は胸を張って、母さんに君をご血葬するよ。
みずのの、君の味は忘れない」
そうして金司は黙々と、箸を手繰った。
残されたのは玉城である。
玉城は決断をできないでいた。食べるか、食べざるか。
その意味するところを理解できていても、兄の選択がどれほど過酷であった分かっていても。
兄が、母と自らのために鬼を演じたとわかっていても。
「にーにゃ……たまきは、みずのの、食べたくない」
「いいよ。僕もだ。みずののを食べたくはなかった」
金司は噛み千切り、みずののを咀嚼する。
喉が、ごくりと胎動する。
「にーにゃ、だけどたまきはいつまでも甘えん坊の妹じゃ、やだよ。
だって、たまきはにーにゃのこと大好きで、いつかお嫁さんになりたいから」
鉄鍋が、静かになった。
鬼火が消える。
銀千代は人なべの中にて、眠りについた。我が子の最高の手料理の中で。
銀千代の焼け焦げてゆく、香ばしい匂いがした。
皿を置き、玉城はそっと鍋へ寄る。
「たまきは親不孝もの、最後までかーちゃに甘えてた」
くちゃり、くちゃりと玉城はみずののを口にする。
「これで玉城は――かーちゃのこども失格。ね、これで結婚できるよ」
仔猫は、母猫を愛しげに食んだ。
そうして頬を汚して、乙女は恋焦れて微笑む。
「にーにゃ、かーちゃにはナイショだよ」
猫なべ人なべ。どんな味。
――了――