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御耶美
作:隆武


(親父は、どんな気持ちで死んでいったのだろう)
 目の前の墓を見つめる。小さい寺院の墓場には、俺一人しかいない。
 二十年前、酒に酔って暴力をふるい続ける父から、母は幼い俺を連れて逃げた。女手一つで俺を育てた母の苦労は、並大抵ではなかったはずだ。親戚は誰も助けてくれず、生活保護を受ければ「身内の恥」と罵られた。
 血のつながりなど、何の意味もないことを知った。
 俺に苦労をさせまいと、昼夜働く母を見て育った俺が、父に抱く感情は憎しみ以外になかった。
 そんな母も、俺が特待生で大学に入ったのを見届けると、床に伏せがちになり、半年の闘病生活の末、息を引き取った。まだ四十三だった。
 親戚も来ない、寂しい葬式だった。今でも遺影を見ると、母の人生は一体何だったのかと思うことがある。俺なんかのために、働きづめの一生を送った母が、満足な人生を送れたとは到底思えなかった。
 大学を出た俺は、企業に就職した。せめて、母の誇れる息子であろうと懸命に働いた。
 仕事も波に乗り出したある日、父の死亡が知らされた。
(あんたも、寂しく死んでいったんだな……)
 父の葬式もまた、寂しいものだった。結局、俺達家族は、親戚から見放されていたようだ。墓に刻まれた父の名が小さく見えた。
「あんた、真崎秀和まさきひでかずさん?」
 突然、声を掛けられた。さっきまで誰もいなかったはずの墓場に、いつの間にか若い女性が立っている。
「……そうですが。あなたは?」
 小柄で、肩まで延びた髪が風でなびいている。歳は二十歳前後か。
「えっとね……ちょっと言いにくいんだけど……」
 初対面の人に対する話し方じゃない。
「あんた、狙われてるらしいよ」
「狙われてる?」
 物騒な事を言う娘だ。
「何言ってるんだ? 俺が狙われてる? どうして? だいたい君は誰だ?」
「とにかく、気をつけなよ。いい? 警告したからね!」
 そう言い放つと、こちらの返事も待たず、彼女は立ち去った。
(な、何なんだ、あれ……)
 ほんの一瞬、強い風が通りすぎさったような感覚だけが残った。

 何かと面倒な手続きも一段落し、やっと自宅へ帰れる日が来た。数日休んだ分、仕事も溜まっている。今晩にも会社に行かなければ。
 二十年前の微かな記憶とほぼ変わらない、小さい駅で切符を買い、改札に向かった。田舎とは言え、人の数は多い。だが都会と違い動きは緩やかだ。
 人にぶつかりそうになり、咄嗟に避けた。が、相手も同じ方向に避けたため、立ち往生した。
「失礼」
 相手に道を譲る。が、相手は立ち止まったままだ。
 改めて相手を見る。黒いスーツ姿の背の高い男と目が合った。その後ろにも、同じスーツの男が立っている。田舎の小さな駅にはとても不釣り合いな男達だ。その違和感に、通り過ぎる人たちも無視できないようだ。
 背後に気配を感じた。振り返ると、やはり同じようなスーツの男が一人立っている。この手の場面では、黒のスーツと決まっているようだが、今は笑えない。
菱磨りょうま研究所の真崎博士ですね?」
 スーツの一人が丁寧に話しかける。
「そうですが……あなた方は?」
「一緒に来てもらいましょう」
 男二人に、両脇を捕まれる。一瞬、墓場で会った娘の言葉が頭をよぎる。
「な、何だ、君たちは! 放せ!」
 その声に周囲が静まり返る。スーツの男が、すかさず胸ポケットからバッジらしきものを取り出し、周りの人に見せた。
「警察です。大丈夫です。お騒がせしました」
 周囲がざわめく。
「な、け、警察?」
 何故警察が俺を? そう考えている間に、スーツの一人に手錠を掛けられた。
「連行しろ!」
 周囲の目が、犯罪者を見る目と変わるのが分かる。
(違う! 俺は犯罪者じゃない!)
 叫ぼうとしたが、後ろの男に背中を押されて挫かれた。そのまま引きずられるように駅の構外に連れて行かれた。
「な、何なんだ。警察が、俺に何の用だ!」
 突然、銃口を向けられた。思わず凍り付く。
「黙ってついて来てもらおうか。あなたを殺すことは出来ないが、死なない程度に痛めつけることは出来る」
「お、お前達……警察じゃないのか」
 男達は何も言わず、停めてあったワゴン車に俺を乱暴に押し込めた。直後に目隠しをされた。
「出せ」
 勢い良く、車が発進されたのを感じた。

 手錠がはずされ、続いて目隠しがはずされた。蛍光灯が眩しくて、しばらく目が開けられない。
「真崎博士、手荒な真似をしてしまい申し訳ございません」
 やっと目が慣れた時に、目の前に座る少し太った小柄の男の姿が見えた。
「ここは何処だ? あんた達、何者だ? 警察じゃないだろ! 俺をどうする気だ?」
「博士、落ち着いてください。協力してくだされば、何もしませんよ。我々は、あなたが開発した、真崎ウイルスを頂きたいのです。いったい何処に保管してあるのです?」
 名乗る気はないようだ。
「……真崎ウイルスは、研究用に市販されている。勝手に使えばいいじゃないか!」
 だが、こいつらの要求は薄々分かり始めていた。
「いいえ、博士。とぼけようとしても無駄ですよ。私が言っているのは、オリジナルの真崎ウイルスです。市販されているウイルスは、感染力も弱い。しかも感染を始めると、自己消化を起こすシステムが組み込まれています。そのため、長期の研究には使えません」
 やはりそうか。どこでオリジナルの存在を知ったか知らないが、用件は分かった。だが……
「……あれはマウスなどの、寿命の短い生物用に開発したんだ」
 そもそも特定の遺伝子を長時間発現させることによる安全性、危険性が明確ではない。
「ですから、我々は自己消化しないオリジナルウイルスが欲しいのです。我々も、市販されているウイルスを改変しようと、いろいろと試みたのですが、どうやっても自己消化を防ぐことが出来ません。遺伝子配列を調べようとしても、消化酵素をコードする配列がうまく読み込めないのです。博士、あなたがわざと読み込めないように仕組んだのでしょう?」
 小太りの男が、口に笑みを浮かべ俺の目をのぞき込んだ。
 言葉に詰まる。
 真崎ウイルスは、感染した細胞の特定の遺伝子を強制的に発現させることが出来る。開発当初は、このウイルスを用いた免疫系の強化、自己回復力の強化など、医療への応用が期待された。だが、マウスを用いた実験で、このウイルスの危険性も判明した。
 真崎ウイルスにより、ある脳内ホルモンだけを強制発現させたマウスが、突然凶暴になり、仲間のマウスを次々とかみ殺してしまったのだ。もし、人間に同様のことが起こったなら……そう思うと背筋が凍る思いがした。
 通常、ウイルスに寿命はないが、このウイルスには寿命を持たす必要を感じた。そこで、自己消化のシステムを組み込んだのだった。オリジナルのウイルスの感染力は、エイズウイルスと同程度でそれほど強くないのだが、自己消化のシステムを組み込んだウイルスは、さらに感染力が弱まっていた。
「博士、我々もあのウイルスの危険性は知っています。いや、どんな研究にも少なからず危険は付きものでしょう。医療の発展のために、敢えて危険を犯す必要もあります」
 確かに、研究には危険がつきまとう。だが……
「……いきなり拉致して、医療の発展に貢献しろとでも言いたいのか? お前達が何者か知らないが、とても社会貢献しようとしている輩には見えんがな」
 小太りの顔がこわばった。そもそも人を脅し、拉致するような組織が、社会貢献しているはずがない。
「博士……我々は肉体強化の研究をしています。そう、強化人間を作ろうとしているのです……」
 強化人間? 短絡的な発想だ。
「軍事利用でもしようっていうのか?」
 小太りが、息を呑んだのが分かる。世の中には、どうしても戦争をしたい輩がいるようだ。それだけ、戦争では金が動くということか。
「……ウイルスの効果が切れると、実験体は全て廃人と化しました……」
 廃人だと? 自業自得というやつだ。一体どんな遺伝子を強制発現させたんだ?
「博士、協力してください。オリジナルのウイルスがあれば、全て解決されるはずです。菱磨研究所でも、オリジナル真崎ウイルスの保管場所は不明だと聞きました。人付き合いのないあなたは、誰にも強力を求めず研究を続けていたそうですね」
 どうやら菱磨研に情報を漏らした者がいるようだ。そもそもオリジナルの存在もごく一部にしか知られていなかったのだから。やはり、どこにも信用できる人間なんていない。
「博士……拒否すれば、あなたの命を奪うことになります。あなたが他の組織に技術提供されると、我々の立場がありませんので……」
 後ろに立っていたスーツの一人がまた銃口を向ける。自分たちの都合、勝手な理由を押しつけて、言うことを聞かないと、殺すだと? 一発殴ってやりたいが、心とは裏腹に銃口を向けられた体は情けないくらい凍り付いている。
「博士、一晩だけ時間をあげましょう。だが、我々も時間がない。クライアントがうるさいのでね……」
 そう言うと小太りの男は立ち上がり、部屋を出ていった。
「来い」
 スーツの一人が乱暴に俺の腕を引っ張り、部屋を連れ出した。
 暗い廊下をしばらく歩き、一つの部屋に連れて行かれた。
「よく考えるんだな。死にたくないだろ?」
 そう言って、部屋に突き飛ばされ、鍵を掛けられた。

 暗い部屋の片隅に置かれた、質素なベッドに腰を下ろす。今、何時なのかも分からないが、夜中だろう。
 状況は最悪だ。
 オリジナルウイルスの保管場所を教えるか、あるいは作り方を教えるか……助かる道はそのいずれかだ。
 ふと、凶暴になったマウスを思い出す。そして、その姿が人間へと変わる。電車で居眠りをする人、デパートで買い物する人、コンビニで立ち読みをする人……そんな、普通の人たちが、突然殺人鬼に変わる。
 自分の開発したウイルスが起こす惨劇。
(そんなこと、起こさせるものか!)
 拳を握る。怒りと悔しさが入り交じった感覚が、身体を震えさせる。
 突然、外で物音がした。身体がびくっとする。
(な、何だ?)
 扉のノブを激しく動かす音が響く。思わず立ち上がり、奥の壁に背中を押しつけるように後ずさりした。
「あー! もう!」
 いらだった女性の声と共に、扉が弾き飛ばされた。
 呆然と扉を失った入り口を見つめる。
「真崎さん? 無事? 生きてる?」
「き、君は……」
 墓場で会ったあの娘だ。
「もう! だから気をつけなって言ったでしょ! 手間掛けさせないでよ!」
 言葉が出ない。この娘は、俺を助けに来たのか?
「何ぼーっとしてるのよ! 行くわよ! 早く!」
「あ、ああ……」
 彼女の勢いに呑まれるように、俺は部屋を出た。
 廊下には、数人の男達が倒れてうめき声を出している。
「き、君が一人でやったのか?」
「いいから! 話してる暇はないの!」
 黙れ! と言わんばかりに彼女は俺を一睨みし、廊下を駆けだした。
 長い廊下だ。暗くて前もよく見えないが、彼女は凄まじい速さで走る。ついていくのがやっとだ。
 突然、明るくなった。と思うと、前方から男が数人迫ってきている。
「あ、ああ!」
 情けない声を出してしまったが、彼女は立ち止まるどころか、さらに加速した。
 男達が銃を向けようとした瞬間、彼女の身体は宙に浮かび、左の壁、続いて右の壁へと移動した。いや、舞ったという表現が正しいかも知れない。男達も、彼女の動きに目を奪われているのか、銃を持つ手が動いていない。
「はっ!」
 彼女の身体が旋回しながら落下し、男達の顔面を次々と蹴り飛ばした。
「す、凄い……」
 息を呑んで彼女を見つめた。彼女もこちらを睨む。
「……突っ立ってないで、走れ!」
 彼女の喝に、思わずびくんとする。
「は、はい……」
 慌てて後を追った。

 何とか奴らの建物から逃げ出し、廃墟と化したビルへと隠れることができた。この辺りは、かつては工場地帯だったようだが、今は人気が全くない。夜の闇の中、休める場所を探し、崩れかけの階段を昇った。もう体はへとへとだった。走りすぎで、呼吸も落ち着かない。こんなに走ったのは久しぶりだ。
「ここまで来れば、しばらくは大丈夫なはず……」
 彼女はずいぶんと落ち着いている。俺はまだ息が荒れていたが、聞きたいことが山ほどあった。
「い、いったいあいつらは何なんだ? 君は何者だ?」
 彼女は一息ついて、床に座り込んだ。
「あんたが監禁されていたのは、プロテオバイオ社の研究所さ」
「プロテオバイオだと?」
 その名は聞いたことがある。ここ数年で巨大になったベンチャー企業だ。表向きは、医薬品、治療薬の開発をしていることになっているが、裏では各国の軍事開発に協力しているらしい。
(噂は本当だったか……)
 吐き気がした。医療の発展のために開発したウイルスを、戦争の道具にされてたまるか。
「あんた……」
 彼女が、また俺を睨む。
「あんたさ、何したの?」
「え? 何って……き、君は俺が拉致された理由を知らないで、助けてくれたのか?」
 睨んだ顔が、突然困った顔に変わった。よく見ると可愛いかも知れない。
「知らないわよ。ねえ、いったい何したの?」
「……じゃあ、どうして俺を助けたんだ?」
「うるさいなぁ。説明が面倒なのよ。助けてあげたんだから、こっちの質問に答えてよ」
 再び睨み顔になってくる。可愛い顔が鬼に変わるような感じだ。
「……あいつらは、俺の開発したウイルスを狙ってるんだ」
「ウイルス? え? あんた、お医者さんか何か?」
 本当に、何も知らないようだ。
「ああ、科学者だ」
「へえ……で、そのウイルスをどうしてプロテオバイオが狙ってるの?」
 俺は、彼女にウイルスを作った目的と、一方で、このウイルスの持つ危険性についても説明した。そして不適切な使用を防ぐために、自己消化システムを組み込み、簡単にはそれを解除できないようにしてあるということ、その自己消化システムのために、プロテオバイオでは強化人間を作る実験に失敗しているということも。
 彼女の顔が、ますます鬼になっている。
「あたし……難しい話を聞くと、無性に人を殴りたくなるんだけど……」
 ついさっきの、男達を一瞬で蹴り倒した場面が脳裏に浮かぶ。背中に冷たいものが走った。
「……わ、分かった。話は以上だ……」
「そう」
 彼女の表情が少し和らいだ。
「とにかく、あんたの作ったウイルス菌は、薬にも毒にもなる、ってことね?」
「……ま、まあ、そんなところだ」
 ウイルスと菌は別物だが、それを説明すると殴られるかも知れない。
「で、プロテオバイオは、それを毒として使おうとしてる、ってことね?」
「……ああ。似たようなもんだ」
 この際、方向が合っていれば詳細はどうでもいい。
「前からあの会社は胡散臭かったけど、やっぱりね……よし! この話、引き受けるわ」
「え? な、何の事だ?」
「だから、あんたを助けてやるってことさ。そこでさ、報酬のことだけど……」
「ほ、報酬?」
「あんたが悪いわけじゃないから、安くしてあげたいんだけどさぁ……あたしもお金が必要なのよ。あんた、あんまりお金持ってそうになかったから、助けようかどうか迷ってたんだけど。でも、詳しく知った以上、放って置くわけにもいかないわ。あんただって、今頼れるのはあたししかいないでしょ?」
 話が見えない。
「ちょ、ちょっと待て! き、君は一体何者なんだ?」
「ああ、自己紹介忘れてたね」
 屈託のない笑顔を見せた。
「私は、柏木御耶美かしわぎみやび。これでも女優の卵よ」
 全く話が見えない。
「でも、今はお金がないから、レッスンにも行けないの。だから、とりあえず稼がないといけないのよ。で、いくらまで出せる?」
 信用して良いのか、分からない。
「あ、ちょっと待って……」
 突然、彼女は自分の左耳に手を当てた。小さなイヤホンがあるようだ。
「あんた……警察に指名手配されてるよ」
「な、何?」
 警察無線を傍受してるのか?
「……産業スパイ……だってさ」

 廃墟ビルの屋上に立った。
 御耶美という、あの娘は熟睡している。ずいぶんと肝の据わった娘だ。出会ったばかりの男と二人きりで、こんな人気のないところで寝られるなんて信じられない。だが、あれだけの強さを持っていれば納得もできる。しかも、警察無線の傍受の他、様々な小道具を持ち歩いているようだ。ただ者とは思えない。だが、今はそんなことよりも、自分に掛けられたスパイ容疑で頭がいっぱいだった。
 空を見上げた。星はあまり見えない。
(産業スパイだと? 俺は犯罪者の汚名を着せられたのか?)
 腹が立つ。俺のウイルスを軍事利用しようと企む組織のために、こんな目に遭うとは……
 今まで俺は、母の誇れる息子として、人に恥じぬ生き方をしてきた。それが、死んだ母に対する、せめてもの親孝行だと信じてきたからだ。嘘でも、犯罪者の母と呼ばせたくない。それなのに……
 もし、プロテオバイオに捕まれば、今度は生易しい尋問では無くなるだろう。警察へ逃げ込んでも無駄なようだ。地元警察は、プロテオバイオの手中にあるらしいと、あの御耶美が言っていた。
 聞き捨てならないのが、プロテオバイオの取引先の話だ。どうしてそんな情報を持っているのか分からないが、あの御耶美によると、各国の軍事関係者だけでなく、国際的なテロ組織とも取引しているらしい。本当なら、危険すぎる。
(俺のウイルスを、人殺しの道具にされて、たまるか……)
 俺は科学者だ。科学は、人類の発展のためにあるんだ。一個人の利益や、人殺しのためにあるんじゃない。
 奴らにオリジナルウイルスが渡れば、俺は人殺しの道具を作ったことになる。望んだかどうかは関係ない。危険性を知っていた時点で、対策を立てなければいけないんだ。
 それが、科学者としての責任だ。
 そして、それは自己消化システムを組み込むことで果たしていたつもりだった。
 まさか、こんな事になるとは思わなかった。
(奴らに……オリジナルウイルスを渡すわけにはいかない)
 だが、逃げ切れるだろうか?
 オリジナルウイルスの場所は、俺以外、誰も知らない。心の許せる友など、信頼できる仲間などいなかった。だから、研究は全て一人で行った。
(俺がいなくなれば、オリジナルの存在は永遠に不明になる)
 ふと、ビルの下を見下ろす。数十メートル先にアスファルトがあるはずだ。
(痛いのかな……でも、落ちる途中で気を失うとも聞く……)
 風が冷たい。
 俺の人生は何だったのだろう? 真面目に、一生懸命、生きてきたつもりだ。病に苦しむ人を……母のような人たちを、救いたかった。
 だが、このままでは人々を苦しめる原因を作ってしまう。
(お袋……ごめんな……こうするのが一番なんだ……)
 ふと、親父の顔が浮かんだ。葬式の遺影と同じだが、何か言いたそうだ。
(親父、俺達家族は、この世に生きた意味なんてなかったのかもな……)
 そう思った瞬間、目頭が熱くなった。本心から、そう思いたくはなかった。
 屋上の縁に静かに立つ。一歩先には道はない。そう自覚すると身体が震えた。だが、真崎ウイルスがテロに使われた時、俺は正気でいられるだろうか?
 めまいがした。身体が前に傾く。と、同時に無重力になった。
 風が、顔を殴る。痛い。
 ビルの窓が目の前を流れる。全てがゆっくりとした動きだ。
 何かが割れる音がした。
(み、御耶美?)
 割れた窓ガラスの中から、御耶美が飛び出してくるのがゆっくりと見えた。
 身体を捕まれたのと当時に、身体中の骨が軋んだのを感じた。時間の流れが速くなる。
「くっ!」
 さっきとは違う方向から風が吹いた。その方向に目をやる。ビルの窓が迫っている。
「目を閉じろ!」
 言われるままに目を閉じる。
 その直後、ガラスの割れる音と共に身体が何かに打ち付けられた。

(……た、助かったのか? 俺は……)
 ゆっくりと起きあがる。身体中が痛い。
 ふと、足音が近づいた。と思った瞬間、頬をぶたれた。
「あんた、何逃げてんのよ!」
 闇にも関わらず、御耶美の睨み顔が見える。
「……どうして、助けた?」
 また殴られた。
「死ねば、解決すると思ってるの! 死んでから後悔しても、遅いの!」
 死んでから後悔?
「あんたは……あんたは、何も分かってない。何も知らない! 今死ねば、あんたはずっと後悔し続ける! 自分のやるべき事を放棄して、死んでしまったことを、必ず後悔する! あたしは、そんな魂をいっぱい見てきた! あんたの親父さんもそう! 後悔してるの! 今でも後悔してる! あんたと生きているうちに話が出来なかったことを! でも、死んだ自分には何も出来ないから……あんたを助けることが出来ないから、だからあたしに、あんたを助けて欲しいって、言ってきたのよ!」
「な、何を言っている?」
 御耶美の目が、哀しい眼差しになった。
「……信じてくれなくてもいい。死んだ人の声が聞こえるなんて、頭がおかしいと思われて仕方ない……けど、けど、覚えておいて! 信じなくても、覚えておいて! 死んでも、心は残る! 魂はそのまま残るの! でもね、魂だけではどうすることも出来ない。肉体を持ってなきゃ、何にも出来ないのよ! だから、この世に未練がある魂達は、生きた人に泣きつく! 取り憑こうとする! いい? 肉体を持った魂は強いの! 私たち、生きた人間は、無限の可能性を秘めてるのよ! だから、どんなに辛くても、生きるの! 生きていれば、どんな問題でも、いつか必ず解決出来るんだから!」
 言葉を失った。魂の存在なんて信じていない。だが、彼女の言葉が心を揺さぶる。
「……俺が死ねば、ウイルスの保管場所は誰にも分からなくなる」
 だから、俺が死ぬことが、科学者としての責任なんだ。
「あんたは、それで責任を取ろうとしてるつもり? そんなの、自分の責任から逃げてるだけじゃない! あんたが死んだ後、あのウイルスのオリジナルってのが見つかったらどうするの? 誰も、何も出来ない! 作ったあんたじゃなきゃ、対処出来ないじゃない!」
 冷たい水を掛けられたような感覚だ。
「だが……だが、どうすればいい? 奴らから逃げられるのか?」
「あたしが……あたしが、あんたを守る! 必ず……」
 彼女が、頼もしく見える。
「……だ、大丈夫……なのか?」
 頼って良いのか?
「大丈夫。だから……」
「……だから?」
「……報酬、もうちょっと上げて。お願い……」
「……え?」
「……家賃も、ずいぶんと滞納してるの……」

 希望と不安が入り交じった感覚のまま、朝を迎えた。
 御耶美はぐっすりと眠っているが、俺は一睡も出来なかった。
(しかし、なんて娘だ……)
 窓の外を見上げる。細いワイヤーが垂れている。御耶美は、屋上から落ちる俺を、途中の階の窓から飛び込んで捕まえた。そして、ベルトからこのワイヤーを発射し、窓枠に引っかけ、あとはターザンのように下の階の窓へと突っ込んだのだ。
(一歩間違えれば、自分も死んだかも知れないのに……)
 めちゃくちゃだ。だいたいそんな道具、映画や漫画ではありそうなものだが、実際に存在していること自体、驚きだ。
 だが彼女のお陰で、俺は死なずにすんだ。
(生きていて良かった)
 御耶美が言うように、俺は自分の責任から逃げようとしただけだった。あのウイルスのオリジナルが発見され、悪用された場合、対応策を考えられるのは俺だけかも知れない。
 俺にしか出来ないこと……それがある限り、俺は生き続けなければいけないんだ。
「うーん……」
 御耶美が寝返りをうった。差し込む朝日に顔を照らされている。
(……可愛いな)
 怒らずに、静かにしていれば、かなりの美人だと思う。女優やモデルを目指していると言われても、納得するだろう。
(親父に頼まれたって本当だろうか?)
 俺が、屋上から飛び降りようとしているのも、親父の魂が御耶美に教えたという。彼女には、霊感があり、死んだ親父と話が出来るというのだろうか? いや、霊とか神とかは、信じていない。俺が信じているのは科学だけだ。だが、親父が何と言っているのか聞いてみたい気がする。信じてはいないが、聞いてみたい。
 お袋のことをどう思っていたのか? 俺のことをどう思っていたのか? 自分自身の人生について、どう思っていたのか……

「おい! 起きろ! いつまで寝てるんだ!」
 御耶美の声が頭に響く。
「ん……ん?」
 いつの間にか寝てしまったようだ。
「まったく、いびきなんかかいて、いい気なもんね。少しは緊張感ってものがないの?」
 お前に言われたくない、と、もう少しで言いそうになる。
「……ごめん」
 思わず謝ってしまった。
「まったく……」
 御耶美は、立ち上がると外を見た。太陽の昇り具合から、昼近いと分かる。
「さあ、行くわよ! ヒデ!」
「……どこへ?」
 ヒデ?
「プロテオバイオ社」
「え?」
 な、何を言い出すんだ?
「証拠を頂いておくのよ」
「証拠?」
「そう。あんたの話だと、ウイルスを使って人体実験をしてるんでしょ? だったらそのデータか何かがあるはずよね? それを持ち出すの」
 良い考えでしょ? と言いたげそうな顔だ。
「……そ、それこそ、スパイじゃないか!」
「まあね。でも、そういう証拠があれば、いい金に……いや、プロテオバイオ社を潰せるのよ」
「い、今、金って言わなかったか? おい!」
「空耳よ! とにかくデータが欲しいの!」
 睨まれる。
「デ、データなんて、後から改竄出来るんだぞ。証拠として証明する方が難しいこともある」
「そんな心配はしなくていいの。とにかくデータか何か、確実な証拠を持ち出すのが先決よ」
 何なんだ! いいのか? そんなことで。
「問題は、どうやって盗むか……」
 間違いではないが、盗むって表現が嫌だ。
「で、でも証拠を持ち出しても、その後どうするんだ? 誰に見せるんだ?」
「大丈夫。手はもう打ってあるの」
 え?
「でも、あいつらが証拠隠滅する前に、掴んでおかないとね。さ、行くよ!」
「……し、忍び込むのか? 昼間から……」
 昨夜、逃げ出した所に?
「そう、まさかあんたが戻ってくるとは、向こうも思ってないでしょ?」
 どこか自慢げな顔の御耶美に、何と言っていいのか分からなかった。

 昼間の方が、人の出入りが多い。普通、研究所には所員以外にも、たくさんの人が出入りするため、夜間よりも侵入はしやすい。だが明るく、人が多い分、捕まる可能性は格段に高い。
 研究所から出てきた試薬業者の車を強引に停め、運転手を脅し、その荷台に乗り込んだ。
「忘れ物をしたといいなさい。余計なことを言えば、撃ち殺すよ」
 御耶美は手慣れたように言った。拳銃のようなものを持っているが、もちろん偽物だ。
 ついさっき出所したばかりの業者だったため、怪しまれずにすんなりと研究所に入ることが出来た。駐車場に停まると、運転手は気絶させられた。
 敷地内を、何事もないように歩く。
「白衣を着た方がいい」
「白衣?」
 御耶美が目を丸くする。
 歩いている人は、みんな白衣を着ている。すこし変わった普段着で、やや汚れた服の御耶美は特に目立ってしまう。
 ロッカールームに忍び込み、誰のか分からない白衣を拝借した。
「名札がないのが気になるな」
「名札ないと目立つ?」
「さあ、意外と気にされないかも知れないけど」
 白衣を着た彼女は、ずいぶんと上品で、やり手に見える。
「ねえ」
「ん?」
「ヒデさ、朝より元気というか、やる気になってるね」
「そうかな」
「うん、妙に積極的。どうしたの?」
 もし捕まったら、どんな拷問を受けるか分からない。だが御耶美と一緒だと、捕まる気がしなかった。一度、死を覚悟したことも、俺の肝を据わらせたのかも知れない。
「……ここまで来たら、やるしかないだろ?」
「そうね。ま、私も助かるわ」
 御耶美はロッカールームから廊下の様子を伺い始めた。
 正直、証拠を盗むことに気は進まなかったが、人体実験のデータ自体には興味があった。行ってはならない人体実験……そのデータがここにはある。未知なる実験データを見られることに、胸が高鳴っている自分がいる。そして、それは俺自身にも関係があることだった。
「ねえ。データとかって、何処にあるんだろうね?」
「……おそらく地下だろう」
「地下?」
 人体実験、しかも強化人間を作るという実験なら、それなりの広さが必要だ。ここの研究所はそれほど大きくはない。外部にバレないように実験を進めるには、地下が適している。電子データも、全てそこで管理されているはずだ。おそらく、一般所員も知らないのではないだろうか。
「じゃあ、あんたが捕まってたところに実験室があったのかも」
 そう言えば、俺が監禁されていたのは地下室だったんだ。脱出の時は必死で気にしていなかった。
「俺達、どこから脱出したのか覚えてるか?」
「もちろん。こっちよ」

 何度かここの研究員とすれ違ったが、誰にも気にされなかったようだ。中には、軽く会釈する者もいた。白衣一つで、ずいぶんといい加減なものだ。
 お陰で、昨夜脱出した場所へとすぐにたどり着けた。
「げ、下水口? だったのか」
「……みたいね」
 御耶美も気付かなかったようだ。
「とにかく入ろう」
 中に入り、御耶美が携帯していた懐中電灯で、周囲を見渡す。真ん中に排水が流れる長い通路の壁に、いくつか扉が見える。どうやらここは、地下実験室での事故に備えた脱出経路も兼ねているようだ。
 一つの扉を開けると、さらに地下へと続く螺旋状の階段があった。その階段を降りきるのに、ずいぶんとかかったが、ようやく一つの扉の前に来た。
 ゆっくりとその扉を開ける。明るく広い廊下が見えた。見覚えがある。ここを通って脱出したんだ。
「……おかしいな……」
 御耶美が独り言のように言った。
「どうした?」
「警備がまったくされてないじゃない? 昨日、あたしがあれだけ大暴れしたのに……」
 そう言われてみるとそうだ。少し、危険な感じがする。このまま進んでいいのだろうか?
 物音が聞こえた。
「誰か来る!」
 扉を閉め、螺旋階段の影に隠れた。
 その瞬間、扉が勢いよく開く。
「は、早く、早く昇れ! 急げ!」
「く、暗くてよく見えない!」
 白衣の男達数人が、慌てて螺旋階段を昇っていった。
「……何かあったようね」
 御耶美と顔を見合わせた。チャンスかも知れない。混乱に紛れてデータを頂こう。
 再び扉を開け、廊下に出た。
 男達が来た方向へと走った。
 ずいぶんと長い廊下だ。そう言えば、脱出の時もずいぶんと長く走った気がする。
「ヒデ! 待って!」
 突然、御耶美が立ち止まった。
「どうした?」
 御耶美の目が鋭い。
「……いっぱい……死んでる」
 御耶美の霊感か?
 ふと、前方から足音が聞こえた。ゆっくりとこちらへ向かってきている。慌てて周囲を見渡したが、何処にも隠れるところがない。
(ま、まずい)
 御耶美と共に、立ちつくす。
「……た、助け……て……」
 血だらけの男が、ふらついてこちらに歩いてきた。倒れそうになったのを受け止める。
「ど、どうしたんだ?」
「じ、実験体が……突然、暴れ出した……み、みんな、殺され……」
 男が突然、痙攣を起こし出した。
「お、おい! しっかりしろ」
 だが男はがっくりと頭を垂れたまま、動かなくなった。
「ヒデ……あれ……」
 廊下の先に、大きな影が見えた。ひたひたと裸足で歩くような音が響く。
「……強化人間……」
 自分の声が震えているのが分かる。
「に、人間? とても、そうは見えないけど……」
 御耶美は、ゆっくりと俺の前に立ちはだかった。俺を守るように。
 大男の顔が見えた。今にも飛び出しそうなくらい、目が見開かれている。筋肉が異常に膨らんで、服が所々裂けている。口から涎が流れている。垂らした両手から、ぽたぽたと血が垂れている。殺した人たちの返り血か。
「……ずいぶんと、興奮してるようね」
 御耶美は、どこか楽しげだ。
「み、御耶美、逃げよう……」
 そう言った直後、大男が凄まじい速さで突進してきた。
「くっ!」
 御耶美は、俺を背後に蹴飛ばした。
「ヒデ! 逃げろ!」
 そう叫ぶと、大男に立ちはだかった。
 大男の目がさらに見開かれる。
「ひ、ひひ……お、女だ」
 男の手が、御耶美を捕まえようとする。彼女はそれをかわし、壁へと飛んだ。相変わらず凄い跳躍力だ。
「ふん!」
 壁から跳ね返るように、大男の頭部に蹴りを入れた。
「があ!」
 大男の顔が苦痛に歪む。御耶美が、男と距離を取る。
「……丈夫な頭ね。蹴った足が痺れてる」
 男を睨んでいる。
「……がはあ……はあ、お、おんな……」
「女、女って気持ち悪いのよ!」
 御耶美が再び飛びかかる。
 大男の動きは、筋肉が異常に膨張している割に素早い。御耶美の動きは、それを少し凌ぐ程度だ。
(……つ、捕まったら終わりだ)
 大男の目がぎらついている。理性のない、欲をむき出した目だ。御耶美を捕まえたらそのまま、犯し殺しそうな勢いだ。
 周囲を見渡す。消火器が目に入った。
「きゃ!」
 御耶美の叫び声が聞こえた。
「ひ、ひあ、はあっ……つ、つかまえたー……ひひ」
 御耶美の片足を掴んだ大男が、彼女のジーンズに指を引っかける。
「は、放せ! 触るな! 気持ち悪い!」
 その手を、もう一方の足で蹴り放そうとしている。
「おい!」
 男に向かって叫んだ。男が俺を睨む。と、同時に消火器を勢い良く発射した。
「ぐ、ぐああ!」
 消火剤が目に入ったようだ。男が手を放した。その隙に、御耶美を引っ張り起こす。
「御耶美、逃げるぞ!」
「あ、あー! あたしのジーパンが破けた! これ、高かったんだぞ!」
「バ、バカ! ジーパンくらい、買ってやるから!」
「ホ、ホント?」
「ああ、だから逃げるぞ!」
 もう、証拠なんてどうでもいい。いや、あの大男が、何よりも人体実験の証拠ではないか。
 御耶美の手を引っ張り、廊下を逆戻りする。
 長い廊下を一気に走り抜けようとしたが、突然前に鉄の壁が現れた。
「な、何よこれ! さっきはこんなのなかったじゃない!」
「……防火扉が閉められたんだ」
 おそらく俺達がここにくる直前に、非常事態になっていたのだ。サイレンが鳴っていないのは、外部に漏れる前に秘密裏に処分するためだろう。
「さ、最悪……」
 背後からうめき声が聞こえてくる。
 周囲を慌てて見渡す。小さな扉が目に入った。
「あ、あそこ!」
 御耶美が扉のノブに手を掛けた。鍵は掛けられていない。急いで中に入る。内側に防火扉があったので、慌てて閉めた。
 深呼吸をして、周囲を見渡す。試薬棚が並んで、いろんな薬品が置かれている。ちょっとした実験室のようだ。
「な、何か武器になりそうなものはないの?」
「どうかな……」
 ふと、実験台の上のプラスチックのビンに目が止まった。強アルカリの水酸化カリウム溶液だ。実験に使う緩衝液のpHを調整するためのものだろう。
(ぶっかけるか……)
 腐食性が強く、目にかかれば一瞬で失明するはずだ。だが、もし再生能力が備わっていたら、それも時間稼ぎにしかならない。
「ねえ、コンタミって何?」
「コンタミ?」
 妙な専門用語を知っている。
「うん、ウイルスのコンタミだって」
「ウイルスのコンタミ? どういうことだ?」
「だから……あいつに殺された研究者の霊が、そう言ってるの」
 また、死者の声が聞こえるとか言うのか? こんな時にバカバカしい、と、言いたいところだが……
「コンタミってのは、コンタミネーションの略。汚染、混入という意味だ」
「え? じゃあウイルスのコンタミって……」
「いくつかのウイルスが、混ざったんだ。たぶん、注射器なんかを使い回したんだろう……」
 バカが……いろんな遺伝子を同時に増幅しやがったのか。一体何種類のウイルスを作っていたんだ?
(……何種類も?)
 ふと、頭に閃いた。
 突然、大きな衝撃音が響いた。防火扉の鉄板が大きく突出し、隙間が開いている。
「き、来た! ねえ、どうしよう!」
「み、御耶美、そのコンタミを教えてくれた霊ってのは、今もいるのか?」
「いるけど……ねえ、私の話、信じてるの?」
「他に、他に保管してるウイルスがあるんじゃないのか? どこにある?」
「あ、えっと……え? あるの? いくつかあるって!」
「何処だ? 何処に保管してるんだ?」

 大男が、何度も扉を殴り、とうとう両手でこじ開けだした。
(……御耶美、気を付けろ)
 祈るように、扉の脇で息を潜めた。手には、アルカリ溶液のビンを握っている。
 鈍い金属音が響いたのと同時に、男がゆっくりと部屋に入ってきた。
「ぐふあ……はは……みーつけた……」
「……相変わらず、気持ち悪いわね」
 御耶美は男の真正面にいる。気を引くためだ。
「さあ……あたしをどうしたいの?」
「ひ、ひひひ……」
 涎を垂れ流しながら、男が二歩前へ進んだ。
 ちょうどいい場所だ! 
「おい!」
 男がこっちを向く。と、同時に、水酸化カリウム溶液をぶっかけた。
「ぐがあー!」
 見事に両目にかかった。苦しそうにもがく。
「今のうちだ! 行くぞ、御耶美!」
「ちょっと、待って! ジーパンの仕返しを一発……」
 御耶美が大きく跳躍した。男に蹴りを入れるつもりだ。
「がー!」
 もがいた勢いで、飛んできた御耶美を振り払う。
「きゃ!」
「み、御耶美!」
 凄まじい勢いで鉄の扉へ飛ばされた。
「かはっ」
 鈍い音と共に、彼女が床に落ちた。慌てて駆け寄る。
「お、おい! しっかりしろ」
 ぐったりとしている御耶美を引きずるように部屋を出た。
「……ま、まいっちゃった……へ、ヘマしちゃった……」
 口から血が出てる。内蔵を傷つけたか。
「しゃべるな! すぐ、助けてやる!」
「ヒ、ヒデ……」
「しゃべるな!」
「あ、あたしはいいから、行って……」
「そんなこと、出来るか! とにかくしゃべるな!」
「ヒデ……か、かっこいいじゃない……」
 御耶美の身体を抱きかかえた。思ったより軽い。
「ぐふー、ぐはー」
 男の呼吸が落ち着きだした。回復し始めているようだ。
(急がなければ……)
 霊が教えてくれたウイルスの保管場所へと向かう。動くたびに御耶美の顔が苦痛に歪むのが分かる。
 ふと、小さな扉が見えた。
「あ、あれだ! 御耶美、もうすぐだ!」
 やっとたどり着いた。鍵も開いていた。
 防火扉を閉め、御耶美を部屋の奥に運んだ。静かに寝かす。汗びっしょりだ。
「み、御耶美、待ってろ」
 急いでフリーザーを開けた。
(す、凄い! いろいろあるぞ!)
 すぐ使えるように、注射器ごとガラスビンの中に保存されている。抗凍結剤も加えられているようで、溶液も凍っていない。
「ど、どこだ!」
 あの男を倒すためのウイルスを探しに来たのだが、御耶美の治療が先だ。自己回復力、免疫力を向上させるウイルスを探す。
 突然、凄まじい金属音と共に、身体に大きな物がぶつかった。勢いでフリーザーごと倒される。周囲にウイルスの入ったビンが散乱する。
「痛……」
 右足に激痛が走った。飛んできた防火扉の鉄板が乗っている。
(み、御耶美は……)
 慌てて御耶美を探す。幸い、彼女の所まで破片は飛んでいない。
「お、おまえ……こ、ころす……」
 ぎらついた目で睨む男の頬に、溶けた目玉の一部がぶら下がっている。アルカリ溶液で腐食した顔全体の皮膚は剥がれ、新しい皮膚が見えていた。
(……再生したか)
 凄まじい再生力だ。
「がー!」
 叫びと共に、丸太のような腕が飛んできた。思わず両腕で頭をガードした。
「ぐはあっ!」
 骨の軋む音と共に、身体が吹き飛ばされる。壁に弾かれた後、床にたたきつけられるように落ちた。
 胃の中から生ぬるいものがわき上がった。血だ。
(く、くそ……も、もうダメか)
 そう思った瞬間、目の前に転がっているウイルスビンのラベルが目に入った。
 “Human Complement C3”
(C3……C3か!)
 C3の注射器を握った瞬間、後ろから大きな手で首を捕まれた。
「ぐ、ぐあ!」
 急激に意識が遠のく。
「お、おまえの……目、えぐる……」
 男の声が遠くで聞こえた。目を溶かした俺に復讐しようとしている。
 突然首元が緩くなり、ずり落ちるように床に倒れた。咳き込む。
「ヒ、ヒデ……逃げて……」
「み、御耶美」
 意識がはっきりしない中、御耶美の姿が見えた。彼女のベルトから延びたワイヤーが、男の腕に引っかけられている。
「ぐあー!」
 男がそのワイヤーを勢い良く引っ張った。御耶美の身体が、飛び込むように引き寄せられる。
「や、やめろー!」
 そう叫んだ瞬間、男の丸太の腕が御耶美をうち払った。
「うぐ!」
 声にならない音と共に、御耶美が廊下へと弾き飛ばされた。
「うおー! きさまー!」
 男が振り向いた瞬間、注射器を持つ腕を、奴の胸に打ち付けた。
「がはー!」
 男は、何事もなかったように俺を払い飛ばした。また壁に打ち付けられる。
(た、頼む……効いてくれ……)
 男がゆっくりと迫ってくる。逃げようとしても、身体中に激痛が走り、立ち上がれない。
「おまえ、め、えぐる……」
 男に首を捕まれた。
(くそ……ダメか……)
「ひひ……め、えぐる……」
 男の指が、俺の目へと向けられた。
(み、御耶美、だめだ、ごめん……)
 突然、男がびくんとした。
「ふ、ふぐう……」
 呼吸が苦しそうだ。
(き、効いたのか?)
 注射針を刺した胸の周囲が、腫れ上がっている。
 C3……補体第三成分。免疫機構で重要な働きをする、補体と呼ばれるタンパク質の一つだ。C3は血液中で容易に一部を切断される。切断されたC3は、外敵の微生物やウイルスなどの表面にくっつき、それらの破壊を始める。実は、守るべき自己の細胞にも切断C3はくっつくのだが、自己破壊を阻止する機構があるため通常は問題ない。だが、もしC3が過剰に存在したら……自己保護機構が間に合わなくなるかも知れない。
 どれだけ可能性があるか分からない賭だったが、どうやら当たったようだ。
「が、ががあーあーあー!」
 男が叫びだした。身体中から血が流れている。C3が自分自身の細胞を攻撃している。あの男の再生能力よりも、C3の破壊速度の方が上回ったのだ。
(凄い……)
 血塗れになる男を見つめて、免疫学の教科書に書いてあった移植実験の話を思い出した。ヒヒに移植されたブタの臓器が、数分で血みどろの肉片となったという。ヒヒの補体タンパク質の仕業だった。
 男が、膝をついた。苦しそうだ。息をするたびに血が吹き出ている。
「ふぁー、ああ……い、いた、いたい……くるしい……た、たすけて」
 苦痛の声を漏らし、倒れる。
(……この男に、罪はなかったんだ……)
 もとはと言えば、人体実験を行ったプロテオバイオ社が悪いんだ。
 いや、こんなウイルスを作った俺が悪かったのだろうか。
 痛みを堪えて立ち上がろうとしたとき、手元に当たったビンを見た。
“Enkephalins”
 鎮痛作用を起こすペプチドだ。天然の脳内モルヒネとも呼ばれている。
「……これが、君に対して俺が出来る、せめてもの償いだ」
 うめき声だけを発している男の頸動脈に、ゆっくりと注入した。

(く、くそ! どこにあるんだ!)
 自己回復力を向上させるウイルスが見つからない。御耶美に早く投与しなければ。
「ヒ、ヒデ……」
 御耶美の小さな声が聞こえた。慌てて駆け寄る。
「み、御耶美! しっかりしろ! 今、助けてやる。少し待っててくれ!」
 またウイルスを探しに行こうとしたが、腕を捕まれた。
「……ヒ、ヒデ……あ、あいつは?」
「ああ、終わった。もう大丈夫だ。だからしゃべるな!」
「そう……あ、あたし、あんたを助けるどころか、何にも出来なかったね……」
「いや、君がいなかったら、助からなかった。君のお陰だよ」
「……は、はは……ヒデ、あ、んた……いい……やつだね」
 かぼっ、という音と共に御耶美の口から血が吹き出た。
「み、御耶美!」
 御耶美の身体が震えている。俺の腕を放そうとしない。
「ヒ、ヒデ……あ、あたし、死ぬの?」
「バカ言うな! こんなことで死ぬもんか!」
 体温が低くなっている。御耶美を抱きしめた。
「あ、あたし、死にたくない……」
「死なないよ! 絶対に、死なせない! 女優になるんだろ? こんな所で死ねないだろ?」
「う……うん……」
「お前ならなれるさ! 美人だし、運動神経もいい! 大女優になるぞ! 間違いない」
 血の気の引いた御耶美の顔を撫でた。
「は、はは……ヒ、ヒデ、あ、あたしに、ほ、惚れてるでしょ……」
「ああ、惚れたよ。お前は最高だ!」
 強く抱きしめる。
「ヒ……デ……さむ……い」
 意識がなくなった。だが、まだ息がある。
「だ、ダメだ! 御耶美! 諦めるな! 生きろ! 死んだら、何も出来ないんだぞ!」
 頭の中で何かが弾けた。
(御耶美……ごめん!)
 思いっきり自分の指を噛む。噴き出した血が、鉄の味となって口の中に広がった。

「SAT?」
 病室で、思わず大声を出してしまった。
「ええ、警視庁特殊急襲部隊のことです」
 事情聴取に現れた警視庁の刑事が、周囲を気にして少し小さめの声で答える。
 地下に閉じこめられていた俺達は、武装した男達に助けられた。あの男達が、対テロ部隊と呼ばれるSATだったのか。
「あと数分遅れていたら、危なかったそうです」
 ホッとしたような顔で刑事が言った。プロテオバイオ社は、事件を隠すため、地下室に青酸ガスを流そうとしていたという。恐ろしい会社だ。
 SATのお陰で、命拾いをしたわけだ。
「御耶美が? そのSATの隊員だったのですか?」
「公式には、SATに女性隊員はいないことになっていますがね。彼女は、多様化するテロへの対策ということで極秘に採用されていたようです」
 だが採用されて二年足らずで、突然辞表を出したという。理由は、女優になりたくなったから、だという。
「ああいう世界は、男社会ですから。疲れたのでしょう」
 そうかも知れないが、女優になりたいというのも本当だろう。
 だがこれで、御耶美の訓練された身のこなしも、変わったアイテムも納得できた。
「博士達のお陰で、プロテオバイオ社のテロ組織への関与を明らかにすることが出来ました。また後日、お話を伺いに参りますので、今日はゆっくりとお休みください」
「あ、はい。ご苦労様でした」
 軽く会釈をして、刑事は病室を出ていった。
(しかし、君には驚かされることばかりだ)
 目の前で眠る御耶美を見つめた。
 本当はSATが研究所を襲撃し、証拠等をすべて押収する予定だったらしい。強化人間の情報は以前から掴んでいたが、確固たる証拠がなかったため強制捜査に踏み切れなかったのだそうだ。
 そんな最中、俺の拉致事件の情報がSATに伝わった。情報提供者は、御耶美だ。SATからは、俺を保護するように命令されていたらしいが、彼女は、実験の証拠も手に入れて、SATに売りつけようとしていたようだ。
(なんて娘だ……相当、金に困ってたんだな)
 夢のために、必死なのだ。そんな彼女が眩しく見えた。
「う、うーん……」
 ケガ人とは思えない寝返りを打った。思わず笑って声を出してしまう。御耶美が目を開けた。
「ん……ん? あ、あれ?」
「ごめん……起こしちゃったな」
「ヒ、ヒデ……あれ? あたし……た、助かったの?」
 目を丸くした。
「ああ……生きてるよ」
 どこか実感がないようだ。まあ、俺自身も実感がない。いや、全てが夢だったような気もする。
「夢……じゃあ、なさそうね……」
「たぶんな……」
「夢じゃないよ、彼がいるもん」
「彼?」
 また死んだ人が見えるのか?
「うん……あの、大男」
「な、何?」
 思わず立ち上がり、周囲を見渡す。
「恐くないよ、もう亡くなってるんだから」
「あ、ああ……」
 御耶美は恐くないのか? 俺は信じてないが。
「ヒデに、お礼を言いたいって」
「え?」
「ありがとう……だってさ」
「……ほ、本当かよ」
 御耶美が俺を見つめ、優しく微笑んだ。
「……本当よ」
 妙に納得させられる。
「でも、あたし、よく助かったよね。運が良かったんだ」
「そ、それなんだがな、御耶美……」
「あ! そうだ! 思い出した!」
「……え? な、何を?」
「ヒデ! あたしに、キスしたでしょ! あたしが気を失ったと思って!」
 にやけた上目遣いで、俺を見る。
「あ、い、いや、その……」
 あの時、意識はないと思っていた。
「ちょっと、あたしは、未来の大女優よ! 勝手に唇を奪わないでよ」
「ご、ごめん」
 違う。謝ってる場合じゃない。
「ま、いいわ。科学者の彼ってのも、悪くないかも」
「いや、その……御耶美、あのさ」
 ちょっと待てよ。
「あ! そうだ!」
「な、なんだよ!」
 少しは人の話を聞けよ!
「ねえ! 結局さ、オリジナルのウイルスってどこに隠してるの? 研究所? 自宅? 気になるー!」
 言葉に詰まる。
 今度は俺の返事を、目を丸くして待っている。もしかして、その情報も金にするつもりだろうか? だが、そんなことを考えてる場合じゃなくなるだろう。今の彼女には知る権利、いや義務がある。
「……最初は、一カ所だったんだ。今は二カ所に保管している」
 そう。つい最近、二カ所になった。
「二カ所? へー、で、どこ?」
「……ここ」
 少し声が小さくなる。
「え? 何? どこって?」
「だから……ここ」
 と、俺自身を指差した。
「……え? それって……ヒデの中ってこと?」
 静かに頷く。
「あ……ああー! そっか! オリジナルウイルスを、自分に感染させてたんだ! あんた、凄いよ! 身体張ってるねー! でも、危険じゃないの?」
 まだ気付いてないようだ。
「あれ? もう一カ所あるんだよね? どこ?」
 身体が固まる。だが、伝えなければいけない。
「もう一カ所も……ここ」
「え?……ここって、どこ?」
 ゆっくりと、御耶美を指差した。
 少し間がある。
「……え? どういうこと?」
「……そういうこと」
「え?……マジ?」
「……マジ」
 急に静かになった。御耶美の表情が、全く失われている。頭を整理しているのか、思考が止まっているかのようだ。
「あ、あのさ……あの時……」
「どういうことよ!」
「だ、だからさ、あの時、君を助けようと思って……」
「あたしまで、実験体にしたわけ? ちょっと! どうしてくれるのよ! オリジナルウイルスは、勝手に消えないんでしょ? なんてことしてくれたのよ! 突然、筋肉怪物に変身したらどうするのよ!」
 今にも、飛びかかられそうだ。
「ちょっ、ちょっと俺の話も聞いてくれ。こ、このウイルスは、自己回復能力、免疫力を上げるように作ったものなんだ。だから、日常生活に害はない。今のところは……」
「い、今のところ?」
「あ、ああ。ケガはすぐに治るし、今のところ良いことばかりだ。だから、御耶美も助けられた。お前、内蔵破裂で危険な状態だったんだぞ」
 御耶美がおとなしくなった。
「……そっか……あたしにキスしたのって、ウイルスを感染させるためだったのか」
 睨まれている。
「……た、ただ、キスすれば感染するものでもない……」
「……どういうこと?」
「真崎ウイルスの、感染力は、エイズウイルスと同程度なんだ……」
「……エイズ?……エイズって、確かエッチで感染するって……あ! あー! あ、あんた、あたしが気を失ってる間に犯したの? き、気づかなかった……レ、レイプしたんだ! あたしをレイプしたんだ! そんな奴だと思わなかった! 信じられない! このー!」
 胸ぐらを捕まれた。こ、殺される!
「ち、違う! 血、血だ! 血を飲ましたんだよ!」
 一瞬、御耶美の動きが止まる。え? と拍子抜けした顔に一瞬なる。
「……血? ちー? 気持ち悪い! バカ!」
 殴られた。なんだよ、どっちでも殴られるんじゃないか。
「バカバカ!」
 連発で殴られる。鼻血が流れた。
「も、もう、勘弁してくれ……せっかく助かったのに、し、死んじゃうよ。だ、だいたい、俺を保護してSATを待っていれば、こんな事にはならなかったんじゃないか!」
 御耶美が手を止めた。彼女の金への執着が招いた事態と言ってもいいはずだ。
 しばらく静かになる。
「……あたし、どうなるの?」
 もう少しで泣きそうな言い方でうつむいた。とても今まで男を殴っていたとは思えない。
「……俺は二年、何事もなく過ごしている。だから、君も二年は何ともないはずだ。たぶん、その後も問題ないと思う」
 もともと医療用に開発したのだ。いつかは臨床実験が必要なんだ……とは言えなかった。
「いつか、ウイルスを消し去る薬を開発する……必ず。だから、しばらく我慢してくれ」
 御耶美はうつむいたままだ。
「……み、御耶美? 大丈夫か?」
 顔をのぞき込む。
「……あのさ」
「ん?」
「こういう場合、他の人に、ウイルスを感染させないようにしなきゃいけないんでしょ?」
「……ああ、安全かどうかはまだ分からないからな。でも、セックスでもしない限り、感染しないはずだから……」
「……じゃあ何? あたしは、あんたとしかエッチできないわけ?」
「え? あ、いや、その……」
 そう……なるのか?
「もうー! アッタマきた!」
 また胸ぐらを捕まれた。
「ちょっと! 責任取りなさいよね!」
 そう言うと、御耶美は俺の唇を思いっきり吸った。
(完)














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