その昔、雪村麻衣には、他愛のない夢があった。
ティールーム『ロビー2』に恋人と行って、ピンクソーダを注文するという夢だ。
いつしか『ロビー2』は取り壊され、その跡地はドラッグストアになってしまった。
麻衣は恋人の笠原聖一と、そのドラッグストアのすぐ脇を通り過ぎようとしていた。
麻衣は、思わず口にする。
「懐かしいね! 覚えてる? ここ」
「当たり前じゃないか。デートの時、待ち合わせによく使ったね」聖一は言う。
「あそこ、『ロビー2』って名前だったけど、『ロビー1』は今もどこかにあるのかな?
なんで『ロビー2』なんて名前だったんだろ」
「さあ……。以前にも、そんなこと言ってたね」と聖一。麻衣は聖一の前に立ち、こう言った。
「ところで、この喫茶店に最初に来た日のこと、覚えてる?」
「うん?」
「何頼んだか、覚えてる?」
聖一は、首をかしげた。
「さあ……。何を頼んだかなんて、覚えてないなぁ……」
麻衣は言った。
「私ははっきり覚えてるよ。もう随分昔のことだよね。あれから何年たったかな」
「7年だよ」
「私たち、随分長く付き合ってるよね」
聖一は、笑う。
「長いよね。7年だもんね」
そう、あれから7年が経ったのだ。そして今も、2人は付き合い続けている。
今でも2人は、恋人同士だ。
7年前。
麻衣は友達の田村多香江と映画に行く約束をしていた。前日多香江から電話がかかってきて、こう告げられた。
「待ち合わせは、駅前の『ロビー2』にしよう」
待ち合わせ当日。麻衣が『ロビー2』の店内に入ると、中はそこそこ混み合っていた。 入り口にはガラスケースがあり、ケースの中にチョコレートシフォンケーキやら、モンブランやら、いちごショートケーキやら……ケーキの定番メニューがきれいに並んでいた。 麻衣は、窓際のテーブルに座った。
コーヒーを注文し、読みかけの文庫本を取り出した麻衣は、ふと店内を見回し、とあるカップルを目にした。
女の子の年齢は、たいして麻衣と変わらない。高校生ぐらい。男性は……大学生だろうか? 2人は、楽しそうに話をしている。
しかし、麻衣が気になったのは、2人が注文した飲み物の方だった。
男性は、コーヒー。
女の子は……シャンパングラスのようなガラスの容器に入った、ピンクの飲み物を飲んでいる。
あれは、何だろう?
そう思った麻衣は、ピンクの飲み物を注意深く眺めた。
女の子は、ちょっとグラスを傾けながら、ストローでピンクの液体を飲んだ。指のしぐさが可愛くて、女の子らしい、可愛い恋人という感じ。麻衣は、それがとてもうらやましくなった。
麻衣は、メニューを見た。
該当する飲み物を探して目を走らせる。
麻衣の目に、『ピンクソーダ』の文字が入ってくる。
麻衣は思った。
私も彼を連れて、あんな風にピンクソーダを飲んでみたい。
そこに、友達の多香江がやって来た。
「ごめんごめん、遅れちゃって。映画、間に合わなくなっちゃうよ。今すぐ出よう」
麻衣はすぐに立ち上がり、荷物を持ち、会計に向かった。
2人はティールーム『ロビー2』を後にした。
17才の麻衣と、20才の聖一は、同じバイト先……とある家電量販店で、ともにバイトをしていた。高校はバイト禁止だったが、こっそりバイトをしていた麻衣は、前々から聖一のことが気になっていた。
その頃麻衣は、聖一を、大学生で大人だと思っていた。同じ年の男の子たちと比べて、どこか違う世界の人のように感じていた。
だが、バイト中は、それほど話す機会もなく、2人は一見出会いがないように見えた。
そんな2人がつきあい始めたのは、とある日曜日、映画館でばったり会ったことがきっかけだった。
「奇遇だね」
聖一の第一声は、それだった。
「1人で、映画に来るの?」
「うん、いつも映画は1人で見るんだ」
「へえー。実は、私もなの」
すると、聖一は言った。
「じゃあ、……今日は2人で見ない?」
いきなりそんなことを言われ、どうしたものかと迷った麻衣だったが、ここで答えないのもヘンだ。麻衣は、答えた。
「いいですね。じゃあ、今日は2人で」
本当は、ドキドキしていた。映画はまともに見ていられず、後で思い返しても、内容なんて全然覚えてもいない。
だが、その日は映画を見ただけで終わり、2人は別れた。
そして次にバイトで会った時、聖一はまた麻衣を誘ってきた。
「ただ券があるんだ。また映画に行かない?」
2度目の映画の後、聖一はちょっと奮発して、麻衣をイタリアンのディナーに誘った。
麻衣は以前、しゃれたイタリアンレストランの前を通り、2人用のディナーがあるのを見て、ちょっと憧れを抱いていた。イタリアンレストランで、2人用のディナー。そういうのって、なんか恋人同士って感じだ……。 そして聖一とのディナーで、麻衣の夢は、一つ叶った。麻衣の心は、浮かれていた。
こうして3回目のデートの時、麻衣は聖一を、あの『ロビー2』に誘ってみることにした。
「今日は、映画の後、ちょっとだけ付き合ってもらえますか?」
そんなことを言って、聖一をティールーム『ロビー2』へ連れていったのだ。
麻衣は、嬉しくてしかたなかった。
あこがれの大学生の聖一と、恋人同士っぽく喫茶店に行き、そして私はかわいい高校生の恋人という感じで、ピンクソーダを飲むんだ。
そんな妄想を抱きながら、麻衣は席についた。何も知らない聖一も、麻衣の前に座った。 そしてメニューを見て、麻衣はさりげなさを気取りながら、こう言った。
「私、ピンクソーダを頼んでみる」
すると聖一は、
「え? なに? ピンクソーダって」
麻衣からメニューを受け取ると、聖一もメニューを見て言った。
「うん、ああ、これ? おもしろそうだね。じゃあ、僕もそれを頼んでみようかな」
麻衣は、驚いた。
まさか、聖一がピンクソーダを飲むとは、思っていなかったのだ。
オーダーを取りに、ウエイターがやって来た。
そしてほどなくしてピンクソーダが2つ、運ばれてきた。
麻衣の前に、1つ。
聖一の前に、1つ。
2人は揃って、ピンクソーダを飲み始めた。
だが、男の聖一がピンクソーダを飲むのは、あまりサマになっていなかった。シャンパングラスのような容器に注がれたピンクの液体と聖一。
麻衣は、いっきに夢から覚めてしまった。
聖一はというと、ティールーム『ロビー2』がとても気に入ったようだった。
「いいね。この喫茶店。そうだ、今度からここを待ち合わせに使おうよ」
それ以来、このティールームは麻衣と聖一の、待ち合わせの喫茶店になった。
映画の時はもちろん。ここで待ち合わせて、遊園地にも行った。水族館にも行った。動物園にも行った。美術館にも行った。
だが、麻衣はあれ以来、ピンクソーダを頼むのはやめてしまった。
次からは、いつも通り『コーヒー』を注文するようになってしまった。
その話を聞いて、聖一は笑い出した。
「なんだ、そうだったのか」
「もう時効だと思って話したのに、笑うなんてヒドイ」
麻衣は、そして言葉を足した。
でも、あれ以来、思ったんだ。
やってみたら、たいしたことなかったよ。
恋は形じゃない。本当の恋の方が素敵だと。
「聖一がピンクソーダを頼んだのは、今考えると、聖一らしくていいと思う」
すると聖一は言った。
「また、これからもよろしく。もっとずっと一緒にいられるといいね」
聖一は、ちょっと照れたように笑う。
「……さあ、今日はどこに行こうか? 今日は特別な日だからね」
「えっ? 何? なんで特別なの? 何かあったっけ?」
麻衣が聞いても、聖一はコートのポケットの中に手を突っ込んだまま、にこにこ笑っているだけだった。
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