たどり着けるところまで
阿笠博士は、いつものように書斎の机に向かって論文を書いていた。
電話が鳴る。
「はい、阿笠ですが」
『ハロウ、ミスターアガサ。コジマです』
「ああ、どうも。で、いかがでしたかな、元太くんは」
『ワンダフォー! 素晴らしい。貴方の言ったとおりです』
「で、彼の様子は?」
『大丈夫。非常に非常に興味を持ったです』
「おお、それはよかった」
『ゲンタはダイヤモンドの原石です。十年ノー二十年に一人です』
「ほう…では…」
『そうです。今です。今から磨かなくてはいけないのです』
「ご両親のほうは何と?」
『大丈夫。この私がいます。安心してください』
「わかりました。では財団のほうには私が推薦状を書きましょう」
『お願いしますよ』
「実は相撲部屋からも誘いがあったのですが、私も貴方にお任せするほうが良いと考えました」
『オー、スモウ、素晴らしい。でも、あれは神道の儀式です。スポーツでない』
「ええ、私も彼のキャラクターには合わないと思いました」
『貴方の判断は間違ってない。ゲンタはイチローの次に有名になる。絶対に。私は保証する』
「では、帰国の前にもう一度お電話いただけますか」
『もちろん。では、失礼します』
電話は豪快に切れた。
博士はふむと息を一つ。それから置き時計の時刻を見た。
受話器を持ったまま、短縮ボタンを押す。
「あ、もしもし、阿笠と申しますが、内線の一〇二一番をお願いします」
森田邸の仏間、コナンと哀は仏壇を前に向き合って座っていた。
高光は二階に母親の遺品を取りに行っている。夫人は高光の代わりに農作業に出ていた。
掛け時計の、時を刻む音が聞こえてくるほどの静寂。
欄間を見上げるコナン。
「あの宗太郎さんの写真、どう思う?」
「あなたと同じ意見よ」間髪入れぬ即答。
「だろうな。こうなると、春江さんが言っていた『彼』の正体が気になる」
「そうね。でも…」
「これを」哀に向かってハンカチを差し出す。
「何?」
「高光さんの髪だ。遺伝子を調べて欲しい」
「いつの間に?」
「さっき、高光さんの後ろを通り過ぎたときに」
コナンはステンレス製の小さな糸切りハサミを見せた。
哀は真面目に感心してみせた。
「あなたって、ほんと、手先が器用なのね」
トイレに行くというコナンが高光の脇を通り過ぎるとき、不自然によろめいたのだった。
「でも、比較する遺伝子がないわよ」
「遺髪でもあればいいんだが…『彼』のほうは警察が保管してるはずだ」
「凶器についた血液? 仮にあったとしても、どうやって手に入れるつもり?」
哀は小さく両手を広げた。
階段を降りてくる足音。姿勢を正す二人。
「お待たせ」
高光は大きな葛籠をよいしょと畳に下ろした。
「ここに、母が満洲から持ち帰った物と父の遺品が入っている」
開けると、古いアルバムやネガ、農業団体からもらった表彰状が十数枚、古い懐中時計、万年筆、和紙にくるまれた奉書、そして最近春江に処方された内服薬の袋…しかし、かすかに期待していた薬品の瓶らしきものは、やはり入っていなかった。
「これは?」奉書を指さすコナン。
「ああ、父の遺髪だよ」
コナンと哀はちらっと見合った。
「見せて」
「ん? ああ」
高光が奉書を開くと、中に銀髪が入っていた。
コナンは素早く立ち上がって、欄間の写真を大げさに指さした。
「でも、あの写真と色が違うよ」
高光も立ち上がって父親の写真を見上げた。
「ああ、これはまだ父の髪が黒かった頃撮ったものだからね」
二人が葛籠に背を向けている隙に、哀は手早く銀髪を数本抜き取った。
「でも、何だか高光さんと似てないね」
「僕も千里も母親似なんだよ。何しろ母の顔、個性が強烈だろ?」
高光はかすかに笑っていた。多くの人に同じことを言われるのだろう。確かに春江と高光、そして高光の妹千里の顔は一見して似ている部分があった。目の周囲、あごの形などそっくりである。三人の親子関係はまず疑う余地がないだろう。
高光は腰を下ろして、遺髪を丁寧に元に戻した。髪が抜き取られたとは夢にも思っていないだろう。
哀は、目をつけていた古く黄ばんだ戸籍謄本を取り上げた。
「これ戸籍謄本でしょ?」
「ああ、そうだよ。でも、よく知ってるね、そんな難しい言葉」
哀の知識に感心するということは、別段他人に隠したいような内容は載っていないのだろう。見ると、内容はこうであった。東京府東京市淀橋区、現在の新宿区の兄の家から昭和一六年に分家した宗太郎の戸籍に、春江が昭和一八年婚姻して入籍、その二人の間に長男高光、長女千里が生まれた…単純明快でどこにも疑問の余地はないように思える。宗太郎が単身で分家したのは満洲へ渡るためだったのだろう。
「そうだ。満洲で撮った写真があったんだ」
高光は立ち上がって部屋を出た。階段を上る足音。
コナンがメモを取ろうとすると、哀はショルダーバッグから箸箱を取り出した。
「箸なんかどうするんだ?」
「これ、箸箱じゃないわよ。博士特製、超小型スキャナー。後でその性能に驚くことになるわよ」
哀は手早く紙の上をなぞって、全ページをスキャンした。
コナンは、森田春江と書かれた内服薬の袋を手に取った。中に入っていた錠剤シートを取り出す。
「それ、ちょっと見せて」スキャンを終えた哀が手を差し出した。
「ああ」袋ごと手渡すコナン。
錠剤シートをじっと見つめる哀。
「…そう」ぽつりと漏らす。
「何かわかるのか?」
「これ、モルヒネ錠よ。しかも、ターミナルステージで使われるもの」
ターミナルステージ、すなわち、春江は最末期だったということだ。もはや立って歩けるのも後何日、というような状態だったのだろう。
高光が戻ってきた。
一枚のセピア色の写真、そこには椅子に座って赤ん坊を抱く若き日の春江、そして直立不動の幼き日の高光。春江も高光も、本人に間違いないだろう。
コナンは写真を丁寧に手に取った。
「宗太郎さんは写ってないね」
「ああ、何でも、この頃父は関東軍に徴用されていたんだそうだ」
「宗太郎さんのお仕事は?」
「病院に出入りしていた薬問屋の営業マンだよ。それで母と知り合ったんだそうだ」
「宗太郎さんの、満洲時代の写真はないの?」
「着の身着のままで逃げたから、家財道具も何も、ほとんど持ち出せなかったらしい。満洲時代の写真はこれだけなんだ」
「ふうん…これは?」
コナンが高光の注意を引きつけている間に、哀は写真を見るふりをしてすばやくその上を手でなぞった。
コナンが取り出したのは、新京東病院開院十周年記念と書かれた冊子だった。もちろん写真は全て白黒である。
「ああ、これは母が勤めていた病院の記念パンフレットだよ」
めくると、病院の全景や庭の写真、病院の沿革、院長以下医師の写真…そして薬剤部のスタッフの写真。昭和一八年のものにしては紙質も印刷も非常に良い。本土よりは物資に余裕があったのだろう。
「ほら、これが母だよ」
たしかにスタッフ十数人の一番端に春江が写っている。
しかし、コナンの目は同じ写真に写っていた別の若い男に注がれた。
(似てる! 高光さんに!)
そう、顔の輪郭、雰囲気が似ている人物が写っているのだ。もちろん宗太郎とは似ても似つかない。
コナンが口を開こうとするのを哀が手で制した。
「高光さんはここに写っている人達に会ったことありますか?」
哀はそう質問した。
「会ったことはあるはずだけど、私はまだ一歳か二歳、憶えてないよ」
「戦後に会ったことはないんですか?」
高光の表情が曇った。
「いや…そう…確かここに写っている人は母以外全員死んだって聞いたことがある」
「全員死んだ? 満洲で?」絶句するコナン。
「ああ…ひどいものだったらしい…戦闘で死に、病気で死に、飢えて死に…シベリア抑留でも大勢の人が死んだ。そしてほら、残留孤児って知ってるだろう。私や千里だって一歩間違えば残留孤児になっていたかもしれないんだ…一家全員無事に帰ってこれたのは、本当に奇跡だよ」
そう言う高光の視線は宙をさまよっていた。
「…日本に帰ってきてみれば、父の家族は全員、空襲で死んでしまっていた。それで新宿にあった実家の土地を売って、ここの土地を買ったんだそうだ」
戦後まもなく撮ったものであろう、高光の小学校入学記念の写真があった。家をバックに宗太郎と春江、高光と千里が晴れやかな顔をして写っている。
コナンはじっとその写真を見つめた。そう、この場所に、戦中戦後の苦労を経てようやく平和な生活を得た一つの家族が確かに存在した。しかしその裏には、隠された暗くて重い秘密があったのだ。宗太郎と春江はそれを心の中にしまい込んだままこの世を去っていった。そして『彼』も。
コナンは改めて高光を見た。彼は、父と母が生涯隠し通した秘密のことなど何も知らないのだ。妹の千里もそうなのだろう。
日の暮れかかる頃、コナンと哀は高光の車で駅に戻った。
「しかしコナンくんも哀ちゃんもすごいなあ…昔のことをよく知ってるみたいだし…ほんとに小学一年生かい?」
「僕、将来歴史の研究家になりたいから、一所懸命勉強してるだけだよ」
「そう。本当に偉いなあ…うちの孫たちにもコナンくんの爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだよ」
そう言うと高光は、窓越しに片手を上げ、暗くない表情で去っていった。
コナンも哀も、洒落た喫茶店に寄る気分ではなかった。改札口に直行して週末フリーきっぷを見せ、そのままホームに出た。
夕方の上り電車、帰りの行楽客で座席はほぼ埋まっている。ロングシートの真ん中あたりだったが、並んで座れたのは幸運だった。向かい側の窓から差してくる、今まさに沈もうとしている太陽の光に、二人はオレンジ色に染まった。
コナンは夕日を正面に見つめたまま、口を開いた。
「あの時、止めてくれてありがとう」
「え?」
「薬剤部の写真を見たときだよ。俺、これは誰って質問するところだった」
哀は口元に笑みを浮かべた。
「そうだろうと思ったわ」
「…高光さんも千里さんも、何も知らないんだろうな」
「…そうでしょうね」
あの十周年記念誌には、あるはずのものがなかった。目次にも載っている職員の名簿は、元からなかったのではない。カッターか何かで丁寧に切り取られていたのだ。
「これからどうするつもり? 満洲については手がかりが乏しすぎるわよ」
「新京東病院は結構大きな病院のようだから、あの記念誌だってどこかの図書館に所蔵されているかもしれない。他にも何かしら記録は残ってるだろう…もちろん『彼』のことも」
「あの写真の人ね」
「たぶん」
「新京東病院の記録と『彼』について調べるのはいいとして、その先は考えているの?」
コナンは腕を組んだ。
「妃先生は、宗太郎さんから全てを聞かされているはずだ」
質問には答えていないが、哀はコナンの意図をおおよそ理解した。
「とりあえず、俺たちがたどり着けるところまでは行ってみるさ」
コナンは、沈みゆく太陽をずっと見つめていた。
同人誌(上巻)ここまで。
これ以降(下巻予定)は推敲中のため、(上巻)部分と矛盾をきたしている可能性もありますが、ご了承ください。
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