聞いてもらえる人
事件から二日目の朝も、小五郎は事務所にいなかった。
蘭とコナン、二人だけの朝食。
「おじさん、いつ帰ってくるの?」
「さあ…お母さん、逮捕こそされてないけど、重要参考人として警察の監視下にあるし…」
「大丈夫だよ。おばさんが人を殺すわけないじゃない」
「それはそうだけど…お茶に毒を入れられたのは、お母さんしかいないんだから…」
つけっぱなしのテレビでは朝のニュースをやっているが、妃法律事務所の事件はまったく触れられない。テーブルの上の新聞。朝起きた蘭がまっさきにめくったのであろう。
(テレビも新聞も報じていない、か)
疑問に感じながらも、コナンは自覚していた。その疑問に深入りするよりも、今は自分にできることをするべきだ、ということを。
コナンがいつものように学校へ向かう道を歩いていると、交差点角の、まだ開店していない商店のシャッター前に哀が立っていた。
コナンは駆け足で横断歩道を渡った。
「おはよう」
哀のほうが先に挨拶した。
「ああ、おはよう。わざわざ待っててくれたのか?」
「大した時間じゃないわ。気にしないで。分析、できたわよ」
「さすがは灰原。仕事が早い」
学校に向けて歩き出す二人。
「結論から言うと、炭酸カリウムがある程度の量検出されたわよ。混入された青酸カリ由来のものと考えて間違いない」
「ってことは…」
「そう、使われた青酸カリは新鮮なものじゃなかった。そして、可能性のある不純物は、与えられた試料の量という制約はあるけど、何も検出できなかった。元々相当純度が高いものだったんでしょうね。つまり、犯罪でよく使われる工業用ではないということ」
黙ってうなずくコナン。
「もちろん、五十年前のものだと断定できる材料は何も出なかったということよ。残念ながら」
「ま、そうだろうな。しかし、俺の推理を否定する材料も出なかったってことだ」
「そこまではいいとして、この後どうするつもりなの?」
「動機のほうを固めようと思う。土曜日に森田さんの家に行って、事情を聞いてくるつもりだ」
「小学生が家に押しかけたって、門前払いされるだけでしょ?」露骨にあきれ顔の哀。
「大丈夫。昨日、毛利小五郎が電話したんだ。コナンが行くのでよろしくってな」
くすっと哀は笑った。
「そんな簡単な話で納得するかしら?」
「『コナンが家内の潔白を証明するんだと言って聞かないんですよ』とか何とか言ったら、快く引き受けてくれたよ。森田さんは、そのへん柔軟というか、懐の深い人だから。事件当日も俺の質問に、こっちが恐縮するくらい真摯に答えてくれたからな」
「大人を騙す巧みな話術。さすがね」
「人聞きの悪いこと言うなよ。せめて、大人をその気にさせる、と言ってくれ」
「言葉を変えたところで実態は一緒でしょ? 事実騙してるんだし」
「身も蓋もないこと言うなよ」げんなりするコナン。
「ところで、毛利探偵のほうはいいの? 勝手に声使って」
「おっちゃんは全て知ってるよ。俺が何してるかなんて」
やれやれと肩をすくめて見せる哀。
「いずれにせよ、小学生のやることじゃないわね。もう警察も動いているんだし、警察に任せておけばいいじゃない…って気もするけど?」
「妃先生が殺したっていう明確な証拠なんて出るはずもないし、動機もまったくない。起訴までは行かないにしても状況が状況だ。在宅のまま送検はされるだろう」
「そうなると不起訴処分。最悪の場合は起訴猶予処分ね」
「ああ…どちらにしたって、弁護士としてはダメージがでかい。だから、自殺ってことを何としても立証したいんだよ、俺は」
「その心意気は理解するけどね…そうそう、例の写真は?」
「ああ…」
歩きながら話していた二人は、もう学校の正門まで来てしまっていた。
「おっと、続きは昼休みってことで」
「そうね」
歩美が、そして光彦が、すぐ後ろまで近づいていたことに、二人は気がつかなかった。
一時間目と二時間目の間。歩美と光彦は廊下の隅のほうで小声で話していた。
「光彦くん、コナンくんと灰原さん、何かあったのかな?」
「うーん…何だか急に親しくなった、って感じですねえ」
「親しく?」
「ええ。元々、あの二人の話のレベルは合っているって感じでしたけど…」
「話のレベル?」
「そう。今朝の二人の話、良くは聞き取れなかったんですが…小学一年生の会話じゃないですよ、あれは」
「うん。難しそうな話だった」
「いずれにせよ、何か事件に関係あることは間違いありません」
「少年探偵団の出番だよね」
光彦は小さくうなずいた。
「そうです。少年探偵団としては、二人の抜け駆けは認められません」
二時間目のチャイムが鳴った。
昼休み、さっさと給食を食べ終わったコナンと哀は、屋上に上がった。
封筒から写真のコピーを取り出すコナン。小五郎が机の上に放り出したままだったから、コピーするのは簡単だったのだ。
「これだ。でも、どうして被害者の写真を?」
目をかっと見開いて苦悶の表情のまま止まった被害者の顔。普通、小学生が見るようなものではない。
哀の目が細く険しくなった。
「ひょっとして、と思ってたけど、やっぱり」
「何かわかるのか? 写真見ただけで」
「ええ。この人、ガンだったのよ。それも末期の」
「何でそんなことがわかるんだ?」軽く驚くコナン。
「わかるのよ。ガン患者の顔、特に末期の患者には、ある種独特の雰囲気があるから。口では説明しにくいんだけどね」
「…まるで、ガン患者を見慣れてるって感じだな」
「ええ、見慣れてるわよ。ざっと百人以上見てきたから」
「何でまた?」
哀はフェンスに手をかけ、遠くを見やった。
「実験体としてね…」
コナンは少し考え、恐るべき想像が頭をよぎった。
「じ、実験体って、おい、まさかお前がいた研究所って…」
「心配しないで。皆、自ら志願してきた人達だから。実験体になるかわりに、遺族にそれなりの報酬を支払うという約束でね。三十代四十代の男性が多かったわ」
「そんな…」
「人道に反する行為だってのはわかってた。でも、彼らの存在が医学、特に薬の分野において…わかるでしょ」
「ナチスの強制収容所や、七三一部隊のようなことが、今も堂々と行われているってことか!」
「ええそうよ。マスコミが報道しないだけで、こんなこと、秘密でも何でもないわ」
コナンは哀を睨みつけた。がすぐに視線を落とした。
「…いや、まあ、お前が悪いわけじゃねえよな…」
コナンは顔を上げて哀を見た。その背中姿は、紛れもない小学一年生の女の子だった。だからこそ余計に、背負うものの恐ろしさがひしひしと伝わってくる。
コナンは少し無理に笑顔を作った。
「あ、あのさ…」
「心配しないで」
振り返った哀は、意外にも明るい顔だった。
「こんなこと、聞いてもらえる人がいるだけでも、私は助かっているんだから…ありがとう、工藤くん」
それはあまりにも予想外の言葉だった。とっさに返す言葉が出てこなかった。
「さ、教室に戻りましょ。私たちの行動が気になってしかたない人たちがいるみたいだし」
屋上へのドアは半分開いていた。
放課後、別に示し合わせたわけでもないが、コナンと哀が同時に立ち上がった。すかさず少年探偵団の三人がさっと二人を取り囲んだ。
「ど、どうしたんだ?」驚くコナン。
哀は平然としたまま、対応をコナンに押しつけている。
「聞かせてもらいますよ」コナンに迫る光彦。
「な、何を?」
「コナンくんと灰原さんが調べてる事件のことですよ」
「事件って?」
「とぼけないでください。コナンくんは灰原さんに話してたじゃないですか。弁護士としてはダメージがでかい、とか、自殺を立証したい、とか」
「ああ、いや、あれはだな…」
「とにかく、聞かせてもらいます」
「…わかったよ。それじゃ、ここだと何だから、ショッピングセンターにでも…」
元太が残念そうな顔をした。
「ちぇえ、俺、つきあえねえや」
「どうかしたんですか?」
そもそも言い出したのは元太じゃないか、と言いたげな光彦。
「家におじさんが来てるんだよ。アメリカから」
歩美がうんと大きくうなずいた。
「知ってる。アメリカの…何とかボールのコーチやってるおじさんでしょ」
「アメリカンフットボール、かしら?」意外だ、という顔の哀。
「おう、それだ。だから俺、家に早く帰らねえと…」
コナンもまったく初めて聞く話だった。
元太を除く四人でショッピングセンターへ向かい、昨日コナンと哀が話していたベンチに腰を下ろす。
「で、殺されたのはどんな人なんです?」
光彦は神妙な顔を作ってはいたが、内心わくわくしているのは見え見えだ。
「殺されたんじゃない。自殺したんだ」
「自殺?」
「そう。青酸カリでな。しかも、とある弁護士の目の前で」
「その弁護士に恨みでもあるんですね」
「まだ、そうとわかったわけじゃない」
「じゃあ、さっそくその弁護士に話を聞きに行きましょう」
光彦が意気揚々と言う。コナンも哀も、ため息が出るのはしかたない。
「無理だよ。今のところ二十四時間警察の監視下にあるから」
「どうしてですか?」
「一応疑われているからな」
「どういうことです? 自殺なんでしょ」
「現場はその弁護士の事務所。自殺した人は法律相談に来ていたんだ。で、弁護士本人が入れたお茶を飲んで苦しみだした」
「それじゃあ、その弁護士がお茶に毒を入れて殺したという殺人事件じゃないですか」
「弁護士には動機がまったくない。警察に通報したのも弁護士本人だ。だいたい、犯罪に詳しい弁護士が、最初から自分に疑いがかかるような殺人を犯すと思うか?」
光彦は大げさににやりと笑った。
「この事件、謎は解けました」
コナンも哀も、ハズレだ、という露骨な顔。
「これはですね、警察の心理的盲点をついた大胆不敵な犯行なんです。自分から警察に通報するなんて、普通の犯人なら絶対にしないことですからね。そういう自分に有利な状況を警察に証明させたうえに、決定的な証拠さえ残さなければ、ほら、疑わしきは罰せずってやつですよ。刑事裁判の基本中の基本。まさに、弁護士しか思いつかない犯罪ですよ」
「あのな、弁護士ってのは信用が全てなんだ。殺人の疑いをかけられるような弁護士に、誰が仕事を頼むって言うんだ?」
はたっと勢いの止まる光彦。
「…それもそうですね」
歩美が体を乗り出した。
「ねえ、その弁護士って、もしかして蘭お姉さんのお母さん?」
「ん? まあ、そうだけど」
「じゃあ、家族の友人が急なお仕事頼みたいって言えば」
「小学生が、弁護士に何の仕事を頼むって言うんだ?」
「わかった!」
光彦が素っ頓狂な声を上げた。
「今度はなんだよ?」
コナンも哀も、やれやれ、という表情。
「その自殺した人は、弁護士に深い恨みがあって、信用を失墜させて仕事ができなくなるように、弁護士にわざと疑いがかかるようにして自殺したんです」
ああ、やっぱり、のコナンと哀。
「しっついって何?」またまた歩美の素朴な質問。
「徹底的に貶める、って意味です」
「おとしめる?」
「ああ、つまりですね、信用をなくしてしまって、ということですよ」
コナンはテーブルに手をついて立ち上がった。
「警察もとっくに気が付いてて、その線で捜査してる。ようするに、この事件に関しちゃ少年探偵団の出る幕はもうないってことさ」
土曜日、コナンと哀は米花駅で待ち合わせた。
森田家は、ここから電車で一時間三〇分はかかる。事件当日、被害者と同居していた長男高光が比較的早く現場に現れたのは、被害者と共に都内の妹千里の家に滞在していたからだ。
家族の亡くなった家を訪問するのだから、子供とはいえラフな格好というわけにはいかない。そうかといって喪服というのもやりすぎだ。そこでコナンは、いつものブレザーに蝶ネクタイ、ただしネクタイの色はグレーに変えていた。デパートでもらった抹茶色の紙袋があったのでそれを持ってきた。
コナンとしては準備万端、約束の時刻より一〇分前に改札口前に立った。
五分ほど待って、やってきた一人の少女。コナンは一瞬、気がつくのが遅れた。その少女が哀である、ということに。フリルのついた薄いグレーのワンピースに同じ色のつばの広い帽子、しっかりブランド物のショルダーバッグまで持っている。
「お、おい…」
「この格好のこと? いいじゃない、たまには。私だってこういう服、着たいことがあるのよ。女の子だもの」
にっこり笑う哀。やれやれのコナン。
「そんな成金趣味の格好、犯罪者に目付けられるだけだぞ。誘拐されて、頬にナイフぴたぴたされて、さあ、お嬢ちゃん、おうちに電話してもらおうか、とか」
「あら、私が誘拐されそうになったら、あなたが身を挺して守ってくれるんでしょ?」
「あのな…」
「それに、この程度で成金趣味なんて、ファッションセンスなさすぎよ。女の子の服に少しは興味を持って、もっとしっかり観察しなさいよ。探偵なんでしょ?」
「悪かったな。女の子の服に興味なくて」口をとがらすコナン。
「もっとも、私がお金持ちってのは事実かもしれないわね」
「金持ちの博士の家に、居候してるだけじゃないか」
「私、近々巨額の収入を得ることになってるんだけど」
「巨額の収入?」
「そうよ。博士の収入を上回るであろう、有望な特許を申請中なの」
「有望な特許?」
「超高効率太陽電池に関する技術。もちろん、博士の名義ではあるけどね」
「いつの間に…」
「研究所にいたときやってた研究の副産物なのよ。ある意味偶然の発見なんだけどね。弁理士の話ではスムーズに取得できそうだし、すでにいくつかの企業とも接触してるから、いずれ博士は全国長者番付の百位以内に入るんじゃないかしら」
「…そんなことしてお前、やつらに!」
「ふふ、太陽電池に関する技術なのよ。私が研究所でやっていた研究と関係があるなんて誰も気が付かないわ。そう、この私以外、誰もね。そのへんの詳しいこと、聞きたい?」
「…いや、いい」
コナンと哀は電車のロングシートに並んで座っていた。車内は、座席がほぼ全て埋まっている程度。立っている人はいなかった。
「やっぱりと言うか…」
「そうね」
歩美と光彦が隣の車両に乗っていたのだ。子供が二人、新聞を広げて顔を隠しているから、かえって見え見えだった。
「でも、電車に乗るときは全然気が付かなかったわね」
「ああ、その点はこっちもうかつだったな」
「で、どうするの?」
「もちろん…」
電車に乗って一時間。線路の両側には水田が広がっている。目的地の駅に着いたが、二人はわざと降りなかった。車内はガラガラ。コナンと哀は、さりげなく扉のそばに移動していた。
持ってきた時刻表を開くコナン。
「お、ちょうどいい」
にやりと笑ってぱたんと閉じた。
そして目的地の次の駅、停車し扉が開いてもコナンと哀は微動だにしない。歩美は完全にうとうとしている。光彦もあくびをして二人から目を離してしまった。
発車ベルが鳴り終わった瞬間、ぱっと電車から降る二人。
「あっ、しまった!」
「え、何?」
光彦が気付いたときには時すでに遅し。扉は閉まっていた。そして電車は発車していく。コナンと哀はホームからにこやかに手を振っていた。
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