泳がされる少年
「母さん!」
ばたばたと六十前後の男女が駆け込んできた。
「警部、被害者の家族を…」
後ろから、彼らを連れてきたらしい制服警官が追ってくる。しかし、男女は居合わせる人々をかき分けるように被害者の遺体に駆け寄った。
「か、母さん…」
息子は、母の遺体、その苦悶の姿に絶句した。
「な、なんで…なんでこんなことに…」
女性が遺体に手を伸ばそうとした。
「触るな!」
叫ぶコナン。
「こぼれたお茶に毒が入ってるんだ」
「ど、毒?」
伸ばそうとした手をあわてて引っ込める女性。
「ど、毒って、一体…」
狼狽のあまり声が最後まで出ない息子。女性はぶるぶる震えて後ろへしりもちをついた。
「失礼ですが…」
こういう場面、声はかけにくいものだ。しかし目暮はつとめて冷静に言った。
「森田春江さんの、ご家族の方ですな?」
息子はゆるゆると声の主のほうへ顔を向けた。
「そうです。長男です」
「失礼ですがお名前は」
「あ、ああ、森田です。いや、高光です…しかし、毒って、いったいどういうことですか」
「こちらの方は?」
へたり込んで、声も出ない女性のほうへ視線を送る目暮。
「妹の千里です」彼女に代わって答える高光。
それを確認してから、目暮は、告げねばならぬことを告げた。
「春江さんが飲まれたお茶に、青酸カリと思われる毒物が混入されていました」
「そ、そんな!」
高光は再び絶句し、それから、気がついたように英理に視線を向けた。
「ま、まさか妃先生が…」
千里も震える首を英理の方へ向ける。
英理は、何とも答える言葉がない。しかし、やましいことは何もないのだ。
「いえ、まだそうと決まったわけではありません」
苦しい立場の英理に代わって目暮が答えた。
高光は視線を英理から外した。
「そ、そうですよね…妃先生が母を殺すなんて…そんな、ばかなことが」
「妃さんとはお知り合いですか?」
高光が落ち着いたと見るや、すかさず質問する目暮。
「ええ、父が先生のお世話になって以来ずっと…」
「先日亡くなられたというお父上ですな」
「そうです…父は三年前、家に侵入してきた泥棒ともみ合いになり、その泥棒を死なせてしまったんです」
「死なせた?」
「私から説明しますわ」
英理がようやく口を開いた。
「お父上、森田宗太郎さんは三年前のある日、自宅寝室で昼寝をしていた。そこへ、留守宅と勘違いした窃盗目的の男が侵入。物音に気付いて起きてきた宗太郎さんともみ合いになった。そしてもみ合っているうちに台所に入り、侵入者が置いてあった包丁で宗太郎さんを刺そうとした。しかし、宗太郎さんが逆に奪い取り、侵入者を刺してしまった…」
「なるほど。正当防衛、というわけですな」
目暮はうなずいた。しかし、英理は首を横に振った。
「それが、刺された侵入者は病院に収容されてから亡くなったのですが、亡くなる直前、先に包丁を持ったのは宗太郎さんだと、そう証言したんです。しかも、逃げようとする自分を追いかけてきて刺したのだと」
「ほう」
「侵入者の証言がかなり具体的だったのに対し、宗太郎さんの証言は当初、必死だったので覚えていないと言うなどかなり曖昧で…結局、宗太郎さんの行為は過剰防衛だと検察は判断し、傷害致死容疑で起訴されたんです」
「宗太郎さんの弁護を妃さんが?」
「ええ。争点は包丁を先に持ったのはどちらか、侵入者が宗太郎さんを刺そうとしたのかどうか、という点でした。亡くなった侵入者の、病院における簡易事情聴取の証拠能力も問題になりました」
「なるほど。それで、判決は?」
「包丁に残っていた指紋の付き具合から、侵入者のほうが長く包丁を持っていた可能性が高い、という点と、死亡した侵入者が盗みのために森田邸に忍び込んだという事実は動かない、ということで、判決では正当防衛が認められて、宗太郎さんは無罪ということに」
「ふむ…」
高光が口を開いた。
「ところが母は、あれは正当防衛ではなく、父が最初から殺そうとしたに違いない、と言っていたんです」
「ほう」
「いったいどういうことですか?」
それまで黙って聞いていた小五郎も思わず声をあげた。コナンの目に浮かぶ疑惑。
目暮は落ち着いて質問した。
「殺そうとした、とは穏やかではありませんな。そう思う根拠について、春江さんは何かおしゃっていませんでしたか?」
「いえ、何も。ただ、その、父は、うろたえたり恐怖にかられると、我を忘れて手当たり次第に暴れるような人だったので…」
あごに手をやる目暮。
「なるほど。お父上の性格をよくご存じの春江さんは、お父上の行為は過剰防衛だったに違いないと、そう言いたかったんですな」
「ええ、おそらく。ただ、特に父が亡くなってからなんですが、まるで吐き捨てるように言ってました。『何が正当防衛よ』とか『最初から彼を殺そうとしたのよ』と…それも一回や二回じゃありません。しかも本当にきつい口調で…」
(彼?)目を細めるコナン。
当然、目暮も同じことに気がついている。
「高光さん、春江さんはその侵入者をご存じだったんですか?」
「いえ、そんなはずはないと思いますが」
「ふむ…」
目暮は、もちろんコナンも、これが事件解決の糸口だと直感した。
翌日、帝丹小学校。コナンは授業中何度もあくびしていた。おまけに本日最後の授業は国語、しかも漢字の練習だったから、余計に睡魔が襲ってくるのだった。
そして、待ちかねた終業のチャイムが鳴った。
「…はい、今日はここまで」
小林先生が宣言する。ぱあっと教室全体の空気が軽くなった。
「起立、例」
日直が最後のいの字を発っする直前から、教室はにぎやかになった。
コナンは腕を伸ばして大あくびした。
「どうしたの? 寝不足?」コナンの顔を覗きこむ哀。
「ん…ああ、ちょっとな。ゆうべ事件があって…」
「何何!」首を突っ込む歩美。
「どうしたんですか?」
光彦は冷静な口調でそう言うが、目は好奇心に輝いている。
「事件って何だよ、コナン、教えろよ」元太は何事も一直線。
コナンは、露骨にやれやれという顔をして立ち上がった。
「残念だけど、もう解決したよ」
「それで、どんな事件だったんですか?」
光彦の言葉はなおも冷静だが、その目はきらきら輝いていた。こういう子供の好奇心を拒否するのは心苦しいが…
「悪い。今日はちょっと博士と灰原に急用があってな」
「え?」
もちろん、哀は何も知らない。
「というわけで、灰原…」じっと目を見るコナン。
哀は納得したように首を縦に振った。
「ええ。じゃ、行きましょうか」
コナンと哀は素早くランドセルに教科書やノートをしまうと、二人して立ち上がった。
「じゃ、悪いけどまた明日な」
「さよなら」
二人は並んで、さっさと教室を出て行った。
コナンと哀の視線による会話を見せ付けられて、三人は割り込むタイミングを失っていた。
「な、何、今の?」まず最初に声をあげた歩美。
「うーん…これは、何か重大な秘密がありそうですねえ」腕を組む光彦。
「よし、尾行しよう!」
元太の単純な意見が、三人の結論になった。
米花町近隣では一番大きなショッピングセンター。ぼちぼち夕方の買い物客が増えてくる時間帯。ベビーカーを押した母親。横に並んで歩いてきたコナンと哀は、とっさに縦列になって進路を空けた。二階テラスのテーブル席も大方埋まっていたが、ちょうど真ん中あたりに空きがあった。向かい合って座るや否や、哀が笑いを含んだ声で言った。
「つけて来てるわよ」
哀の肩越しに建物の太い柱が見え、そこからちらちらと歩美や光彦の姿が。
「やれやれ」
コナンは正面の哀に視線を向けたまま、苦笑いしてみせた。
「で? 急用って何なの? この間の続きじゃなさそうね」
「ああ。実は、お前に調べて欲しいことがある」
ランドセルからアルミホイルの小さな包みを取り出した。中にはポリ袋に入った小瓶。化学実験などで用いられる密閉瓶だった。中にかすかに黄色を帯びた液体。
「それは何?」
「お茶。ただし、青酸カリ入りの」
哀の目がとたんに険しくなった。
「事件現場から持ってきたのね」
「ああ」
やれやれと、軽く手を広げる哀。
「危ない事するわね。で、何を調べて欲しいの?」
「含まれている青酸カリが、五十年以上前に合成されたものかどうか、わからないか?」
「五十年? …本気で言ってるの?」
青酸カリは固体の場合、空気中の二酸化炭素と水に反応して炭酸カリウムとシアン化水素に分解されていく。気密性の高い密閉瓶に入れていても長期の保存は困難なのだ。
少年探偵団の三人は、二人を遠くから見ているしかなかった。
「何話してるのかな?」
「深刻な様子はありませんねえ…」
「この間言ってた、引っ越しの件じゃねえのか?」
「…被害者は満洲からの引き揚げ者でな、駆けつけてきた息子の話によると、新京から大連に逃げる際、青酸カリを持っていたというんだ」
「避難民に自決用の青酸カリが配られたって話は聞いたことあるけど、でも、そういうことなら密閉瓶に入れて保存なんかしてなかっただろうし、量だってごく少量。とっくに全部分解してるわよ」
「いや、それがな、被害者は新京の大病院で薬剤師をやっていたんだそうだ」
「ふうん…つまり、病院から青酸カリを持ち出して避難したってわけね。それも瓶ごと。そして青酸カリの保存法も、もちろん知っていたと」
「たぶんな。もっとも、この話をしてくれた息子にしたところで、母親からは、青酸カリを持って逃げた、という話を聞かされていただけで、実物を見てないらしい。それと、日本に帰ってきてからはずっと米専業農家の主婦。薬関係の仕事はまったくしていなかったそうだ」
「ようするに、農家なら比較的簡単に手に入るであろう農薬をあえて使わず、満洲から持ち帰った保存状態の良い青酸カリを使って、わざわざ妃弁護士に疑いがかかるようにして自殺したと、それがあなたの描いているシナリオってわけね」
「ああ。まだ確信も持てねえし、証拠も何もないがな」
「わかっているとは思うけど、このお茶から炭酸カリウムが多く検出されたとしても、そのことをもって五十年間良い状態で保存されてきた青酸カリだったと、断定することなんかできないわよ」
「俺が分析を頼みたいのは不純物のほうさ」
哀は小さくため息をついた。
「私も、青酸カリの合成法、その歴史的変遷について詳しく知ってるわけじゃないけど、よほど特徴的な不純物が出ない限り不可能でしょうね。たとえば、今は完全に廃れてしまった合成法の不純物とか」
「断定が難しいのはわかってる。念のために頼んでるんだ」
哀は額に手をやって、それからコナンを見た。
「ところで、その奥さんに確かな動機はあるの?」
「そいつもまだはっきりとはわからないんだが、おそらく亡くなった旦那の裁判だろう。妃先生が弁護を担当してたんだ」
じれったい少年探偵団の三人。
「ああっ、くそっ、何話してるんだよ」
「深刻じゃないけど真剣、って感じですねえ」
「こうなったら、突撃よ」
「突撃って、ちょっと歩美ちゃん?」
「お、立ち上がったぞ」
「わかったわ。一応調べてみましょう。でも、過大な期待は持たないでよ」
「ああ、わかってる」
哀は受け取った瓶をしげしげと見た。
「それにしても、よくばれなかったわね」
「ん?」
「警察や毛利探偵によ。だいたいこれ、スポイトで回収したんでしょ。スポイトなんかどうしたの? いつも持ち歩いてるの?」
「…ああ、それなんだがな…どうやらばれてるらしい」
「え?」
「ばれてるってのは俺の正体が、だよ」
哀はぎょっとした。
「この瓶は鑑識のものだし、使ったスポイトも鑑識のものだ」
「ちょっと、それどういうこと?」
「どうぞお使いください、ってな感じで転がってたのさ。ちょうどうまい具合に大人たちの死角になる位置に」
コナンは不敵な笑みを浮かべていた。
「昨日に限っておっちゃんも目暮警部も俺を追い払おうとはしなかった…泳がされてるって実感がわいてきたぜ。
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