コナンを見る目
「だめ! それだけはだめ! あの子がいるじゃない!」
一秒たりとも予想していなかった言葉。
「あ、あの子?」
蘭ははっとしてうつむいた。顔は真っ赤だった。
そんな蘭の顔をのぞき込む小五郎。
「あの子って誰だ? …ああ、あの灰原哀って子か。しかし、何だお前?」
ますますうつむく蘭。小五郎はにやりと笑った。
「ははあ、お前、まさか…」
蘭はキッと顔を上げた。
「やだ、変な想像しないでよね」
軽く息を整える小五郎。
「ま、なんだ、蘭の言うとおり俺たちに遠慮することはないぞ。もう家族も同然じゃないか。英理もお前なら大歓迎だと言ってたからな。何も心配することはない。こいつは建前でもお世辞でも何でもないぞ。本気で言ってるんだ」
「そうよコナンくん、一緒に引っ越しましょ。ね」
「うん、ありがとう…でも僕は、今回おじさんたちが引っ越すことになってなくても、近いうちにこの家から出るつもりだったから」
その言葉に蘭は小さく首を横に振った。
「どうして…どうしてなのコナンくん」
「だって…いつまでもおじさんの好意に甘えているわけにはいかないよ」
「こんなお父さんの好意なんてぜえんぜえん気にすることないのよ、ほんとよ」
びしっと小五郎を指さす蘭。
「こんな、ってなあ…」
大げさにあきれて見せる小五郎。
「ね、だから、一緒に引っ越しましょ」
コナンの両肩に手を置く蘭。コナンは、意識して子供の顔を作り、困って見せた。
「それはできないよ、蘭ねえちゃん」
「どうして、どうしてなの、コナンくん!」
泣き出しそうな蘭。
「蘭、あんまり無理を言うもんじゃないぞ」優しげに言う小五郎。
激しい勢いで小五郎に顔を向ける。
「お父さん! お父さんは、まさかコナンくんに来てほしくないわけ?」
「そんなこと言ってないだろ。だがな、コナンにもコナンの考えや事情ってものがあるだろう」
「コナンくんは単に私たちに遠慮してるだけよ。そうでしょ、そうよね、コナンくん?」
同意を求める視線、それはコナンにとって辛いものだった。答えは決まっているが、とっさに言葉が出ない。
「僕、僕は…」
そのとき電話が鳴った。蘭のほうが近かったので電話を取った。
「はい、毛利探偵事務所…ああ、阿笠博士…え、コナンくんですか…ちょっと待ってください。コナンくん、阿笠博士からよ」
受話器をコナンに向ける蘭。両手で受け取るコナン。
「はい、もしもし」
『おお、し…コナンくん、実は、御両親から連絡があってな。至急わしの家まで来てくれんか』
「博士の家に? これから?」
『じゃ、待っておるから』
ガチャッと切れる電話。
「あ、ちょっと、博士! …切れちゃった…」
「どうしたの? なんの話?」
「う、うん…なんか至急来てくれって」
小五郎が立ち上がった。
「ま、さっきの話は別に即決しなきゃならん話でもあるまい。じっくり考えることだ。とりあえず博士の家に行ってこい」
「え、う、うん…」
「大丈夫? コナンくん…私が送って行ってあげようか?」
「だ、大丈夫だよ」
「で、でも…」
デスクに座る小五郎。
「蘭、一人で行かせてやれ」
蘭が小五郎の方を向いている間にコナンはスケボーを持った。
「じゃ、僕行ってくるね」
コナンは駆け足で事務所の外へ。
「遅くなりそうだったら電話するから」
阿笠邸。博士はいつものようにソファの上に座っていた。
「おお、来たか新一」
「で、話ってのは? 父さんたちから連絡って?」
「ああ、いや、あれはお前を呼び出す口実じゃよ」
「口実?」
「毛利くんから、五分後にコナンを呼び出してくれとメールが来てのう」
「メール?」
小五郎はずっと事務所のソファに座っていた。メールを発信する暇など…そこではたと気がついた。話に入る前に携帯電話からメールを打っていたのだ。話の展開をあらかじめ見越した上で。
「で、何があったんじゃ?」
コナンもソファに深く座った。
「おっちゃんからのメールには何と?」
「いや、適当に呼び出してくれ、としか」
「ふうん…」小五郎の機転に少し感心したコナン。
「蘭くんと喧嘩でもしたのか?」
「…何でそうなるんだ?」
「電話に出た蘭くんの声が涙声に聞こえたのでな」
「おっちゃんが司法書士の資格を取ったんだよ。それで、探偵事務所をたたんで杯戸町へ引っ越すことにしたんだそうだ」
「ほう、司法書士か…すると、ひょっとして英理さんと…」
「ああ、やりなおすんだそうだ」
「なるほど…そういうことか」
「そういうことかって?」
「蘭くんに、一緒に引っ越そう、とか言われたんじゃろう」
「当たり」
「やはりな…蘭くんとしては当然そう言うじゃろうな。だがお前としては、一緒に引っ越すわけにはいかないと」
「当然だろ。そんなこと、できるわけがない」
「常識的にはなあ…しかし、蘭くんのことを思うと…」
「いや、いい機会だから出るよ。もともとあの家でこんなに長くお世話になるとは思ってなかったから…というわけで、前に頼んだとおり、この家の部屋を一室貸してほしいんだけど…」
「ふむ、わしとしては全然かまわんが」
「ありがとう、博士」
コナンの表情にようやく明るさが戻った。
「ところで、灰原は相変わらず地下室に?」
「いや、今台所でケーキを焼いておる」
「ケーキ?」
台所では、ちょうど哀がオーブンの扉を閉めたところであった。そしてオーブンのダイヤルを回す。オーブンをのぞき込む表情はとても楽しそうであった。
「楽しそうだな」
哀は突然の来訪者に本気で驚いた。
「く、工藤くん…来てたの?」
「まあな」
「どうしたの? こんな時間に」
オーブンに目を戻す哀。
「今日言ってた引っ越しの話だけど、予想以上に早くなりそうだ」
「ふうん…じゃあ、ほんとに引っ越してくるの?」
「ああ。博士には悪いけど、他に頼る人がいないから」
「隣に自分の家があるのにね」
「まったくだ…しかし、監視装置付けてから誰も侵入した形跡はない、家の周囲にも異状はない、とは言ってもいつ何時やつらが…」
「そうね。あそこに住むのは危険すぎるわ」
「で、お前の意見は?」
哀はオーブンをのぞき込んだまま。表情は見えない。
「意見って?」
「俺がここへ引っ越してくることだよ」
「博士がいいって言うなら、私がとやかく言う話じゃないでしょ」
「筋としてはそうだけどさ」
「なら、私に意見なんか求める必要ないじゃない」
「いやまあ、まったくその通りなんだけど、その、やっぱお前にも許可と言うか、同意と言うか…」
哀は振り返ってコナンのほうを見た。その目は真剣そのものだった。
「な、なんだよ」
すっと表情が緩む。
「…別に。でもいいの? 彼女のこと」
「蘭のことか…しかたないさ」
「しかたないですませてもいいの?」
「いいも悪いも…それ以外に選択肢がないんだ」
「そう…やさしいのね、工藤くん」
「やさしい? どういう意味だ?」
「だって、あなたは一刻も早く工藤新一に戻りたいんでしょうに、私をせかすような言葉を一言も言わないから…まるで、もう元に戻れないという覚悟を決めたみたいに」
哀の思わぬ言葉にコナンは一瞬怪訝な表情をしたが、すぐにかすかに微笑み、
「そういう意味か…」
とだけ言って、続く言葉を何か呑み込んだ。
哀は、黙ったままコナンの言葉を待った。
「これ以上、俺のことで蘭を苦しめるのは忍びない」
コナンが複雑な表情を抱えながら毛利探偵事務所に帰ってくると、事務所前にタクシーが止まっていた。
蘭と小五郎が急いだ様子で建物から出てきた。
「どうしたの、おじさん?」
「おお、コナンか。ちょうどいい。お前も乗れ」
「え?」
「事件だ」
車中で小五郎は事件のことを語り出した。
「おばさんの事務所で!」
「ああそうだ。遺産相続の件で相談にきていた客の一人が、突然苦しみだして死んだらしい」
「毒なの?」
「まだわからん」
妃法律事務所に三人が到着したときには、すでに警察も到着していた。
事務所に入ってみると、老婦人が応接室で苦悶の表情のまま机に伏して息絶えていた。
「あなた…」
英理が厳しい表情で小五郎を出迎える。
「これは…しかし大変だったな」
「お母さん…」
「蘭も来てくれたのね…ごめんなさい、こんな時間に」
「青酸カリだね」
コナンはしっかり遺体を観察していた。遺体は血色が良く、しかも口からはかすかに特有のアーモンド臭がしている。青酸カリ中毒特有の状況であった。
「ちょっとコナンくん」止めようとする蘭。
ところが小五郎は、蘭に向かって手を差し出した。
「好きにさせてやれ」
えっと驚く蘭、コナンも驚く。
「ただし、警察のじゃまにならんようにな。それと、こぼれてるお茶には絶対触るなよ。この状況じゃ…まあわかってるな、お前なら」
「う、うん」小五郎の反応に戸惑うコナン。
そこへ、高木を従えてやって来る目暮警部。
「おお、毛利くん、やっぱり来とったか」
「家族ですから、当然のことです」
小五郎がそのようなことを言うのは珍しい。普通なら蘭が反応しそうなものだが、場合が場合だけに気がついていないのだろう。
「下で報告を聞いたが、青酸カリによる中毒死のようだな」
「そのようです」
小五郎と目暮の視線が英理に向く。
「被害者は、苦しみ出す直前にお茶を飲んだそうですな」
目暮は抑制の効いた口調で英理を問いただす。
「はい、そうです」
英理は厳しい表情で答えた。
「そのお茶を淹れたのは貴女だと…」
「はい」
鑑識係員が部屋に入ってきた。
「警部、被害者が飲んだお茶から青酸カリが確認されました」
さらに厳しい表情になる英理、そして小五郎。驚きの表情を隠さない蘭。
真正面から英理を見据える小五郎。
「これは、あくまで念のために聞くんだが、お前が毒殺した、なんてことはないよな」
「もちろんよ」落ち着いた口調で答える英理。
「状況を説明してくれないか」
「その前に、防犯ビデオ見てくれる?」
「おお、そうだったな」
「防犯ビデオ?」驚く目暮。
「ええ。人を性悪説で捉えるのは本当は心苦しいのですが、この商売にはいろいろありまして」
見上げると天井に半球型のミラーガラスが取り付けられていた。
「なるほど。では、さっそく見せていただけますか」
ビデオ機器は、英理の執務室脇の書庫を兼ねた小部屋に設置してあった。
応接室を撮影していたテープを再生する英理。
被害者が英理に案内されて入って来る。
そしてソファにテーブルを挟んで英理と向かい合って座る。
軽い挨拶の後、英理が立ち上がってフレームから消える。
「これは、どこへ行かれたのですか?」
目暮は尋問調にならないように質問した。
「お茶を淹れにです」
「秘書の方は?」
「たまたま所用で外出していて私一人だったものですから」
被害者はじっと座っている。しばらくして手帳を取り出しページをめくりだす。
そこへお盆を持った英理が戻ってくる。
被害者の手前に茶碗を置く英理。
被害者が手帳を見ながらしゃべり出す。
「被害者の相談というのは何だったのですか?」
「遺産相続の件です。ご主人が亡くなられたのですが、生前、自筆遺書を残されていたとのことで…」
「ほう」
やがて被害者がお茶を手に取り、一口飲む。
手帳をしきりにめくる被害者。
コナンの目に浮かぶ疑惑。その目を見つめる蘭。
突然苦しみだす被害者。そして頭がテーブルの上に落ちた。
「ねえ、この人なんで手帳ばかり見てたの? 先生に見せたいのは自筆遺書のほうじゃないの?」
大人の間に首を突っ込んでいたコナンがそう言った。小五郎がコナンを見る。しまった、とコナンは身構えた。しかし、小五郎は微笑んでいた。
「お前の言いたいことはこういうことか。つまり、手帳に毒が塗ってあって、それが手に付き、その手で茶碗を触ったから…と」
いつもならコナンを追い払おうとする小五郎がコナンの意見を真面目に受け止めている。コナンは拍子抜けした。
「なるほど。確かにあり得る線だな」
目暮もコナンを追い払おうとはせず、そのまま後ろを振り向いた。
「トメさん!」
「はい」
被害者の脇にしゃがんでいたトメさんが立ち上がった。
「被害者の手や指先の青酸反応は?」
「それが、崩れ落ちる際にお茶がこぼれてしまい、広い範囲に広がってしまっています。両手ともそのこぼれたお茶を浴びていますので…」
「そうか…で、お茶に含まれていた青酸カリの量は?」
「簡易検査ですが致死量に充分な量と思われます。これはお茶に直接混入されたものと考えるのが自然でしょう。指先に付着したものということでは説明がつきません」
「手帳もお茶をかぶっているな」
「ええ。ここに」
床に落ちた手帳は、こぼれたお茶を吸って分厚くふくらんでいた。
「手帳に付いていた比較的量の多い青酸カリが、お茶に溶け出した可能性もあるのでは?」
「いえ、机の上でひっくり返っていた茶碗からも反応が出ていますので、青酸カリはこぼれる前からお茶に入っていたことになります」
「なるほど」
コナンは頭脳フル回転モードに突入していた。
(おばさんが人を殺すことなど考えられない…となると、第一に考えられるのは自殺。被害者がめくっていた手帳、あれに青酸カリが塗ってあったという殺人、という線が第二…だが、ひっくりかえっていた茶碗の中からも青酸カリが検出されたということは、お茶に混入していた青酸カリは、手帳に塗ってあったものが溶け出したのではない…)
蘭は、新一を見ているのだった。コナンの表情、仕草、雰囲気、その全てが新一。見間違えるはずもなかった。そして、小五郎も、目暮も、高木もトメさんも、皆、コナンを見ていた。
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