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あの子がいる
 一年B組の教室。
 今日最後の算数の授業が終わって、子供たちはとたんに元気になった。
 コナンと哀にとって、もっとも退屈な授業が算数であることは言うまでもない。哀は算数の授業中、英語のペーパーバックを読むのが日課である。
 算数以外の授業は哀も一応真面目に聞いていた。彼女によると、それが労働者としての教師に対する彼女なりの誠意なのだと言う。ただ、算数の授業だけはどうにも苦痛で耐えられない。算数の教師も哀が授業を全く聞いていないことには気がついていたが、見て見ぬふりをしていた。抜き打ちで指名してみたところで、彼女はあらゆる問題に正確に答えるのだ。彼女は、算数はもちろんのこと全ての科目についてオール一〇〇点であって、誰の目にも授業の内容が彼女にとって退屈であろうことは容易に想像できた。そもそも教師たちは、彼女が私立の進学校へ行かずに公立小学校に通っていること自体、不審に思っているほどだったのである。
 一方のコナンはと言えば、やはり算数の授業は無視していろいろな本を読んでいた。コナンもペーパーテストはオール一〇〇点かというと、そうではなかった。さすがに算数はオール一〇〇点なのだが、国語などでは時にケアレスミスによる失点があった。本人いわく、
「あまりにも退屈すぎて、ついうっかりってやつが出るんだよなあ」
とのことではあるが、もちろん通知票の評価において大勢に影響するものではない。
 さて、当然とは言うものの、哀の通知票は全て「たいへんよくできました」であった。しかるにコナンはと言えば、音楽以外は不動の「たいへんよくできました」なのであるが、音楽は「もっとがんばりましょう」であった。
「コナンくん、博士の作った新しいゲーム、どんなものだと思います?」
 光彦がそう言ったのを、コナンはぼおっとして聞いていなかった。
「コナン君?」
「え? あ、悪い。何だって?」
 露骨に顔を歪める光彦。
「どうしたんです? 何かあったんですか?」
「いや、別に。ちょっと考え事してたから」
「この間、博士が言ってた新しいゲーム、どんなのものだと思いますか」
「あ、ああ、そういえばそんなこと言ってたな」
「ちょっと、しっかりしてくださいよ、コナンくん」
 コナンの妙な様子に、哀と歩美はしっかり気がついていた。

 阿笠邸。少年探偵団の面々はもはやお客さんではなく、自分の家のように勝手に出入りし、勝手に遊んでいた。
 一階ホールに置かれた五〇インチディスプレーを前に、元太、光彦、歩美の三人は、博士自慢の新作格闘ゲームに熱中していた。
 コナンはそっと三人の脇を離れ、二階へ上っていった。
 コナンは二階の空き室になっている部屋に入ると、南に面した窓を開けた。西の空、今まさに沈もうとしてる太陽。赤く染まった空と雲。
「どうしたの?」
 はっとして振り向くと、そこに哀がいた。
「灰原か…」
「元気ないじゃない。何かあったの?」
「そう見えるか?」
「ええ。一目瞭然よ」
「そうか…」
 部屋を見回すコナン。
「それにしても、ここ、いい部屋だな」
「建物の設計上のコンセプトとしては住人の個室用、だそうよ」
「ここにするかな」
「え?」
「いや、毛利探偵事務所を出たら、ここに住まわせてもらおうかなって」
「何かあったの? 彼女と」
 その意地悪そうな声はわざとだ。やれやれのコナン。
「彼女と、ってなあ…一体、どこからそういう発想が出てくるんだよ」
「違うの?」
「違うよ。いつまでもおっちゃんの好意に甘えてるわけにいかねえだろ」
「でも、あそこに居候してるのは、組織の情報を得るためじゃなかったの?」
「ああ、最初はな。こんなに長引くとは思わなかったから…」
「だけど、好意に甘えるって言えば、ここだってあなたの家じゃないのよ」
「博士の好意に甘えて居候してるお前に、言われる筋合いなんかないと思うけど?」
「それはそうだけど、でも、知ってるんでしょ、博士が何者かってこと」
 哀としては、意表を突いたつもりだったのだろう。
「全部は知る由もないが、少なくとも、突然この世に現れた六歳児の戸籍を、六年前にさかのぼって作れる人物だってことはな」
「それ、偽造したのだと思う?」
「いや、役所もそこまで間抜けじゃないさ」
「そこまで気がついているなら、どうして博士を問い詰めないの?」
「お前は問い詰めたのかよ」
「いいえ。私が博士に助けられて目を覚ましたとき、博士は私の素性を知っていた節があるのよ。それでだいたい想像はついたの。それに、仮にあなたという実例を知っていたにせよ、殺人を生業とするような組織に関係している女の言うことなんて、無邪気に信じる人がいるかしら?」
「お前の素性を知っていた…ふうん…」
「それは間違いないわ」
「そう判断してるお前が、博士を信頼しているのはなぜなんだ?」
「あなたがよく口にする『黒の組織』なるもの、それはもっと大きな組織全体のごく一部、あるいは断面の一つにすぎないってこと、こう言えばわかるかしら」
 探偵モードに突入するコナン。
「ああ、少し考えればすぐにわかることさ。お前の言う、もっと大きな組織、ってやつが一枚岩でないってことも。というより、そもそも一つの組織として捉えること自体があまり意味がない。そして非常に広義に考えれば、博士でさえ組織の一員になっちまう、ってこともな」
「そう、やっぱり気がついていたのね」
「俺が食らった薬の効能、そして殺人をもいとわぬ秘密主義…始皇帝の昔から人間の欲望なんて変わってないのさ」
「ふふ…さすがは工藤新一、ってところかしら」
「暴力団なんか問題にもならない、プロの殺人集団を常時養える組織ってことは、政財官界の上のほうとつるんでるってことさ。だとしたら、その組織の求心力とは一体何か、経済的利権なんてありきたりのものであるはずはない。その上薬に関係してるとなりゃ…答えは一つ」
「そうよ。私が課されていた研究の究極の目的、それはまさに不老不死だった。私の周囲にいた研究者の誰一人としてそのものズバリは言わなかったけれど、言われなくたって自明のことだったわ」
「不老不死か…出資したい金持ちは、世界中にごまんといるだろうな」
「ええ。でも、そこまで気がついているなら、気がついているんでしょ。もっと恐ろしい事に」
「恐ろしい? …まあ、こいつを恐ろしいって言うのかどうかは知らねえが…政治家はもちろん官僚の上のほう、大企業のトップもみんなつるんでいる。殺人をもいとわぬ秘密主義を、知らない善意の出資者なんて一人もいやしない。マスコミの会長や社長も、そしてもちろん、警察の幹部もな」
「へえ…私、あなたのこと少し甘く見てたのかもしれないわね」
「なんだよ、俺が単純な勧善懲悪だけの男だと思ってたのか?」
「ええ、正直なところ、思ってたわよ。治安を維持するはずの警察幹部が、裏で殺人を黙認してるなんて知ったら、少しはショックを受けるんじゃないのかなって」
「ちょっと違うだろ」
「え?」
「警察が殺人を黙認している、確かにその通りなんだが、全て、無条件に、というわけじゃない」
「どういう意味かしら?」
「さっきも言ったろ、組織は一枚岩じゃないって。つまり複数の様々な組織…いやまあ混同しないように集団と言っておくが、ようするに多種多様数多くの集団が、不老不死という一つのキーワードでゆるやかに結びついているんだ。時には利害の対立や抗争をも抱えながら…」
 哀は黙って聞いていた。
「お前を殺そうとしている殺人の実行部隊は、その部隊独自の規律規範で動いている。研究所を運営していた企業のトップの命令、というより依頼があったからだ。しかしその一方で、お前や俺の存在を知って、殺さずに泳がしておこうとしている連中もいる…そういう連中が警察のトップや役所にいるってことだよ。おそらく、お前のいた研究所を運営していた帝国化学…」
 帝国化学という名前に、ぎくりとする哀。
「…のトップは、一方では本来のお前、つまり姿の消えたシェリーの抹殺をジンたちが属する殺人集団に依頼し、他方では灰原、お前という突如この世に現れた少女の存在を警察や役所に通報していたんだ…まあ、もっとも、博士がお前の存在をしかるべき国の機関に報告したために、帝国化学に問い合わせが行った、ってことかもしれねえがな」
「やっぱり気がついていたのね。あなたはずっと泳がされていたんだ、ってことを」
「ふ…情けねえ話だが、そのことに気がついたはお前がここに来てからだよ。考えてみりゃ当然だ。なにしろ俺たちは、若返りの妙薬の効果を示す生きた実例なんだからな。簡単に殺してしまうにはあまりにももったいないじゃないか。若返りや不老不死を切望する老人たちにとってはそれこそ希望の星に思えるだろうぜ」
 本気で感心している哀。
「私、本当に、あなたのこと甘く見過ぎていたわ…まさか、そこまで気がついていたなんてね」
「もっと気がついてるさ。たとえば、毛利のおっちゃんが実は韜晦してるってことも」
「とうかい? …建物が倒壊する、東海道五十三次、当会にご用の方は…」
「おい、ほんとに知らないのか、お前」
「冗談よ。でも私、正直に言えば、あなたは毛利小五郎という人を甘く見すぎている、と思ってたのよ」
「眠っている間に名推理を披露して自分は何も憶えていない、時には自分が今し方まで言っていたこととまるで正反対の推理を披露していた…なんてそんなこと、まともな人間が受け入れられるようなことじゃないだろ」
「ふふ…そうよね…ふふふ…」
 哀は心から楽しそうに笑っている。その珍しい表情に、コナンは目をみはった。
「なんだ、お前…そうやって笑ってれば結構可愛いじゃねえか」
「え…」
 絶句する哀。顔はかすかに紅潮していた。

「あれ、コナンくんは?」
 歩美は、ようやくコナンがいないことに気がついた。
「あれ? さっきまでいたような気が…」手の止まる光彦。
「トイレじゃねえのか?」のんびりと言う元太。
「そういえば、灰原さんもいませんね…」疑惑を抱く光彦。
 と、コナンと哀が二階から降りてきた。
「…あなた、それ、もっと勉強したほうがいいわよ」
「勉強ねえ…でもまあ俺、化学者になるつもりないし…」
「でも、毒物の知識は必要でしょ」
「だからと言って不斉合成反応の理解までは…ん?」
 疑惑の視線の歩美。冷ややかな視線の光彦、元太。
「ど、どうしたんだ?」
「どこへ行ってたんですか? 二人で」トゲある声の光彦。
「え? ああ…ちょっと二階の部屋見てたんだよ」
「二階の部屋?」
「俺、毛利探偵事務所を出て、近々ここへ住むことになるから」
「ええーー」
 驚きの声をあげる三人。哀は、ふうとため息をついた。

 夕闇迫る街。喫茶店ポアロの二階、毛利探偵事務所にコナンは帰ってきた。
「ただいま」
 ところが、出迎えた蘭の表情が明るくない。
「おかえり、コナンくん」その声も沈んでいる。
「…どうしたの? 蘭ねえちゃん」
 ソファでは、小五郎が携帯電話を操作していた。
「コナン、話がある。まあ座れ」
 小五郎はそう言うと、パチッと携帯電話を閉じた。珍しく真剣な表情だった。不安そうな蘭の表情も気になる。とりあえずソファに座るしかない。
「実は、司法書士の資格を取ったんだ」
「おじさんが?」
「まあな」
「すごいじゃない。試験、ものすごく難しいんでしょ」
「司法試験ほどじゃないがな」
「でもこれで、仕事の枠が大きく広がるよね」
「ほう、結構難しい物言いを知ってるんだな、お前」
 はっとするコナン。未だかつて見たことがない小五郎の視線。
「や、やだなあ、おじさん。先週の左文字で、被害者のおじいさんが言ってた台詞だよ」
「…ああ、なるほど…ふ…」
 今目の前にいる男は、いつも見慣れているあの毛利小五郎とは別人だった。蘭の様子も明らかにおかしい。
「ど、どうしたの? 司法書士の資格を取ったってことは、お祝いすべきことなんでしょ」
 小五郎はコナンの問いには答えなかった。
「これを機に、探偵事務所をたたむことにしたんだ」
「え…探偵、やめちゃうの?」
「まあな。これからは、英理の事務所を手伝うことにしたんだ」
 それを聞いて、ますます蘭の表情が不可解に思えた。思わず蘭の顔を見る。
「よかった…んだよね…蘭ねえちゃん…」
 しかし、蘭の表情はまるで何かを恐れているようだった。これは一体、どうしたことか?
「杯戸町に中古だが家を買った。で、引っ越すことにしたんだ」
 コナンは瞬時に事態を把握した。
「そっか…よかったね。じゃあこれから一家三人水入らずの…」
「コナンくん!」
 蘭は叫んでいた。続けて何を言おうとしているか、痛いほどわかる。
「一緒に来るわよね、コナンくん」
「蘭ねえちゃん、それはだめだよ」
「どうして? コナンくんはまだ子供だもの、遠慮なんてすることないのよ。そうでしょお父さん」
「蘭、まあ落ち着け」
「だいたいコナンくん、あなたここを出てどこへ行くつもりなの?」
「大丈夫。博士の家にお世話になるよ」
「だめ! それだけはだめ! あの子がいるじゃない!」


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