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警察の事情
 非番の日、目暮はいつものように公園をジョギングしていた。そして公園の外れ、人気もまばらな場所にあるベンチに腰を下ろした。先客が一人、くたびれた背広を着て競馬新聞を広げている男。
「例のものは手に入ったかね」
 目暮は男のほうを見るでもなく、一人言のように言った。
「ああ」
 すっと封筒を差し出す男。
「二人の住民票…二人とも小学生だってのに、なぜか戸籍の筆頭者…」
 目暮も懐から新聞を取り出して広げた。そしてその内側で封筒の中身を取り出す。
「なるほど、二人とも本籍地は米花町二丁目二十二番地、か…」
「言っときますがね、建物に侵入しなきゃならない戸籍は引き受けられねえよ」
「ああ、わかってる。ありがとう」
 目暮は持参した別の封筒を男に差し出した。男は素早く懐にしまった。
「自腹で、何でそこまで?」
 目暮は新聞をたたむとすっと立ち上がった。
「今後ともよろしく頼む」
 そう言って再び走り出そうとした。
「だんな、ひょっとして、こいつはかなりやばい話なんじゃ?」
「それがわからんから、調べている」
 目暮は真剣な表情で再び走り出した。

 東京丸の内。赤レンガの東京駅近くにある日本工業倶楽部ビル。大正時代に建てられた当時のままの姿を残すオフィスビル。その一階に、ビル竣工当時から営業しているバーがあった。しかしその店に入れる人間はごく限られていた。旧財閥系の日本を代表する大企業の役員、もしくはそれら企業に関係する旧華族の人々のみ。
 その日も客は一人だった。カウンター座る和服の老人。銀髪、顔にはそれなりの皺が刻まれているが、肌に残る張りと艶は、ぱっと見の年齢にしては若作りだ。老眼鏡もかけずに新聞を読んでいる。しかも中国語の新聞だ。
「マティーニでございます」
 バーテンが老人の前にグラスを置く。オリーブ抜き、それが老人の流儀だ。老人は新聞から顔を上げた。
「はて、私は頼んでおらんが…」
 はっと後ろを振り返る老人。
「波多野先生、お久しぶりです」
 いつやってきたのか、白鳥がそこにいた。
「君か…私に何の用かね? いつぞや同様、穏やかな話ではなさそうだな」
「先生にお伺いしたいことがありまして」
 新聞をたたむ老人。
「その前に、せっかくの好意だ、いただくとしよう」
 老人はぐいっとカクテルを飲んだ。
「…で、用とやらを聞こうか」
 白鳥は単刀直入に切り出した。
「先日、プロ野球コミッショナーだった田岡氏が急逝されましたが…」
 黙ってグラスを傾けている老人。
「実は生きている、なんてことはありませんか?」
 飲み終えて、グラスをカウンターに置く。
「たとえば、子供の姿になって」
 老人は眉一つ動かさなかった。
「いったい、何の冗談かね?」
「田岡氏は財団法人日本細胞遺伝子学研究所の理事でもいらっしゃいました」
「…何を言いたいのかね?」
「何でも、そこでは若返りの妙薬を研究しているとか」
「待て!」
 飛んできた鋭い声。一瞬、白鳥の息が乱れた。
「君は警察庁のキャリアだろう」
「そうです」
「ならば、その件について興味を持つべきではない。理由がわからぬとは、よもや言うまいな」
 白鳥は、強引に平静に構えた。
「実は私、奇跡とも思える実例を一人、いや、二人、知っていましてね」
「白鳥君」
 老人は立ち上がった。
「私は、今日君とここで会ったことは忘れる。君もそうしたまえ」
 老人はさっさと出口に向かって歩いていった。
「波多野先生!」
 老人は振り返りもせず、そのまま扉の向こうに消えた。
 白鳥の顔から、いつもの余裕は完全に消えていた。

 朝夕は渋滞する幹線道路も午前十一時はさすがに空いている。
ハンドルを握る高木は、不安げな表情を抱えて助手席の美和子を見た。
「本当にいいんですか? 名義を借りるなんて」
「大丈夫よ。彼には貸しがあるから」
 幸いなことに区役所の駐車場も空いていたので、楽に駐車できた。停車と同時に美和子はドアを開け地面に足を降ろした。高木は慌てて声をかけた。
「もしもばれたら、山田さん、行政書士の資格を失うことになりませんか?」
「あの人、もう何回失ってるかしら…私がちらっとでも過去のことを証言したら、ふふ…」
「それに、山田さんだけじゃなくて、僕らもやばいですよ」
「当然じゃない。減給では済まないでしょうね。僕ら、じゃなくて私がね」
 美和子は、にやりと笑って車を降りた。
「いいのよ。高木くんはただの運転手。私がやってることは一切知らないはずだから」
 ドアを閉めると、さっさと庁舎に向かって歩き出した。
「佐藤さん!」
 あわててサイドブレーキを引く。
 市民課の窓口、美和子は平然とした顔で書類を提出した。書類を見た女子係員の顔色が一瞬変化したことに、美和子は気がつかなかった。
 美和子がベンチに腰を下ろすと、ようやく高木がやってきた。
「…もう提出しちゃったんですか」
「ええ」
 その後待つこと一〇分、しかし、山田善行の名前は呼ばれない。
「遅いわね…」
「今受け取ってる若い男、佐藤さんより後に提出した人じゃないですか?」
「そうよね…」
 と、美和子の携帯が鳴った。
「はい、佐藤です」
『松本だ。すぐに戻って、私の部屋に来い』
 松本管理官の声は平静だった。
「わかりました。今、米花駅近辺におりますので…」
 美和子の返答を待たず、松本の冷静な言葉が続いた。
『残念だが、君が提出した山田善行行政書士名義の申請書は受理されない。とにかく戻れ』
 美和子の顔色が変わった。
「ど、どういうことですか? なぜそれを管理官が?」
『説明は私の部屋でしよう』
 電話は一方的に切れた。
「どうしたんです?」
 のんびりとたずねる高木。
 美和子は市民課窓口へ走った。
「佐藤さん?」
 窓口に先ほどの女子係員の姿はなく、課長と肩書きのある名札を付けた男性が座っていた。
「すみません、さきほど住民票の申請をした山田善行行政書士の代理の者ですが…どうなっていますか?」
 課長氏はまったく平然と、事務的に答えた。
「どのくらい前に申請されましたか?」
「一〇分くらい前です」
 課長氏は事務的なしぐさで手元の書類を探した。
「そのような申請書は提出されていないようですが…」
「そんなはずはありません。一〇分前ここに座っていた女性を呼んでください」
「彼女は今休憩中です」
「私は確かに提出しました。彼女に確認してください」
「と、言われましても…」
 あからさまに困惑の表情を浮かべる課長氏。
「佐藤巡査部長」
 振り向く美和子。そこに制服警察官が二人。
「申し訳ありませんが、ご同行願います」
「いったいどういうこと?」
「我々は佐藤巡査部長と高木巡査を本庁まで送れとの命しか受けておりません」
 美和子はきっと窓口の課長氏を見た。もはや自分には関係ない話とばかり、別の申請書を受け取っている。
「…なるほど、そういうことね」
 何が起きているかわからず、唖然としている高木。
「高木くん、行くわよ」
「え、え、どこへですか」

 目暮はジョギングを終え自宅に戻ってきた。マンションやビルに浸食されていない古くからの住宅街。瓦屋根を戴く純和風木造住宅。時刻は十二時を少し回っていた。
「ただいま」
 やはり純和風でまとめられた玄関、エプロン姿の妻が出迎える。
「おかえりなさい。今、千葉さんから電話がありましたよ」
「千葉くんから? …携帯にかければいいものを…で、かかってきたのはいつだ?」
「ほんのさっき、二・三分前ですよ」
 目暮は怪訝な表情で電話機に向かった。
『はい、一課千葉です』
「目暮だ。電話をもらったそうだが、何か?」
『実は、佐藤さんと高木さんが管理官の部屋へ呼ばれたんです』
 目暮はやれやれと息を吐いた。
「またか…で、今度は何をやらかしたんだ?」
『いえ、それが妙なんです』
「妙?」
『ええ。たまたま玄関で見かけたんですが…二人は所轄のパトカーに乗ってきたんです。何事ですかと聞いたら、佐藤さんが、松本管理官に呼ばれたの、と言ってましたが…しかし、その、まるで連行されてきた被疑者、といった雰囲気だったもので…』
 目暮の表情に緊張感が走る。
「わかった。すぐに登庁する」
 ゆっくりと受話器を置く。
「事件ですか?」慣れた口調で尋ねる妻。
「いや、部下が何か不始末をやらかしたらしい」

 美和子と高木が松本管理官の部屋に入ると、松本は目をつむり腕組みをしていた。
「いったい、どういうことでしょうか?」
 美和子の言葉に、松本はゆっくりと目を開けた。
「君が想像しているとおりだよ」
「理解できません」
「江戸川コナン、灰原哀、この二人について、おかしな興味を持ってはならない」
「…つまり、二人は単なる小学生ではないということですね」
「君らが知る必要のないこと」
 美和子はぐっと拳を握ってから、ふっと笑みを漏らした。
「…私は、小笠原署あたりに転勤でしょうか?」
 松本はぎろりと美和子を見た。そしてにやりと笑った。
「まさか。そんな異動をさせたら、それこそ何をやらかすかわからんからな」
「わかりました」
 美和子は深々と頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありませんでした」
 そのままくるりと松本に背を向ける。あっけにとられたままの高木。
「行くわよ高木くん」
「え? あ、はい」
 一歩前に踏み出して、ぴたっと立ち止まる美和子。
「忘れていました」
 そう言って、美和子は再び松本のほうを向いた。
「高木くんは車を運転していただけです。事情は何も知りませんでした。処分は私だけにしてください」
「ちょっと佐藤さん!」
 くくくと鼻で笑う松本。
「お前らを処分しなきゃならん理由など何もない。そう、何もなかったんだ」
 不敵な笑みを返す美和子。
「コナンくんと哀ちゃん…よほどの秘密があるんですね。たとえば、一七歳の高校生が七歳の子供に逆戻りした、とか…」
 しかし、松本は眉一つ動かさなかった。
「ご苦労だった。下がっていいぞ」
 これ以上のにらみ合いは時間の無駄であろう。
「…失礼します」
 美和子は再び慇懃無礼に頭を下げると、そのままつかつかと扉に向かって歩きだした。
「ああ…佐藤さん?」
 あわてて松本に頭を下げ、美和子を追う高木。
 それでもなお、美和子はドアのノブに手をかけてから立ち止まった。そして、そのままの体勢で言った。
「警視に昇進すればわかる、ということでしょうか?」
「はて? 何のことかな?」
 ノブにかかった手にぐっと力が入る。
「失礼します」
 美和子は扉を開け、そのまま歩き去った。
 高木は、もう一度松本に頭を下げると、あたふたと美和子の後を追った。
 一課の扉の前、高木は美和子に追いついた。
「佐藤さん!」
 美和子は高木に視線すら向けずに扉を開けた。と、そこには非番のはずの目暮警部がいた。
「で、今度は何をやらかしたんだ?」
「お休みのところ、申し訳ありません」
 美和子は頭を下げた。そしてキッと頭を上げた。
「しかしご心配なく。何事もありませんでした」
「何?」
 目暮は疑惑の視線を高木に向ける。
「え、あ、その…そうです。何もありませんでした」
 高木から視線を外し、あらためて美和子を見る目暮。美和子は完全に開き直った様子で目暮を見返していた。
「なるほど…ま、何事もなかったと言うのなら、私は帰る。昼飯は家で食べるつもりだったからな」
 そう言うと、目暮はさっさと部屋を出ていってしまった。
 ふうと息を吐く美和子。
 じっと美和子を見る高木。
「佐藤さん」
「なあに?」
 機嫌の良くない美和子。
「今回の件、僕にだって責任があります」
 美和子は高木を睨みかえした。
「高木くん、そんなことはもうどうでもいいの」
「良くありませんよ」
 様子を窺うように、二人を見ている千葉ら数人の刑事たち。美和子は、きっと彼らを見渡した。
「君らが知る必要のないこと」
 はっとする一同。
 くすっと笑う美和子。そして高木を見た。
「焦ってはだめみたい。もっと慎重にやりましょう」
 そう言うと、美和子は出入り口に向かって歩き出した。
「あ、あの佐藤さん、どこへ?」
「お手洗い!」

 目暮はその足で松本管理官の部屋に直行していた。
「佐藤と高木に何かありましたか?」
「いや、何も」平然と答える松本。
「所轄のパトカーで連行されてきたようだった、と聞きましたが?」
「さて、私はその場を見ていないので詳しいことはわからんが、いずれにせよ、何もなかった」
 鋭い視線が松本を捉える。
「コナンくんに関係ありますか?」
 松本はぎょろりと目暮を見た。
「なぜそう思う?」
「私と同じ誤りを犯したのではないかと思いまして」
「君も、そんな昔の事は早く忘れることだな」
 目暮は一つ息を吸い、吐いた。
「今日は非番なので、これで失礼します」
「ああ」

 ツインタワービル事件から三日目、毛利探偵事務所の朝はいつもと同じように始まった。表面上は。コナンと蘭が先に起きてきて、保護者たる小五郎は未だ夢の中。
「おはよう、蘭ねえちゃん」
 コナンは挨拶のきちんとできる子だが、その朝の挨拶も普段のとおりだった。
「う、うん…おはよう」
 蘭はあの日からずっと寝不足だった。今朝も。
「どうしたの? 蘭ねえちゃん?」
「え? ううん…何でもないよ。さ、早く食べましょ」
 蘭は笑顔を作った。そう、このささやかな平穏の時を壊したくなかったから。
「うん!」
 コナンは、いつもと同じように元気だった。

 放課後、帝丹高校の門を出た蘭の表情は冴えなかった。
 教室の中ではかろうじて笑顔を保っていたものの、一人になると、言葉にならない不安がこみあげてくる。事件以来、ずっとその調子だった。
「蘭さん」
「え?」
 呼び止めたのは白鳥だった。
「白鳥警部…」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけどね。時間は大丈夫かな?」
「例の事件のことですか?」
「いや、工藤新一くんのことでね」
 その名が出たことに、蘭は驚いた。
「新一の?」


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