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あなたに出会えて本当に良かった
 三月。桜の花が満開を迎える頃、横浜港に停泊していた豪華旅客船が出航の準備を進めていた。桟橋の掲示板に「さんらいず丸」の文字と「桑港」の大きな文字。
「これ、何て読むの?」
 黄色のワンピース、おしゃれな歩美が「桑港」を指差す。
「ああ、これは、そうこうって読むんだ」
 下ろしたてのブレザーを着たコナンが答えた。前のブレザーはもう着られなくなっていた。
「そうこう?」
「くわこう、じゃないんですか?」
 光彦が尋ねた。
「ああ、そう読む人もいるが間違いだ。湯桶読みになるだろ」
 光彦は感心したようにうなずいた。
「なるほど。ということは、桑の字の音は『ソウ』なんですね。一つ勉強になりました」
「ねえねえ、ゆとうよみって何?」
 歩美が真剣な顔で質問。
「漢字の読み方に音と訓というのがあるんだ。たとえば米花町の『カ』の字、この字には『はな』という読みもあるだろう? この『カ』の読み方が音で、『はな』が訓だ。ふたつの漢字で出来てる言葉の場合、音なら音、訓なら訓だけで読むことが一応正しいとされている。で、さっきの『そうこう』だけど、これは『ソウ』も『コウ』も音。光彦が言った『くわこう』だと『くわ』が訓になる。湯桶読みというのは『ゆ』が訓で『トウ』が音だから、『くわこう』みたいな読み方を注意する時に使うのさ」
 歩美はうーんと考えていた。
 ピンクのフリル付きワンピースを着た哀がくすっと笑った。コナンもしまったと思った。
 しかし、歩美の次の質問は、コナンと哀の意表をつくものだった。
「その、音と訓ってどうやって区別するの?」
「え…ええと、それはだな…ま、まあ、漢字をもっと勉強していけば自然にわかるようになるよ」
「コナンくんと光彦くんはどうしてわかるの?」
 光彦は胸を張った。
「僕の場合はですね、ロンドンにいるとき、ほら、周りが英語ばかりじゃないですか。だから、日本語も大事にしないと、ってことで、一ヶ月くらい集中して毎日漢字の勉強したんです」
 コナンは焦っていた。
「あ、ええと、俺、漢字が好きなんだよ。ほら、俺って漢字一杯知ってるだろ」
 歩美は今ひとつ納得していない様子だったが、ちゃんと当初の疑問を覚えていた。
「それじゃ、そうこうの意味は?」
「サンフランシスコのこと。中国語でサンファンシースーコーって書くと、最初のサンが桑の字になるの。これに港町であることを示す港という字を付け加えて、桑港。昔はこう書いて略してたのよ。それを、日本では『そうこう』と読んでいたってわけ」
 哀が答えた。
「サンフランシスコって元太くんの行くところ?」
「そうよ」
「じゃあ何でサンフランシスコって書かないの? 地図にもカタカナで書いてあったよ」
「今回元太くんの乗る船は、昔の世界一周旅行船を再現した船ですからね。それで、そういう細かい演出をしてるんですよ」
 光彦が得意げに答えた。
「えんしゅつって…」
 歩美の言葉にコナンと光彦は身構えた。
「映画とかドラマでやってるやつでしょ」
「あ、ああ、そうだ」
「つまり、見せ方の工夫、だよね」
 歩美はにっこり笑った。
 ほっとするコナン。
「おお、お前たち、ひさしぶり」
 小五郎だった。後ろに英理と、そして蘭がいた。
「蘭ねえちゃん…」
「コナンくん、久しぶり」
 蘭はにこやかに言った。
「う、うん…蘭ねえちゃんたちも元太の見送り?」
「ええ」
 哀はコナンを見ていたが、コナンは少なくとも表面上は落ち着いていた。
「ハロー、みなさん」
 元太のおじさんだった。元太の親戚らしく大柄で恰幅のある明るい人物。背広が窮屈そうだった。
 そのおじさんに付き添われて、ブレザー姿の元太が緊張した面持ちで立っていた。
 コナンはぱっとそちらを向いてしまう。
「あ…」
 蘭の顔から微笑みが消える。
「元太くん…」
 歩美も元太の姿を見て、急にさびしそうになった。
 元太は大げさににやりと笑った。
「お、おう、心配するな。向こうに行ったら、電子メール覚えて写真入りのメールを送るからよ。それに、船の上からも電話する」
「待ってますよ、元太くん」
 光彦が右手を差し出した。
「ああ」
 元太も右手を差し出して握手した。
「そしてな」
 元太は歩美の手を左手で取った。そして光彦の手に重ねた。
「光彦、歩美のことはお前に任せた」
 思わず顔を見合わせて、赤くなる光彦と照れる歩美。
 コナンは微笑みながら元太に近寄った。
「元太、元気でな」
「おう。コナンも、灰原にもっとやさしくしてやれよ」
 コナンはふふっと笑った。
「ああ、わかってるさ」
 哀もすっと歩み出た。
「小嶋くん、元気でね。夢が叶うこと、祈ってるわ」
「そういや灰原、お前転校してきた日に、俺の隣に座らずにコナンの隣に座ったじゃねえか。あれ、どうしてだったんだ?」
 一秒たりとも予想していなかった質問に、哀も一瞬答えに詰まったが、すぐにふっと笑った。
「小嶋くんと同じ」
「え? 俺と?」
「そう。直感よ。それも強烈な直感」
 にやっと元太は笑った。
「そうか。お前の直感は正しかったと思うぜ」
「ええ、ありがとう」
「ゲンタ、そろそろ行きます」
 時計を見ていたおじさんが促すように言った。
「お、おう」
 おじさんと元太がタラップのほうへ歩いていった。そしておじさんは係員に乗船券を見せた。
 元太はもう一度みんなを振り返った。
「じゃあな。行ってくる」
 元太の両親と兄弟が前に出た。
「気を付けてね」
 母親が元太の手を握った。
「ああ、大丈夫だよ、母ちゃん」
「世界一になってこい、元太」
 父親が力強く言った。
「ああ、必ず!」
 元太も力強くうなずいた。
「おにいちゃん!」
 妹は泣いていた。
「泣くな。俺はお前が誇れる男になって帰ってくる。そのために出かけるんだ」
「ゲンタ!」
 おじさんがタラップの上から呼んだ。
「お、おう」
 元太はタラップを駆け上った。
 そしてタラップは外された。
 哀は笑顔で船を見上げていた。
「飛行機とは全然違うわね」
 隣に立っていたコナンも船を見上げた。
「ん? 何が?」
「何ていうのかしら、旅立ちの友を送るということの風情というか感動というか…」
「教育的効果を狙ってるんだよ。飛行機であっさり行くよりも船で時間をかけていくことにな。その証拠に、おじさんまで一緒に乗ってるだろ」
「小嶋くんだけじゃなくて、私たちにもよ」
「そうだな。こんなこと、今時そうそう体験できるものじゃないからな」
 話す二人の後ろに蘭がいた。船を見上げるコナンを、そっと見ていた。
「お、元太だ」
 甲板の上から紙テープを投げる元太。他の乗客も次々と投げる。
 歩美はぱっと駆けだして元太の投げた紙テープを拾った。
「歩美ちゃん!」
 光彦も駆け出す。
「がんばってね、元太くん!」
 歩美は叫んだ。
 元太に聞こえていたかどうかはわからない。元太も大きく手を振っていた。
「行こう」
 コナンは哀の手を取った。
「え? あ、ちょっと」
 コナンも駆け出して、桟橋の縁まで行った。引っ張られて哀も続く。
「がんばれよ、元太!」
 コナンも大声で叫んだ。
「小嶋くん、元気でね!」
 哀も大声で叫んでいた。
 やがて船は動き出した。
「元太くーん!」
 歩美は泣いていた。
「さようなら!」
 光彦も叫んでいた。
 元太も何事か叫びながら大きく手を振っていた。
 船はゆっくりと、しかし確実に遠ざかっていく。やがて元太の姿もわからなくなった。
 ぐすぐす泣いている歩美の肩を、光彦はそっと抱いた。
「歩美ちゃん、元太くんは夢を追って希望に燃えて旅立ったんです。さ、泣かないで」
「うん、うん…光彦くん」
 歩美は光彦にすがりつくようにして泣いた。
 光彦は真っ赤になりながらもじっと立っていた。
「行っちまったな」
 コナンは小さなシルエットとなった船を見ていた。
「ええ」
 コナンは哀の手を握ったままだった。
 蘭は遠くからそんな二人の後ろ姿を見ていた。
 哀はちらっと蘭の姿を視線の端に捉えた。それからコナンの横顔を見た。
 コナンはじっと船を見ている。哀の手には、コナンの手の微妙な力加減の変化が伝わってくる。それでも、決して後ろを振り返ろうとはしなかった。
 蘭は静かに微笑んだ。
(さよなら、新一…)

*****

 四月、二人が二年生となる始業式の日。
 コナンと哀は阿笠邸の玄関に並んだ。
「よし、撮るぞ」
 三脚のカメラを覗く博士。
 そして切られるシャッター。

 二人はいつもより少し早く家を出た。雲一つない快晴。通学路沿いの桜の木も、今まさに満開であった。
「今日から二年生か」
「早いものね」
「それは俺たちが一九歳だからだよ。歩美や光彦たちには長い一年だったはずだ」
「そうね…でも、いろいろあったわ」
「そうだな…去年の今頃からじゃ、想像もできなかった」
 二人は、しばしそれぞれの思いにふけりながら黙って歩いた。
「ねえ」
「ん?」
「クラス分けだけど」
「たぶん同じクラスさ。四人とも」
「あなたもそう思う?」
「ああ。クラス分けってのは恣意的だからな。だいたい、お前が1−Bに入ってきたことからして、偶然であるわけがないだろ」
「そうよね」
 ふふっと哀は笑った。
「私たちは、所詮博士の手のひらの上の孫悟空」
「それもいいさ。博士が俺たちに手渡そうとしているバトンの中身、大いに興味があるからな」
 哀は大真面目な顔でコナンの顔をのぞきこんだ。
「一つ、聞いてもいい?」
「何だ?」
「私、子供の頃の思い出なんて、一日中化学の勉強をしていたな、ってことしかないの。だから、今は毎日がものすごくかけがえのない大切なものに思えるの」
「…そうか」
「だけどあなたは、私からすれば普通の子供の生活を体験してきたわけで、今は二度目になるわけでしょ?」
「まあ、そういうことになるな」
「退屈だとか、人生を損した、とか思ってないの?」
「つまり、お前の目には、俺が全然そう思っていないように見える、ってことだな?」
「もし、気分を悪くしたのならごめんなさい」
「気分が悪いなんてことはないさ。俺は江戸川コナンなんだ。工藤新一じゃない。だから、最初のうちはともかく、今は、退屈なんて感じてる暇なんかない。まして、人生を損したなんて、考えたこともない」
 きっぱりと言い切るコナン。
「何よりも、お前に出会えたからな」
 哀は、コナンの視線を逃れるかのようにぱっと駆け出した。
「え、あ…」
 三メートルほど先で立ち止まった。
「私も…」
 くるりと振り返る。
「私も、あなたに出会えて本当に良かった」

(おわり)
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