アンカーでなくても
警視庁、刑事部長の四角い顔は、穏やかではなかった。
「これではマスコミが騒ぎ出さないか?」
「妃英理にちょっかいを出すマスコミがあるとは思いません」
直立不動の松本が言い切った。
「ふむ」
刑事部長はゆっくりと立ち上がると、窓から法務省の赤煉瓦庁舎を見下ろした。
「東京地検は未だに何とも言ってこない。この件を警察に押しつける気だ」
松本のほうへ顔を向けた。
「ならば、警察の事情で決めてもよかろう」
刑事部長は席に戻ると、決裁印をぐいっと押した。
目暮は自分の椅子にどかっと座った。
「白鳥くん」
「はい」
「君も来てくれ」
「何でしょう?」
「来ればわかる」
会議室には、美和子に高木、そして鑑識のトメさんがいた。
その奇妙な顔ぶれに白鳥は首をひねった。
目暮はカセットプレーヤーをテーブルの上に置いた。
「君たちに集まってもらったのは他でもない。妃法律事務所の件だ」
「方針が決まったんですね?」
高木が尋ねた。捜査は、上のほうの判断待ち、という理由で止まったままだった。
「捜査は打ち切りと決まった」
目暮の言葉に、白鳥はもう一度首をひねった。
「送検もしないんですか?」
「そうだ」
「どういうことです?」
目暮はカセットを取り出した。
「これからこのテープを聴いてもらう。聴けばわかることだが、他言は一切無用」
再生ボタンを押す。
『それでコナンくん、今日私に話したい大人の話ってなあに?』
『今回の事件、僕たちなりに調べたんだ』
『コナンくんと灰原さんね。森田高光さんから聞いたわよ。昨日家に行ったんですってね』
「コナンくんが?」
高木がつぶやく。
「しっ」
美和子は口に人差し指を立てた。
『三年前の事件、そして今回の事件、そもそもは六十年前の満州であった出来事が原因なんだ。昭和十八年五月、新京東病院の薬剤部に勤務していた森田宗太郎さんと種子田春江さんは結婚した。そして高光、千里の二人の子供をもうけた…』
コナンの良く通る声に聞き入る面々。
『…つまり、貴方の推理を警察、検察に披露したところで、私への処分が変わる可能性はまったくないのよ』
『わかっています。奈良井剛市さん、森田宗太郎さん、春江さん、この三人が守り抜いた秘密は、僕も、ここにいる灰原も、このまま墓場まで持っていきます』
目暮以外、驚きの表情を隠さない一同。
『甘いわね…いえ、優しすぎる、とでも言うのかしら。現実はね、もっとどろどろとして醜く汚いものなのよ…森田宗太郎と名乗っていた人物が実は別人であったこと、奈良井剛市と名乗っていた人物が本当の森田宗太郎だということ、それは貴方の言うとおり。でもね、森田宗太郎さんの本当の名前は武市明。奈良井剛市という名前は、新京から逃れるさいにソ連軍に撃たれて死亡した武市さんの同僚の名前。本当の森田さんが武市さんに身代わりになってもらったのは、病気でも怪我でもない、彼がソ連軍に追われていたからよ…』
英理の言葉に神妙な面持ちの一同。
『…後はだいたいコナンくんの推理したとおり。春江さんが私に恨みを抱いた理由は、彼女と会ったときにその視線でわかったわ。私が自分の無敗記録を伸ばすために色香で夫をたぶらかした、とでも思ったんでしょう』
目暮は停止ボタンを押した。
「これが事件の真相だったんだ」
白鳥はうむとうなずいた。
「なるほど…」
「しかし、我々も森田高光さんに事情聴取しましたが、身代わりのことなんて…」
高木がつぶやくように言う。
「完全ではなかったにせよ、あそこまで推理するなんて、コナンくんと哀ちゃんって…」
美和子も真剣な表情。
目暮はじろりと一同を見た。
「このテープの内容については、警察の公式な書類には一切記載されていない」
「どういうことですか?」
高木が腰を上げた。
「高光さんと千里さんに、自分の父親だと思っていた人物は実は身代わりの他人で、本当の父親は空き巣の常習犯だったと教えるつもりかね?」
白鳥が冷静に言った。
「あ、ああ、なるほど…それでコナンくんは秘密を墓場まで持っていくと…」
「そういうことだ」
目暮が立ち上がった。
「では…」
「待ってください、警部!」
高木も立ち上がった。
「ん? 何だね」
「コナンくんと哀ちゃん、一体何者なんですか…コナンくんは本当に工藤…」
「高木くん!」
目暮は高木の声を遮った。
「一七歳の人間が七歳児に逆戻りした…もしもそんなことが世間に漏れたら、いったい何が起きるかね?」
神妙な面持ちになる白鳥。驚く高木。
「そういうことだ。警察の仕事とは何か、もう一度教科書をよく読んでみるんだな」
目暮警部はカセットを持って会議室を出ていった。
トメさんは穏やかに微笑んでいた。
「では、私はこれで」
そう言って出ていった。
高木は美和子を見た。
「何? 高木くん」
「いえ…松本管理官の言葉の意味が良くわかりました」
「そう。一つ賢くなったわね、お互い」
美和子は微笑んだ。
(まずいな…)
白鳥はまったく別のことを考えていた。
*****
「忘れ物はないか?」
小五郎が尋ねた。
「うん。大丈夫だよ」
コナンはにこやかに答えた。
「よし」
小五郎はバンの後部ハッチを閉めた。
毛利探偵事務所。コナンが約十ヶ月間暮らした家。
あの日以来蘭とは会っていない。今日も蘭は姿を見せなかった。
「これをお前に返しておく」
小五郎は一通の封筒を差し出した。
受け取って中を見ると、額面一千万円の小切手が入っていた。変装した母、由希子が、小五郎に養育費だと言って渡した小切手だ。
「おじさん、これ!」
「お前もまだまだ何かと入り用だろう」
「でも、おじさん…」
「心配するな。俺は、中古とはいえ家一軒、キャッシュで買える男なんだぞ」
「だ、だけど」
「もし、お前が俺に恩義を感じているのなら、お前が成人したとき、今度はお前が、別の誰かを助けてやればいい」
コナンはうんと深くうなずいた。
「わかったよ、おじさん…長い間、本当にありがとうございました」
コナンは深々と頭を下げた。
「ああ。俺も楽しかったよ。自分に息子ができたみたいでな…さ、行くぞ」
「うん」
*****
阿笠邸に着くと、博士と哀が門のところで待っていた。
2月、風はまだ冷たい。
「わざわざ外で待っててくれなくてもよかったのに」
コナンがそう言うと、博士がにやりと笑った。
「いやな、哀くんが…」
「同居人が正式に引っ越してくるんですもの、このくらいわね」
哀は平静な表情で言った。それだけ言うと、くるりと後ろを向いてしまった。
「さ、おじさん、こっちです」
さっさと玄関に入っていってしまう。
小五郎はふふっと笑った。
「おお、コナン、お前もなかなかやるじゃないか」
「はあ?」
「彼女、君が来るのをそわそわしながら待っておったんじゃ」
「別に、荷物を運んできただけなのに」
「まあまあ、とにかく運んでしまいましょう」
小五郎が後部ハッチを開けた。
コナンの荷物と言っても、着替えと身の回りの小物、段ボール二個の本くらいのものだった。それを二階の部屋に博士と小五郎で十分もかからずに上げてしまった。
小五郎はすぐに車に戻った。
「じゃあな、コナン。さよならとは言わん。またな」
「おじさん、上がってちょっと…」
「ああ、この後ちょっと重要な用事があってな、慌ただしくてすまんが、俺はこれで」
博士がコナンの肩に手を置いた。
「コナンくんのことはお任せください」
「ええ、よろしくお願いします、博士。では」
小五郎は軽く頭を下げると車を発車させた。
車が見えなくなるまで、コナンは深々と頭を下げていた。
「さ、中に入ろうか」
博士が優しく言った。
「うん」
居間に入ると、哀が台車を押して来たところだった。パソコンが乗っている。
「用意しておいたわよ」
「おお、サンキュー。いやあ、欲しかったんだ俺専用のパソコン」
しかし白いパソコン本体は飾り気もなく。まことに無骨なものだった。
「メーカーは…赤星金属? 何か聞いたことないメーカーだな」
「ああ、これはケースのメーカーよ」
「ってことはこれ、いわゆる自作PCってやつ?」
「そうよ。メーカー品じゃ性能が全然遅れてるし、部品の交換が面倒でしょ」
「いやあ、まあ、俺としてはウエッブとメールくらいで…後は…」
「だめよ。パソコンっていうのは、性能が気になるくらい使いこなさなきゃ」
「そうかあ?」
「大丈夫。私が教えてあげるから」
「いや、基本的なことは…」
「とりあえずパソコンのセッティングくらい自分でやりなさい。女の子に一から十までやってもらうんじゃ、男の矜持が許さないでしょ」
「別に、そんなことで矜持云々なんて…」
コナンは哀に引っ張られるようにしてエレベーターに乗った。
そして、正式にコナンのものとなった部屋に入った。
「パソコン本体は机の上に置く?」
「そうだな…」
机の上にパソコンを上げるのは小学生には無理というもの。
「上にあったほうが便利だけど、博士呼ばないと」
「ふふ…あなたにしては観察が足らないわね」
哀が台車の取っ手にあるボタンを押すと、台車はぐぐぐと持ち上がった。
見ると、床との間で縦長の風船のようなものが膨らんでいた。
「へえ、これは…」
あっと言う間に机と同じ高さになったので、パソコンを二人でずりずり移動させた。
「こいつはすげえや。どういう仕組みなんだ?」
コナンは風船状の物体を触った。
「こちこちに固いな…これは一体?」
「秘密」
哀はさらりと言った。
「え?」
「この仕組み、世の中に出したらものすごく役に立つと思うでしょ」
「ああ、こいつはすごいよ」
「でも、出すわけにはいかないの」
「どうして?」
「現在の物理学では説明できないから」
「ど、どういうことだ?」
「博士の発明品には結構あるのよ」
「お、おい…」
「そう、阿笠博士という人は、既知の科学では説明できない物を作る人なのよ」
「そんなばかな」
「本当よ。キック力増強シューズなんて物を使ってて、今まで気が付かなかったの?」
コナンはぞっとした。
「い、言われてみれば…」
「ようするに、阿笠博士という人は、私たちの想像をはるかに超えた人なの」
コナンはうーむと考え込んだ。
くすっと哀は笑った。
「どうする? 同居はやめとく?」
「いや、そんなとんでもない人物の側にいると、この先、いろいろ面白いことがありそうだ」
「ふふ…おいおいわかると思うわ。この家にある数々の超科学技術がね。それもさりげないところに」
コナンは椅子に座った。
「だんだんわかってきた気がする」
コナンは不敵に笑っていた。
「え?」
「俺たちはやっぱり実験の対象なんだ」
「どういうこと?」
「人類が発展させてきた既存の科学とはまったく違う、高度な文化の技術がどこかに保存されているんだよ。宇宙人の置きみやげなのか、超古代文明の遺産なのか、そいつはわからないが、それを解禁しても大丈夫かどうか試してるんだ」
「博士がすなわち宇宙人だった、なんてこともあり得るわよ」
「ああ、そういうことだってあり得る」
「怖くないの?」
「怖がってどうする? 今さら。ここまで深くかかわってしまった後で」
「そうね」
哀はそう言って窓辺に移動し、窓の外を見た。
「私は、そういう解禁しても大丈夫な人間を育ててるんだと思うけど?」
「ああ、もちろんそういうことでもあるだろうな」
「円谷くんも歩美ちゃんも、その対象ってわけね」
「もちろん。元太は元太でまた何か別の目的があってアメリカに送るのさ」
「この先、どういう未来が待っているのかしらね」
「俺たちはゴールを見ることができないのかもしれない」
「え?」
哀は振り返ってコナンを見た。
「博士が言ってただろう? 人間は一人一人がリレーの選手なんだって。つまり、俺たちがアンカーでなくても何も不思議ではないのさ」
ふふと哀が笑った。
「そうね。SFなんかじゃ、何百年と先祖代々受け継がれてきた秘密の、まさにアンカーが主人公ってことは良くあるけど、そこに至るリレーの途中の人たちだって、主人公と同じように生きた人間だったんだものね」
「そういうこと。ま、そのうちゴールを予測できるくらいにはなれるだろう。博士が手元に置いておいてくれるんだから」
コナンは哀をじっと見た。
「退屈しない人生になりそうだな」
「小学一年生がおじんくさいこと言わないの」
「おじんくさい? そうかな?」
「そうよ。人生の話もいいけど、当面の仕事仕事」
「ああ、そうだった」
「じゃ、これ」
哀はOSのディスクを差し出した。
「え?」
「インストールよ。だって、ハードディスクはまだフォーマットもしてないもの」
哀はにまっと笑った。
コナンはやれやれと思った。
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