届かなかった想い
蘭はベッドの上でじっと、薄暗い天井を見ていた。
カーテンの隙間からの光がだんだん弱くなってくる。外はもう夕方なのだ。何時間時計を見ていないのだろう。
ドアが開いて、小五郎が入ってきた。しかし蘭は反応しなかった。
枕元にはきれいに食べられた食器の乗ったお盆。
「おお、飯はちゃんと食ってるみたいだな」
小五郎は明かりを付けた。ぱっと部屋が明るくなった。
蘭はゆるゆると首を動かして、小五郎を見た。
「お父さん…お父さんは知ってたのね。最初から、全部」
「ん? コナンのことか…阿笠博士から頼まれてな」
「お母さんも知ってた」
「そりゃあ、俺が話したからな。あの子は誰、って聞かれたから」
「どうして、私には黙ってたの?」
「俺はコナンの意志に関係なく知った。だから知っていても知らないふりをしていたんだ。お前に知らせるかどうかはコナンの判断だろう」
「…結局私は、最初から完全に蚊帳の外だった、ってことね」
「英理から聞いたと思うが、新一が生きていることは秘密にしなければならない。俺が今日まで、いかにして秘密を守ってきたか、身近で見ていたお前にはわかるだろう、そういうことだ」
「私だって、秘密くらい守れるわよ」
「それがうぬぼれだと言うんだ。お前は自分の身の程というものを知らない」
「私はそんなに馬鹿だと言うの?」
「蘭…新一の、いや、コナンが今いる世界は、お前にはついていけない領域にあるんだよ」
「どうしてそんなことがわかるの!」
「簡単な例で言おう。お前には、コナンの行動を助けるだけの知識と経験があるのか?」
「そ、それは…」
「いいか、世の中には百メートルを10秒以下で走れるやつもいれば、2m以上のバーを飛び越えられる者もいる。漢字を何万字も書けるやつもいれば、何十桁の暗算をこなせるやつもいる。野球の選手はテニスが下手でも飯は食えるし、将棋の棋士は囲碁が弱くても何も問題はない…つまり、お前がコナンの足手まといにしかならない存在であったとしても、お前には、まったく別の領域でお前の才能を活かせる場というものがあるんだ。必ずな」
「あ、足手まといって…ひどい!」
「何がひどい。ならお前は、今すぐ内閣総理大臣の秘書を務められるか? 足手まといになるだけだろう。同じことだ」
「そんな極端な例を持ち出さないで」
「人はよく自分に才能がないと言って嘆くが、それは間違いだ。単に自分の才能を活かせる場を発見していないだけだ。それはなぜか、努力の方向が間違っているからだ。人間、まずやるべきことは、自分の能力を活かせる場を見つけることなんだ。活かすことができない場に固執すること、これこそ人生最大の不幸だ」
「私が新一に固執するのは間違いだって言うの?」
「その通り。残念ながらな」
「どうして? 私はただ新一を好きなだけよ。新一だって私を…私を好きだった…そのはずよ。あの日、トロピカルランドで別れるまでは」
「ほう、好きだと言い切ったか」
「そうよ。いけないの?」
「お前の好きっていうものの中身は、新一に何かしてほしいってだけだろう」
「違う。私だって新一のために何かしてあげたい」
「そばにいたいだけじゃない、そう言いたいんだな」
「もちろん!」
「お前は新一のために命も賭けられる。コクーンの時もそう、ツインタワービルの時もそうだったな」
「そうよそうよ、そのとおりよ」
「たしかに、そいつは誰にでもできることじゃない。だから、お前は自分に自信を持っていいんだ。だがな、それでもお前の新一への感情は、所詮子供の時のまま…もう大人のコナンには届かないんだ…ふふ…まったく奇妙な話だがな」
「私はまだ高校生だもん、その、恋愛とか、そういうものに、子供っぽいところがあるのは当然でしょ!」
「だが、コナンは大人だ。それも、そこらの本当の大人など足下にも及ばないほどにな。残念ながらお前が割り込む余地はないんだよ」
「その相手が哀ちゃんだって、言うのね」
「そうだ」
蘭はがばっと布団を被った。
「知ってたわよ、そんなこと…コナンくん、哀ちゃんとものすごく真剣な顔して事件の話をしてた…たぶん私なんか理解できないような難しい話よ…あれがコナンくん、新一が本当に話したかったことなんだって…そんなこと、そんなことすぐにわかったわよ。その相手が私には無理だってことも…」
「そういうことだ。わかっているのなら、自分の道を誤ったりはしないな…少し安心したよ。さすが、俺の娘だ」
小五郎は明かりを消し、お盆を持って静かに部屋を出ていった。
*****
その頃元太は、ちょうど店じまいが終わって、これから夕食、というところの小嶋商店に帰ってきた。
「ただいま」
「おお、おかえり。大変だったなあ」
元太同様大柄な父親。
元太は彼には珍しい神妙な顔をしている。
「なんだ、その顔は?」
父は最初笑いを漏らしたが、元太の様子を見てすぐに引っ込めた。
居間に父と母そして一番上の兄と一つ年下の妹、そして元太、一家全員が集まっていた。元太は家族を前にきちんと正座して座った。
「電話で言ってた、家族に大事な話ってなんだい?」
母親が尋ねる。
「お前が改まった話をするなんて、何かあったのか?」
兄が不思議そうな顔をする。
元太は一つ息を吸い、吐くと、切り出した。
「父ちゃん、母ちゃん、俺、アメリカへ行きたいんだ」
兄と妹は大いに驚いたが、父と母は驚く様子もなく聞いていた。
「アメフトをやるんだな」
父は念を押すように尋ねる。
「ああ…じゃなくて、はい、そうです。だから、いや、ですから…」
元太は大きな体を窮屈そうに曲げて頭を下げた。
「父ちゃん、母ちゃん、俺をアメリカに留学させてください。お願いします」
兄はあっけに取られた。
「おじさんに誘われたのか?」
元太は顔を上げた。
「そうだけど、これは俺が自分で決めたんだ」
「だけど、お前、まだ小学一年生だぜ、まさか今からなんて」
「早ければ早いほどいいっておじさんが言ってた。俺も一日も早くアメリカへ行って、スーパーボウルを目指すんだ」
「おいおい…」
半ば本気にしない兄に対し、父はうむとうなずいた。
「元太、後悔しないな」
「当たり前だ」
父と母はお互いを見て、うなずきあった。
そして父は元太を見て言った。
「そうか…なら行ってこい。そのかわり、やるからには世界一を目指せ」
兄は大いに驚いた。
「と、父さん、だって、そ、そもそもそんな金、うちには…」
「大丈夫だよ」
母親が優しげな表情で元太を見ながらそう言った。
「阿笠博士の推薦で、奨学金がもらえることになってるんだよ」
「奨学金?」
妹が不安そうに立ち上がった。
「お兄ちゃん遠くへ行っちゃうの?」
母はそっと妹の肩に手を置いた。
「大丈夫。所詮同じ地球の上だからね。それに、一年に一回くらいは帰ってこられるだろ」
「正月は無理だけど夏には帰れるって、おじさん言ってた」
「で、いつ出発するんだ?」
父親は具体的なことを話し出した。
「ええと、横浜港三月三一日午前十時三十分、さんらいず丸だ」
兄は驚いた。
「横浜港って、お前、船で行くのか?」
*****
翌日、久しぶりに晴れて気持ちのいい朝。
コナンは今日も阿笠邸から登校である。
通学路、コナンと哀は並んで歩いていた。
「ねえ、ちょっと気になってるんだけど」
哀が唐突に切り出した。
「ん? 何を?」
「彼女のお見舞い、行かなくていいの?」
哀は普通の声で普通に言った。昨日、園子に連れられて見舞いに行ったと思いこんでいたのだが、帰宅後、そうでなかったことだけ聞かされていた。
「おっちゃんも妃先生も、今はそっとしておいてくれって言うから…やめとくよ」
コナンも普通の声で答えた。
「そう…」
コナンは哀を見た。
哀はその視線に気が付いた。
「何?」
コナンはふふっと笑った。
「お前は聞きたいだろうし、俺は話したい。昨日からずっと」
「え?」
「昨日、園子と俺が何を話したか」
「そうね。聞きたいわ」
一呼吸間を置いて、コナンはぽつりと言った。
「聞かれていたんだ、蘭に」
哀には一瞬何のことだか理解できなかった。
「日曜日の夜八時すぎ、蘭から園子に電話がかかってきたそうだ。泣きながら、新一にふられた、と」
あまりの事態に、驚愕の哀。
「それって、まさか!」
「そうだ。妃先生の事務所からの帰り、俺たちの会話を聞いてたんだよ、蘭は」
哀は、まるで平静に話すコナンの顔を凝視した。
「…落ち着いてるわね」
「焦ってどうなる?」
哀にとって、コナンの反応のほう驚きだった。
「いつかはわかることだよ」
コナンはそう言った。
「それでいいの? 工藤くん?」
「ああ、いいんだ」
「…強いのね」
「そうか?」
「そうよ」
コナンは微笑んでいた。心の動揺は本当にないようだった。
「俺は、お前に出会えてよかったって思ってるからな」
「そ、そう」
哀はあわてて下を向いていた。
「どうした?」
哀はぱっと顔をあげた。その顔は真っ赤だった。
「こんな顔してるの、男の子には見られたくないものなの!」
「コナンくん」
光彦だった。
哀はあわてて首を振った。
「どうしました灰原さん」
「別に」
すっかりいつもの顔に戻ってる哀。
「おはよう、哀ちゃん!」
歩美は今日も元気いっぱいである。
「おはよう」
哀もにこやかに答える。
あきれるコナン。
(やっぱこわい女…)
四人が校門の前に差しかかったとき、元太が前を歩いていた。
「元太くん!」
光彦が呼んだ。
くるりと振り向いた元太は、四人が知っているいつもの元太ではなかった。
「おはよう」
声にも何やら重みが感じられる。
「ど、どうしたんだ、元太?」
コナンは軽いうろたえを言葉に出してしまった。
「悪かったな、飛行機の事故で学校休んじまってよ」
「いやあ、あれは事故じゃありませんよ。不可抗力ですよ」
「ふかこうりょく?」
歩美はいつものように素直な質問。
「そうだぞ、光彦、ふかこうりょくって何だ?」
少しいつもの調子が出てきた元太。
「ああ、不可抗力というのはですね…つまりその、その人にはどうすることもできない事象を言うんです」
ふふっとコナンと哀は笑った。
「おい光彦、それじゃ事象ってのが余計に難しいぞ」
「うん。じしょうって何?」
案の定歩美が尋ねた。
「ま、事象は置いといて…不可抗力とは、人にはどうすることもできない力ってこと。たとえば今回飛行機が飛べなかったのは嵐のせいでしょ。嵐なんて小嶋くんにはどうすることもできないじゃない」
「なるほど、さすが哀ちゃん」
「おお、俺にもよくわかったぞ」
光彦はうむとうなずいた。
「なるほど…事象という言葉は正確を期しすぎた、ということですね」
一人納得する光彦に、コナンと哀は軽い疑惑の視線を向けた。
「ところで元太くん、沖縄はどうでしたか?」
話の切り替えが早い光彦の質問に、元太の顔は神妙になった。
「お、おう、その話は、昼休みに発表する。それまで待ってくれ」
顔を見合わせる四人。
*****
昼下がり、妃英理のマンションでは、ようやく起きてきた蘭と英理が向かい合って紅茶を飲んでいた。
「お母さん、仕事はいいの?」
「事件のおかげでしばらく暇になりそうだし…あなたとこうやってゆっくり話すいい機会よ」
「ごめんなさい」
「いいのよ。たまには母親を頼りなさい」
「うん…」
「少しは気持ちの整理がついた?」
「全然…でも、いつまでも落ち込んでてもしょうがないし」
「そうよ。しっかりしなさい。長い人生いろいろなことがあるわよ」
チャイムが鳴った。
「あら、誰かしら」
インターホンに向かう英理。
「はい」
『こんにちは。園子です。蘭はいますか?』
「あら園子ちゃん。ちょっと待ってて」
寝室のベッドの上に欄と園子は並んで座った。
「どうしたの? こんな時間に」
「早引けよ、早引け。親友が落ち込んでるときに、じっと授業なんか聞いてられないでしょ」
「ごめんね」
「いいのよ。気にしないで。はい、これ。英語と数学のノートのコピー」
「ありがとう」
「でもよかった。想像してたより元気そうじゃん」
「そうでもないよ…」
園子は蘭を真剣な表情で見た。
「ところで蘭、あんたの言ってたとおりだったわ」
「え?」
「コナンくんよ。あの子、ほんとに新一くんだったのよ。理屈は知らないけど」
「うん…」
「でね、昨日、あの子に聞いてみたの。本当はどうなんだって?」
「新一かどうかって?」
「違うわよ。あんたをふったわけよ」
蘭は驚いた。
「ちょっと、ほんとにそんなことしたの?」
「ええ。でもね…」
園子の顔は曇った。
蘭は自嘲するようにふっと笑った
「のらりくらりとかわされたんでしょ」
園子は首を横に二回振った。
「待っててくれって言い続けてたのはあんたじゃない、あれは全部嘘だったのって言ったら、そしたらあの子、何て言ったと思う?」
いきなり核心をついた言葉に、蘭は思わず息をのんだ。
「その罪は一生負わなければならない。それだけの覚悟が無ければ、人を愛する資格なんてない。それが人間なんだ…ってそう言ったのよ」
蘭はその言葉をかみしめるように、頭の中で反芻した。それは紛れもなくコナンの、そして新一の言葉だ。
「そう…」
悲しいというよりも寂しいという顔だった。
「つまらん言い訳したら、ぶん殴ってやろうと思ってたのよ…だけど、あの子、急に大人になってた…私、反論できなくってさ…」
少し笑顔をつくる園子。
「ほら、私は、あんたと新一くんのこと小学生の頃から知ってるし、ずっと相思相愛だと思ってたの…なのに…なのにね、あの子をひどい奴だって思えなかったんだ…」
「子供のおままごとだったのよ」
「蘭…」
「私は今でも新一を好き、それは本当。でも、新一には…コナンくんには届かなかった…」
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